いつの間にか随分とたくさんの会に、それもほとんど全てが幹事という形で関わることになってしまった。私は毎年年賀状を書く際、そうした会の名簿を見ながら、会の名称を書き留めることにしているが、本年分について会の数を数えてみると90程にもなっており、しかも年々少しずつ増えているようだ。全ての会の会員数を合計すると延べ2500人程になるが、複数の会に参加している方も多数おられるので、それらの方を相殺するとネットでは1500人程であり、これは私が交換する年賀状の数にほぼ一致する。
何故このように多くの会に関わることになったのかは、自分でも良く分からない。明らかなことは、自分から進んでなった幹事職は皆無であり、全て頼まれて受身的に引受けたものばかりであることである。断れば断ることもできたのに何故断らなかったのだろうか、一度つらつらと考えてみた。
一つには、何といっても多くの人を「知る」ことができることであろう。前記の多数の人は、年齢、職業、住所、出身校など実に多岐にわたっているが、そうした方々と度重ねて交流することによって少しずつ関係が深まっていくことを実感している。
こうしたことを私が感ずることができるのは、上記の会が全て「私的な」会であるためだろう。そうした場では人は、仕事場などとは違って裃を脱いだ自然な、素直な姿で接して頂けるので、逆に私も同様の姿で接することになり、次第に交流も深まっていくように感じている。例えば、如水会町田支部でご厚誼を頂いている飯田白馬先輩は、NHKスポーツアナウンサーとして活躍された方としてご存知の方も多いと思うが、私より20歳も年上にもかかわらず旅行を始め支部行事にはほとんど全て参加される内に交流も深まり、先日同氏から「河井さん、いつもお世話になり感謝しております。私が墓場に行くまで、何かとよろしくね。」とのメールを頂き、驚くと同時に感激もした。
また疎遠になり勝ちな若い人と交際できるのも幹事職ならではの面もある。前記町田支部では平成17年度に「平成卒業生の会」を立ち上げることとしたが、去る6月初め、「如水会平成の会」の幹部4氏と懇談し、彼らからノウハウの指導を受けたが、最後に彼らから「先輩たちの経験、知識をどんどん吸収したいので今後ともお付き合いを深めたい」との言葉を頂きこれにも感激した。もとより私は彼らのためになるような経験も知識も持ち合わせていないが、私の息子たちとほぼ同世代の彼らや支部の若手と交流を深めていければこんなに楽しいことはない。
多くの幹事を引き受けるに至った第二の動機は「勉強になる」ということだろう。多数の会のほとんど全てが卓話・講演、見学会等と懇親会との併催形式をとっているので、幹事として会員の興味、関心が何かを耳を澄ませて吸収しなければならないし、選んだ講師やテーマについても事前にある程度勉強しておくことも必要となる。また当日の卓話・講演や見学そのものが勉強になることはもちろん、記録をまとめる際もさらなる勉強が必要になることが多い。
こうした意味で最近印象に残る出来事があった。本年2月26日(土)、如水会町田支部の「地元の歴史・文化・芸術を学ぶ勉強会」で町田市立自由民権資料館を訪れた際、若い学芸員・杉山さんのお話に全く驚嘆した。すなわち最近、多摩地方五日市の土蔵の中から、純民間人の千葉卓三郎らが起草した憲法草案(五日市憲法)が発見された由。そこには、「日本国民は、ひとりひとりの権利や自由を究極のところまで追求しなければならない」という、国民の権利について現在の憲法に通ずる条文もあるという。これが起草されたのは明治14年春から夏頃で、明治22年大日本帝国憲法が公布される8年も以前とのこと。
当時の多摩地区は、山梨、埼玉、群馬等生糸の生産地と消費地・横浜を結ぶ「絹の道」の中間点に当り、経済活動が活発であったと同時に、横浜に近いこともあり新しい情報、思想も流入してきたことなどから、富裕農商民をリーダーとする自由民権運動が非常に活発であった。前記の憲法草案もこうした時代背景の下に起草されたようであるが、それにしてもどのように勉強されたのであろうか、千葉氏ら地元の大先輩に敬意を表したい。
このように思いも掛けない勉強ができるのも、幹事職の賜と感謝している。
以上のように、私にとって「人を知る」ことができ、また「勉強にもなる」幹事職であるが、もし望まれるならば「楽しみながら」続けていければ幸いである。
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