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■リレーエッセイ

「ヌシャガクの一杯」

吉澤 一成 (�汽�ラス)

 今年も7月に、アラスカへキングサーモンを釣りに出かけてきた。今年で7年連続の釣行である。小学生のころ近くの川や沼でフナ釣りをした程度で、清流や海での本格的な釣り経験は皆無の私が、この時期になるとアラスカの原野が眼にちらつき、キングサーモンを釣り上げたときの感動が胸に熱くよみがえり、落ち着いていられなくなる。ここまで、私をアラスカにのめりこませたきっかけは、7年前にさかのぼる。
 
  作家開高健は1989年12月9日、58歳で惜しまれながらこの世を去った。以来、12月9日には作家、出版社編集者や写真家など開高さんと親しかった人たちが集まり、開高さんが生前に続けていたようにボージョレヌーヴォーの樽をフランスから取り寄せ、在りし日の開高さんに想いを馳せ、グラスを傾けることを慣わしとしてきた。この会に新潟県・銀山平の麓の町、小出から毎年欠かさずに参加してくるのが釣師、常見忠さんである。西独・ボンの釣具店でルアーフィッシング用の釣具を買い求め、郊外の湖で楽しんで帰国した開高さんは、釣り雑誌で疑似餌について書かれた文章を読み筆者に「会いたい」と手紙を書いた、その筆者が常見忠さんであった。二人は意気投合し日光丸沼でともに釣りをし、常見さんは開高さんを大イワナが棲む銀山平に案内することを約束する。開高さんはそこから飛躍して『フィッシング・オン』の企画でアラスカに、さらには『オーパ!』で南米アマゾンへと釣竿をかついだ旅を続け、独自のルポルタージュの世界を切り拓いていった。常見忠さんは開高さんを釣りの世界にのめりこませたきっかけをつくった一人ということができるだろう。ヌーヴォーの会で、その常見忠さんから「開高さんと親しかったアラスカのガイド、ジョニーが自分のログハウスを建てたから、開高さんと親しかった人たちで泊まりに来て欲しい、と言ってきている。どうだろうか」と呼びかけられた。ガイドのジョニー R. ハリスはインディアン・チェロキー族の血の混じった西海岸生まれのアメリカ人、生来の自然人である。ガイドになることを目指してアラスカに渡ったが、白人の釣り客やガイド仲間から疎外され、それを見ていた開高さんは「高度経済成長を続けている日本からの釣り人がこれからは増えていく。日本人相手のガイドをすればよい。ただし、日本人は英語を話さないから、お前が日本語を話すようにならなければだめだ」と言って、ジョニーを1年間日本に呼びよせ、日本語学校に通わせた。開高さんと常見さんがその生活費から一切合財の面倒をみたという。以来、開高さん自らが出演したアラスカを舞台にした名作ビデオ「河は眠らない」の現地コーディネーター役をジョニーが務めるなど二人の信頼関係は深まっていった。そのジョニーが、夢の実現のために爪に火を灯すように節約をして資金を貯め、漸く自分の城を持てたというわけである。私はこの話を聞いて、アラスカ釣行希望者に真っ先に名乗りを上げた。その年の7月、最初のアラスカ釣行は常見忠さんを団長に、私を含めた開高健記念会の仲間、計6人であった。
 
  ちっぽけな8人乗り小型飛行機は、キーナイ半島からクック湾を飛び越えアラスカ半島に向かった。雪に覆われたアラスカ山脈の山肌を縫って、氷河を間近に見ながら飛行し、イリアムナ湖を越えると広大な原野が広がり、釘で引っかいたように蛇行する川が次から次へと現れ、ブリストル湾に注ぎ込んでゆく。人家はおろか、道ひとつ、人工物は何も見えない。飛行時間2時間半、アラスカ半島の自然のたたずまいにただ圧倒され続けた。
  河畔に立った。大河である。川幅は、300メートルはあるだろうか。水色はブラウン系。
流れは、ゆったりとではあるが水量は豊かである。流れの中にキャスティングをする。と言えば格好は良いが、ずぶの素人である私たちは昨日、ラインの結び方からキャスティングの方法まで、手ほどきを受けたばかりである。なかなかうまくいかない。常見忠さんを見やると、流石である、プロである。流れるような身のこなしが美しい。気を取り直して投げ続けていると、ラインがすっと止まるような感じがしたので、竿を教えられたように大きく引き上げた。根がかりかと思った瞬間に猛烈な勢いで走り出した。「来た!」と叫びながらもう一度大きく竿をしゃくりあげた。ラインがドラッグの回転音とともにどんどん引き出されてゆく。重い。想像をはるかに超えた力である。竿を立てようとしても引かれる力で竿先が水中に引き込まれそうになる。「竿を立てて」「足場のいいところに移動しろ」駆け寄ってきたジョニーと常見忠さんから矢継ぎ早に声がかかる。ラインはまだ引き出されている。突然、婚姻色に染まった赤銅色の巨大な魚体が空に向かって跳ねた。「バシャッン」。音とともに水しぶきがあがった。キングサーモンだ。はるかかなたである。「竿を大きく立てるようにあげて、下ろすときにリールを巻いて!」。「矢鱈にリールをまいてもダメ!」などの声は届くが、思うに任せない。今回の釣行でメンバー初のヒットだ。バラシでもしたら縁起でもない。何とか釣り上げねば。さまざまな思いが頭をよぎる。キングサーモンは潜ったままだ。目には水面を切るように動いているラインしか見えない。全力でポンピングを続けリールを巻く。漸く魚影が水中に見えてきた、と、気を緩めた瞬間にキングサーモンは最後の力を振り絞り流れの本流に逃げ込もうとする。こちらも全力で対応する。あがってきた。ジョニーが網で掬い上げた。力が抜けた。思わず大きく息を吐き出した。「good job!over 30 pounds 」とジョニーから声がかかった。タバコに火をつけようとするが手が震えている。川原に横たわったキングを見やった。鼻が曲がっている。オスだ。大きく見開かれた目は、まだ生気を失っていない。孤高の王・キングと呼ばれるにふさわしい威風堂々のたたずまいだ。

 ログハウスに戻り、川の名と所在を地図で指し示してもらった。初めてのアラスカ行きとあっては、ジョニーから英語のアクセントで地名を聞いてもよく耳に入らない。ヌシャガク川(nushagaku river)とあり、驚いた。開高さんが憧れ続け、ついにその願いがかなわなかった川がヌシャガク川であったからだ。茅ヶ崎市の、現在は開高健記念館になっている、開高邸の書斎の万年床が敷かれていた壁にはアラスカ半島の大きな地図が貼られている。その地図に、赤のサインペンで大きく丸で囲まれ、感嘆符の!マークが2つ、さらに矢印で指し示されている場所こそがヌシャガク川である。開高さんが、ヌシャガク川でのキングサーモン釣りをいかに思い憧れていたかがよく分かるというものだ。あの日、開高さんをこれまで以上に身近に感じながら、いまだ興奮冷めやらぬ体を駆け抜けた、ウイスキーの味は生涯忘れられないだろう。

 このような体験が私を毎年アラスカに駆り立て、また、同じ体験を友人たちにも味合わせてやりたいと、高齢の常見忠氏に代ってアラスカ行きを続けて今年で7年になったというわけだ。今年の釣行者は6人。当初の計画ではヌシャガク川は予定になかった。昨今の原油高騰で飛行時間の長いヌシャガク川行きはチャーター料が高く、また往復に時間がかかるために釣り時間が短くならざるを得ない。しかも確実に釣れる保証はないからだ。ところが、今年は地球の温暖化のためかサーモンの遡上が例年になく早く、最適の時期を選んだはずなのに、いつもの川での釣果が思わしくなかったことから、急遽予定を変更して、気温が低く、キングが釣れているとの情報をもとにヌシャガク川に出かけることにしたというわけだ。

 水上飛行艇はヌシャガク川のかなり上流、蛇行していて川幅が広くなっている部分に着水し、飛行艇をロープで岸辺の木に結わえ固定させ、一行は思い思いの場所を選び位置に着く。はやる気持ちを抑え仕掛けをセットする。7年前の、あの感触が体に蘇ってくる。私は、ヌシャガク川に支流が注ぎ込み流れが複雑に変化している、その流れの横をめがけてキャストした。ヌシャガク川は、私を裏切らなかった。すぐに、ヒットした。その瞬間は、なにもかもを忘れさせてくれる。アドレナリンが体中を駆け巡る。ただ、7年の体験は、1本のラインの先にいるキングサーモンとのやりとりを、その対話を楽しむ余裕を私に漸く身に付けさせてくれたようである。慎重に、ゆっくりと引き寄せた。

 バッグの中に忍ばせていたフラスクを取り出した。ヌシャガク川に行くと決まって、昨夜のうちに、開高さんが好きだった「ザ・マッカラン12年」をフラスクに満たしておいたのだ。栓をひねると、芳醇な香りが鼻をくすぐり、原野に流れだしていった。ヌシャガク川にウイスキーを数滴垂らしてやる。そして口に含んだ。7年前の、興奮冷めやらぬ体を駆け抜けていった、あのときの、あの味わいが鮮烈に蘇った。


以上

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ヌシャガク川でキングとの格闘 私のこれまでの記録、
65ポンドのキングサーモン。
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