如水会昭和42年会  
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■現在地:ホームリレーエッセイ

■リレーエッセイ

42年会誕生の頃

永井孝彦 Cクラス

1,同期会がない
サラリーマンを辞め、家業に就いてから考えた。いままで会社の内に向かって生きてきたが、これからは他の価値も探さなくてはと。大会社と小会社では価値観もかなり違いそうだ。小会社の友人と連絡を密にし、生き方を教えてもらおう。そこでやや遠路だが、同じクラスの石田隆敏君を訪ねることにした。石巻市の水産会社の役員をしていた。倒産会社を再建中であるという彼からは「事業への必死さ」を学んだ。漆黒の闇に囲まれた石巻の居酒屋で彼と一杯やりながら、ふと話題になったのが、我が学年には「なぜか同期会がない」ということだった。他の学年は20周年を実行していた。わが学年では何も行われず、つぎの25周年を目前にしていた。「どうしたら同期会を作ることができるかな。同期会を作るといっても手がかりがないね。」すると石田君は言った。「いや俺の柔道部の仲間にふさわしい男がいる。彼なら頼り甲斐がある。」東京に帰って、早速その男を訪ねた。丸の内の化学会社の応接室で面会した。「賛成だ。応援する。」石田君の言ったとおりの男ぶりの良い男だった。その好漢の名こそ田所保。

2,会長に最適な男
第二段階は如水会だった。同期会をつくるにはどうすればよいか如水会事務局に聞きに行った。応対してくれたのは、白石業務部長だった。にこやかに出迎えてくれた。「良く来てくれた。42年会を是非つくってほしい。そして会長には最適の男がいるぞ。現在如水会の若手会の代表になっている人物だ。」その最適と言われる男に会いにいった。銀座のホテルの喫茶室だった。鋭い眼差しを放つ紳士だった。「おう異議ないぞ。」その勢いで彼の会長がほぼ決まった。その眼光の紳士こそ江口洋。

3,アジテーター
同期会結成の準備会が開催されたのは、平成3年。1991年5月18日だった。如水会館に集まったのは、20人。その20人の志士の中でも異彩を放つ一人の男がいた。最後に彼から締めくくりの発言が出た。「どうせ25周年を開催するなら、他の学年に負けない盛大な会をやろうぜ。」そのドスの利いた一言。眠っていた猫が目覚めたように、皆から喝采がわき起った。そのざわめきの内に42年会が動き出した。そのアジテーターの名こそ、今は亡き一橋大学経済研究所教授、平井規之。

4,最初の二十人
すべては最初の準備会から始まった。その誉れ高きメンバーの名前を記しておこう。
木下謙一、田所保、立石正之、山崎隆一郎、佐々木孝三、中村恒雄(後列)
井上武、江口洋、羽山章一、西川雅彦、(中列)
岡田健志、月崎博章、平井規之、酒井康道、筒井真人、松生雅好、吉川晋平(前列)
永井孝彦、中原茂行、西川周一(最前列)
* 写真は1991年5月如水会館一階のロビー階段で撮影。


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5,大学保管の名簿
この準備会にとって、最初に問題となったのは、組織をどう作るかであった。ゼミ、クラブ、クラスなどをどう生すかであった。ゼミやクラブには同期の会が存在した。ゼミやクラブを中心にすべしという意見が出た。私もその一人であった。それに対してクラス会を中心にすべしとの強力な主張者がいた。江口洋君だった。なんと彼は大学からクラス別名簿を手に入れてきた。如水会名簿と照し合わせれば住所録もすぐに完成できる。この20人が各クラスの核となることも可能だった。結局、組織はクラス単位とすることで落ち着いた。

6,クラス会のないクラス
各クラスがクラス会を作り直し始めた。AからLまでクラス会が再生することになった。この過程で、殆どのクラスがクラス会の復活を喜び、級友との再会を楽しんだ。ただ一つ例外があった。卒業以来クラス会の無いクラス。それはHクラスだった。Hクラスの名簿で電話をしても、クラスを忘れたとか、友人がいないなどと逃げてしまう。準備会としては困り果ててしまった。このとき、それじゃ俺がやろうと手を挙げた怪傑こそ、高山博。彼は学生時代に生協の看板男だったので、皆に顔を知られていた。彼なら大丈夫と皆安心した。彼は期待どおりにクラス会を立ち上げてくれた。その後このHクラスから次期会長(佐藤征男)が出ることになる。が、当時は想像もできないことだった。

7,名簿は宝物
クラス毎に名簿整備が始まった。次にはこのクラス毎の名簿をまとめて、学年の名簿を作成しなければならない。当時はまだワープロが主流で、入力も大変な作業であった。この名簿作成は会長の江口洋が一人で請け負った。一人一人、高校名をいれ、五十音の索引まで仕上げた。名簿は同期会の宝物である。名簿の完成は同期会の完成でもあった。名簿完成は輝かしかった。

8,パーティに何人来るか
25周年パーティを行うにはさらに関門があった。相当数の同期に参加してもらわなければ格好がつかない。幸いにも準備会において、二つの工夫が生まれた。一つは、クラス対抗であった。期せずして参加者数の報告で各クラスが競うようになった。A組やG組がまず数で一番になった。準備会のつど数が発表され、熱を帯びるようになった。結果として全体の参加者数も増加していった。数でかわいそうだったのは、Hクラスだった。もともと総人員がすくないし、クラス会も立ち上げたばかり。参加者もなかなか集まらず、いつも最下位だった。もう一つの工夫は発起人。案内状に発起人を出来るだけ多く印刷することにした。これはクラスで、運動部で、クラブで、ゼミで、寮で、高校仲間で、声を掛け合った。案内状の段階ですでに多くの参加が確約されることになり、参加者の獲得にも効果があった。

9,他の学年会に勝てるか
平井君は他の学年会に負けないようにとアジったが、その結果はどうなったか。結果はなんと一位だった。25周年の参加者を他の学年会と比較して、参加率でナンバーワンという大記録を打ち立てた。33年会と同率の一位だった。見事な仕上がりと言う他なかった。

10,縁の下の力持ち
パーティの準備でも、舞台裏に縁の下の力持ちが揃った。
学生時代の学長の増田四郎先生をスピーチに引っ張りだしたのは、平井規之。
松竹梅の樽酒と升を山のように担いできたのは川村忠太郎。
美人コンパニオンをきらめくように揃えたのはホテル常務の串岡英甫。
戸田からボート部の若いビデオ映像を持ってきたのは中村恒雄。
舞台上で、シンガポールから飛来して花を添えたのはサベス・ムクシン。
大団円の歌でフィナーレを飾ったのはコールメルクールとボート部。

―――突然であるが、ここで残念ながらページが尽きた。
触れられなかった多くの貢献にも深く感謝を表しつつ、ペンを置く。

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