侏儒の言葉

芥川龍之介


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   「侏儒(しゅじゅ)の言葉」の序

「侏儒の言葉」は必(かならず)しもわたしの思想を伝えるものではない。唯わたしの思想の変化を時々窺(うかが)わせるのに過ぎぬものである。一本の草よりも一すじの蔓草(つるくさ)、――しかもその蔓草は幾すじも蔓を伸ばしているかも知れない。
 

(一部省略・管理者注)

   修身

 道徳は便宜の異名である。「左側通行」と似たものである。
    *
 道徳の与えたる恩恵は時間と労力との節約である。道徳の与える損害は完全なる良心の麻痺(まひ)である。
    *
 妄(みだり)に道徳に反するものは経済の念に乏しいものである。妄に道徳に屈するものは臆病(おくびょう)ものか怠けものである。
    *
 我我を支配する道徳は資本主義に毒された封建時代の道徳である。我我は殆(ほとん)ど損害の外に、何の恩恵にも浴していない。
    *
 強者は道徳を蹂躙(じゅうりん)するであろう。弱者は又道徳に愛撫(あいぶ)されるであろう。道徳の迫害を受けるものは常に強弱の中間者である。
    *
 道徳は常に古着である。
    *
 良心は我我の口髭(くちひげ)のように年齢と共に生ずるものではない。我我は良心を得る為にも若干の訓練を要するのである。
    *
 一国民の九割強は一生良心を持たぬものである。
    *
 我我の悲劇は年少の為、或は訓練の足りない為、まだ良心を捉(とら)え得ぬ前に、破廉恥漢の非難を受けることである。
 我我の喜劇は年少の為、或は訓練の足りない為、破廉恥漢の非難を受けた後に、やっと良心を捉えることである。
    *
 良心とは厳粛なる趣味である。
    *
 良心は道徳を造るかも知れぬ。しかし道徳は未(いま)だ甞(かつ)て、良心の良の字も造ったことはない。
    *
 良心もあらゆる趣味のように、病的なる愛好者を持っている。そう云う愛好者は十中八九、聡明(そうめい)なる貴族か富豪かである。

   好悪
 
 わたしは古い酒を愛するように、古い快楽説を愛するものである。我我の行為を決するものは善でもなければ悪でもない。唯(ただ)我我の好悪である。或は我我の快不快である。そうとしかわたしには考えられない。
 ではなぜ我我は極寒の天にも、将(まさ)に溺(おぼ)れんとする幼児を見る時、進んで水に入るのであるか? 救うことを快とするからである。では水に入る不快を避け、幼児を救う快を取るのは何の尺度に依(よ)ったのであろう? より大きい快を選んだのである。しかし肉体的快不快と精神的快不快とは同一の尺度に依らぬ筈(はず)である。いや、この二つの快不快は全然相容(あいい)れぬものではない。寧(むし)ろ鹹水(かんすい)と淡水とのように、一つに融(と)け合(あ)っているものである。現に精神的教養を受けない京阪辺の紳士諸君はすっぽんの汁を啜(すす)った後、鰻を菜に飯を食うさえ、無上の快に数えているではないか? 且(かつ)又水や寒気などにも肉体的享楽の存することは寒中水泳の示すところである。なおこの間の消息を疑うものはマソヒズムの場合を考えるが好い。あの呪(のろ)うべきマソヒズムはこう云う肉体的快不快の外見上の倒錯に常習的傾向の加わったものである。わたしの信ずるところによれば、或は柱頭の苦行を喜び、或は火裏の殉教を愛した基督教(キリストきょう)の聖人たちは大抵マソヒズムに罹(かか)っていたらしい。
 我我の行為を決するものは昔の希臘人(ギリシアじん)の云った通り、好悪の外にないのである。我我は人生の泉から、最大の味を汲(く)み取(と)らねばならぬ。『パリサイの徒の如く、悲しき面もちをなすこと勿(なか)れ。』耶蘇(やそ)さえ既にそう云ったではないか。賢人とは畢竟(ひっきょう)荊蕀(けいきょく)の路(みち)にも、薔薇(ばら)の花を咲かせるもののことである。

   侏儒の祈り

 わたしはこの綵衣(さいい)を纏(まと)い、この筋斗(きんと)の戯を献じ、この太平を楽しんでいれば不足のない侏儒(しゅじゅ)でございます。どうかわたしの願いをおかなえ下さいまし。
 どうか一粒の米すらない程、貧乏にして下さいますな。どうか又熊掌(ゆうしょう)にさえ飽き足りる程、富裕にもして下さいますな。
 どうか採桑の農婦すら嫌うようにして下さいますな。どうか又後宮の麗人さえ愛するようにもして下さいますな。
 どうか菽麦(しゅくばく)すら弁ぜぬ程、愚昧(ぐまい)にして下さいますな。どうか又雲気さえ察する程、聡明(そうめい)にもして下さいますな。
 とりわけどうか勇ましい英雄にして下さいますな。わたしは現に時とすると、攀(よ)じ難い峯(みね)の頂を窮め、越え難い海の浪(なみ)を渡り――云わば不可能を可能にする夢を見ることがございます。そう云う夢を見ている時程、空恐しいことはございません。わたしは竜と闘うように、この夢と闘うのに苦しんで居ります。どうか英雄とならぬように――英雄の志を起さぬように力のないわたしをお守り下さいまし。
 わたしはこの春酒に酔い、この金鏤(きんる)の歌を誦(しょう)し、この好日を喜んでいれば不足のない侏儒でございます。

(一部省略・管理者注)

   自由意志と宿命と

 兎(と)に角(かく)宿命を信ずれば、罪悪なるものの存在しない為に懲罰と云う意味も失われるから、罪人に対する我我の態度は寛大になるのに相違ない。同時に又自由意志を信ずれば責任の観念を生ずる為に、良心の麻痺(まひ)を免れるから、我我自身に対する我我の態度は厳粛になるのに相違ない。ではいずれに従おうとするのか?
 わたしは恬然と答えたい。半ばは自由意志を信じ、半ばは宿命を信ずべきである。或は半ばは自由意志を疑い、半ばは宿命を疑うべきである。なぜと云えば我我は我我に負わされた宿命により、我我の妻を娶(めと)ったではないか? 同時に又我我は我我に恵まれた自由意志により、必ずしも妻の注文通り、羽織や帯を買ってやらぬではないか?
 自由意志と宿命とに関らず、神と悪魔、美と醜、勇敢と怯懦(きょうだ)、理性と信仰、――その他あらゆる天秤(てんびん)の両端にはこう云う態度をとるべきである。古人はこの態度を中庸と呼んだ。中庸とは英吉利語(イギリスご)の good sense である。わたしの信ずるところによれば、グッドセンスを待たない限り、如何なる幸福も得ることは出来ない。もしそれでも得られるとすれば、炎天に炭火を擁(よう)したり、大寒に団扇(うちわ)を揮(ふる)ったりする痩(や)せ我慢の幸福ばかりである。

   小児

 軍人は小児に近いものである。英雄らしい身振を喜んだり、所謂光栄を好んだりするのは今更此処に云う必要はない。機械的訓練を貴んだり、動物的勇気を重んじたりするのも小学校にのみ見得る現象である。殺戮(さつりく)を何とも思わぬなどは一層小児と選ぶところはない。殊に小児と似ているのは喇叭(らっぱ)や軍歌に皷舞されれば、何の為に戦うかも問わず、欣然(きんぜん)と敵に当ることである。
 この故に軍人の誇りとするものは必ず小児の玩具に似ている。緋縅(ひおどし)の鎧(よろい)や鍬形(くわがた)の兜(かぶと)は成人の趣味にかなった者ではない。勲章も――わたしには実際不思議である。なぜ軍人は酒にも酔わずに、勲章を下げて歩かれるのであろう?

   武器

 正義は武器に似たものである。武器は金を出しさえすれば、敵にも味方にも買われるであろう。正義も理窟をつけさえすれば、敵にも味方にも買われるものである。古来「正義の敵」と云う名は砲弾のように投げかわされた。しかし修辞につりこまれなければ、どちらがほんとうの「正義の敵」だか、滅多に判然したためしはない。
 日本人の労働者は単に日本人と生まれたが故に、パナマから退去を命ぜられた。これは正義に反している。亜米利加(アメリカ)は新聞紙の伝える通り、「正義の敵」と云わなければならぬ。しかし支那人の労働者も単に支那人と生まれたが故に、千住(せんじゅ)から退去を命ぜられた。これも正義に反している。日本は新聞紙の伝える通り、――いや、日本は二千年来、常に「正義の味方」である。正義はまだ日本の利害と一度も矛盾はしなかったらしい。
 武器それ自身は恐れるに足りない。恐れるのは武人の技倆(ぎりょう)である。正義それ自身も恐れるに足りない。恐れるのは煽動家(せんどうか)の雄弁である。武后(ぶこう)は人天を顧みず、冷然と正義を蹂躙(じゅうりん)した。しかし李敬業(りけいぎょう)の乱に当り、駱賓王(らくひんのう)の檄(げき)を読んだ時には色を失うことを免れなかった。「一抔土未乾 六尺孤安在」の双句は天成のデマゴオクを待たない限り、発し得ない名言だったからである。
 わたしは歴史を翻えす度に、遊就館を想(おも)うことを禁じ得ない。過去の廊下には薄暗い中にさまざまの正義が陳列してある。青竜刀に似ているのは儒教(じゅきょう)の教える正義であろう。騎士の槍(やり)に似ているのは基督教(キリストきょう)の教える正義であろう。此処に太い棍棒(こんぼう)がある。これは社会主義者の正義であろう。彼処に房のついた長剣がある。あれは国家主義者の正義であろう。わたしはそう云う武器を見ながら、幾多の戦いを想像し、おのずから心悸(しんき)の高まることがある、しかしまだ幸か不幸か、わたし自身その武器の一つを執(と)りたいと思った記憶はない。

 (一部省略・管理者注)

   古典

 古典の作者の幸福なる所以(ゆえん)は兎(と)に角(かく)彼等の死んでいることである。

   又

 我我の――或は諸君の幸福なる所以も兎に角彼等の死んでいることである。

 (一部省略・管理者注)

   暴力

 人生は常に複雑である。複雑なる人生を簡単にするものは暴力より外にある筈はない。この故に往往石器時代の脳髄しか持たぬ文明人は論争より殺人を愛するのである。
 しかし亦権力も畢竟はパテントを得た暴力である。我我人間を支配する為にも、暴力は常に必要なのかも知れない。或は又必要ではないのかも知れない。

   「人間らしさ」

 わたしは不幸にも「人間らしさ」に礼拝する勇気は持っていない。いや、屡「人間らしさ」に軽蔑(けいべつ)を感ずることは事実である。しかし又常に「人間らしさ」に愛を感ずることも事実である。愛を?――或は愛よりも憐憫(れんびん)かも知れない。が、兎に角「人間らしさ」にも動かされぬようになったとすれば、人生は到底住するに堪えない精神病院に変りそうである。Swift の畢(つい)に発狂したのも当然の結果と云う外はない。
 スウィフトは発狂する少し前に、梢(こずえ)だけ枯れた木を見ながら、「おれはあの木とよく似ている。頭から先に参るのだ」と呟(つぶや)いたことがあるそうである。この逸話は思い出す度にいつも戦慄(せんりつ)を伝えずには置かない。わたしはスウィフトほど頭の好い一代の鬼才に生まれなかったことをひそかに幸福に思っている。

  (一部省略・管理者注)

   政治的天才

 古来政治的天才とは民衆の意志を彼自身の意志とするもののように思われていた。が、これは正反対であろう。寧(むし)ろ政治的天才とは彼自身の意志を民衆の意志とするもののことを云うのである。少くとも民衆の意志であるかのように信ぜしめるものを云うのである。この故に政治的天才は俳優的天才を伴うらしい。ナポレオンは「荘厳と滑稽との差は僅(わず)かに一歩である」と云った。この言葉は帝王の言葉と云うよりも名優の言葉にふさわしそうである。

   又

 民衆は大義を信ずるものである。が、政治的天才は常に大義そのものには一文の銭をも抛(なげう)たないものである。唯民衆を支配する為には大義の仮面を用いなければならぬ。しかし一度用いたが最後、大義の仮面は永久に脱することを得ないものである。もし又強いて脱そうとすれば、如何なる政治的天才も忽(たちま)ち非命に仆(たお)れる外はない。つまり帝王も王冠の為におのずから支配を受けているのである。この故に政治的天才の悲劇は必ず喜劇をも兼ねぬことはない。たとえば昔仁和寺(にんなじ)の法師の鼎(かなえ)をかぶって舞ったと云う「つれづれ草」の喜劇をも兼ねぬことはない。

(一部省略・管理者注)

   地獄

 人生は地獄よりも地獄的である。地獄の与える苦しみは一定の法則を破ったことはない。たとえば餓鬼道の苦しみは目前の飯を食おうとすれば飯の上に火の燃えるたぐいである。しかし人生の与える苦しみは不幸にもそれほど単純ではない。目前の飯を食おうとすれば、火の燃えることもあると同時に、又存外楽楽と食い得ることもあるのである。のみならず楽楽と食い得た後さえ、腸加太児(ちょうカタル)の起ることもあると同時に、又存外楽楽と消化し得ることもあるのである。こう云う無法則の世界に順応するのは何びとにも容易に出来るものではない。もし地獄に堕(お)ちたとすれば、わたしは必ず咄嗟(とっさ)の間に餓鬼道の飯も掠(かす)め得るであろう。況(いわん)や針の山や血の池などは二三年其処に住み慣れさえすれば格別跋渉(ばっしょう)の苦しみを感じないようになってしまう筈(はず)である。

   醜聞

 公衆は醜聞を愛するものである。白蓮事件(びゃくれんじけん)、有島事件、武者小路事件――公衆は如何にこれらの事件に無上の満足を見出したであろう。ではなぜ公衆は醜聞を――殊に世間に名を知られた他人の醜聞を愛するのであろう? グルモンはこれに答えている。――
「隠れたる自己の醜聞も当り前のように見せてくれるから。」
 グルモンの答は中(あた)っている。が、必ずしもそればかりではない。醜聞さえ起し得ない俗人たちはあらゆる名士の醜聞の中に彼等の怯懦(きょうだ)を弁解する好個の武器を見出すのである。同時に又実際には存しない彼等の優越を樹立する、好個の台石を見出すのである。「わたしは白蓮女史ほど美人ではない。しかし白蓮女史よりも貞淑である。」「わたしは有島氏ほど才子ではない。しかし有島氏よりも世間を知っている。」「わたしは武者小路氏ほど……」――公衆は如何にこう云った後、豚のように幸福に熟睡したであろう。

   又

 天才の一面は明らかに醜聞を起し得る才能である。

   輿論

 輿論(よろん)は常に私刑であり、私刑は又常に娯楽である。たといピストルを用うる代りに新聞の記事を用いたとしても。

   又

 輿論の存在に価する理由は唯(ただ)輿論を蹂躙(じゅうりん)する興味を与えることばかりである。

   敵意

 敵意は寒気と選ぶ所はない。適度に感ずる時は爽快(そうかい)であり、且(かつ)又健康を保つ上には何びとにも絶対に必要である。

   ユウトピア

 完全なるユウトピアの生れない所以(ゆえん)は大体下の通りである。――人間性そのものを変えないとすれば、完全なるユウトピアの生まれる筈(はず)はない。人間性そのものを変えるとすれば、完全なるユウトピアと思ったものも忽(たちま)ち不完全に感ぜられてしまう。

   危険思想

 危険思想とは常識を実行に移そうとする思想である。

   悪

 芸術的気質を持った青年の「人間の悪」を発見するのは誰よりも遅いのを常としている。

   二宮尊徳

 わたしは小学校の読本の中に二宮尊徳の少年時代の大書してあったのを覚えている。貧家に人となった尊徳は昼は農作の手伝いをしたり、夜は草鞋(わらじ)を造ったり、大人のように働きながら、健気(けなげ)にも独学をつづけて行ったらしい。これはあらゆる立志譚(りっしたん)のように――と云うのはあらゆる通俗小説のように、感激を与え易い物語である。実際又十五歳に足らぬわたしは尊徳の意気に感激すると同時に、尊徳ほど貧家に生まれなかったことを不仕合せの一つにさえ考えていた。……
 けれどもこの立志譚は尊徳に名誉を与える代りに、当然尊徳の両親には不名誉を与える物語である。彼等は尊徳の教育に寸毫(すんごう)の便宜をも与えなかった。いや、寧(むし)ろ与えたものは障碍(しょうがい)ばかりだった位である。これは両親たる責任上、明らかに恥辱と云わなければならぬ。しかし我々の両親や教師は無邪気にもこの事実を忘れている。尊徳の両親は酒飲みでも或は又博奕(ばくち)打ちでも好い。問題は唯尊徳である。どう云う艱難辛苦(かんなんしんく)をしても独学を廃さなかった尊徳である。我我少年は尊徳のように勇猛の志を養わなければならぬ。
 わたしは彼等の利己主義に驚嘆に近いものを感じている。成程彼等には尊徳のように下男をも兼ねる少年は都合の好い息子に違いない。のみならず後年声誉を博し、大いに父母の名を顕(あら)わしたりするのは好都合の上にも好都合である。しかし十五歳に足らぬわたしは尊徳の意気に感激すると同時に、尊徳ほど貧家に生まれなかったことを不仕合せの一つにさえ考えていた。丁度鎖に繋(つな)がれた奴隷のもっと太い鎖を欲しがるように。

   奴隷

 奴隷廃止と云うことは唯奴隷たる自意識を廃止すると云うことである。我我の社会は奴隷なしには一日も安全を保し難いらしい。現にあのプラトオンの共和国さえ、奴隷の存在を予想しているのは必ずしも偶然ではないのである。

   又

 暴君を暴君と呼ぶことは危険だったのに違いない。が、今日は暴君以外に奴隷を奴隷と呼ぶこともやはり甚だ危険である。

   悲劇

 悲劇とはみずから羞(は)ずる所業を敢(あえ)てしなければならぬことである。この故に万人に共通する悲劇は排泄(はいせつ)作用を行うことである。

   強弱

 強者とは敵を恐れぬ代りに友人を恐れるものである。一撃に敵を打ち倒すことには何の痛痒(つうよう)も感じない代りに、知(し)らず識(し)らず友人を傷つけることには児女に似た恐怖を感ずるものである。
 弱者とは友人を恐れぬ代りに、敵を恐れるものである。この故に又至る処に架空の敵ばかり発見するものである。

 (一部省略・管理者注)

   民衆

 民衆は穏健なる保守主義者である。制度、思想、芸術、宗教、――何ものも民衆に愛される為には、前時代の古色を帯びなければならぬ。所謂(いわゆる)民衆芸術家の民衆の為に愛されないのは必ずしも彼等の罪ばかりではない。

   又

 民衆の愚を発見するのは必ずしも誇るに足ることではない。が、我我自身も亦民衆であることを発見するのは兎(と)も角(かく)も誇るに足ることである。

   又

 古人は民衆を愚にすることを治国の大道に数えていた。丁度まだこの上にも愚にすることの出来るように。――或は又どうかすれば賢にでもすることの出来るように。

(一部省略・管理者注)
  
   政治家

 政治家の我我素人よりも政治上の知識を誇り得るのは紛紛たる事実の知識だけである。畢竟某党の某首領はどう言う帽子をかぶっているかと言うのと大差のない知識ばかりである。

   又

 所謂「床屋政治家」とはこう言う知識のない政治家である。若(も)し夫(そ)れ識見を論ずれば必ずしも政治家に劣るものではない。且(かつ)又利害を超越した情熱に富んでいることは常に政治家よりも高尚である。

   事実

 しかし紛紛たる事実の知識は常に民衆の愛するものである。彼等の最も知りたいのは愛とは何かと言うことではない。クリストは私生児かどうかと言うことである。

   武者修業

 わたしは従来武者修業とは四方の剣客と手合せをし、武技を磨くものだと思っていた。が、今になって見ると、実は己ほど強いものの余り天下にいないことを発見する為にするものだった。――宮本武蔵伝読後。

 (一部省略・管理者注)

   森鴎外

 畢竟鴎外先生は軍服に剣を下げた希臘人(ギリシアじん)である。

   或資本家の論理

「芸術家の芸術を売るのも、わたしの蟹(かに)の鑵詰(かんづ)めを売るのも、格別変りのある筈はない。しかし芸術家は芸術と言えば、天下の宝のように思っている。ああ言う芸術家の顰(ひそ)みに傚(なら)えば、わたしも亦一鑵六十銭の蟹の鑵詰めを自慢しなければならぬ。不肖行年六十一、まだ一度も芸術家のように莫迦莫迦(ばかばか)しい己惚(うぬぼ)れを起したことはない。」

 (一部省略・管理者注)

    親子

 親は子供を養育するのに適しているかどうかは疑問である。成種牛馬は親の為に養育されるのに違いない。しかし自然の名のもとにこの旧習の弁護するのは確かに親の我儘(わがまま)である。若(も)し自然の名のもとに如何なる旧習も弁護出来るならば、まず我我は未開人種の掠奪(りゃくだつ)結婚を弁護しなければならぬ。

   又

 子供に対する母親の愛は最も利己心のない愛である。が、利己心のない愛は必ずしも子供の養育に最も適したものではない。この愛の子供に与える影響は――少くとも影響の大半は暴君にするか、弱者にするかである。

   又

 人生の悲劇の第一幕は親子となったことにはじまっている。

   又

 古来如何に大勢の親はこう言う言葉を繰り返したであろう。――「わたしは畢竟失敗者だった。しかしこの子だけは成功させなければならぬ。」

   可能

 我々はしたいことの出来るものではない。只出来ることをするものである。これは我我個人ばかりではない。我我の社会も同じことである。恐らくは神も希望通りにこの世界を造ることは出来なかったであろう。

(一部省略・管理者注)

   罪

「その罪を憎んでその人を憎まず」とは必(かならず)しも行うに難いことではない。大抵の子は大抵の親にちゃんとこの格言を実行している。

   桃李

桃李(とうり)言わざれども、下自(おのずか)ら蹊(けい)を成す」とは確かに知者の言である。尤(もっと)も「桃李言わざれども」ではない。実は「桃李言わざれば[#「ざれば」に傍点]」である。

   偉大

 民衆は人格や事業の偉大に籠絡(ろうらく)されることを愛するものである。が、偉大に直面することは有史以来愛したことはない。

   広告

侏儒(しゅじゅ)の言葉」十二月号の「佐佐木茂索君の為に」は佐佐木君を貶(けな)したのではありません。佐佐木君を認めない批評家を嘲(あざけ)ったものであります。こう言うことを広告するのは「文芸春秋」の読者の頭脳を軽蔑(けいべつ)することになるのかも知れません。しかし実際或批評家は佐佐木君を貶したものと思いこんでいたそうであります。且(かつ)又この批評家の亜流も少くないように聞き及びました。その為に一言広告します。尤もこれを公にするのはわたくしの発意ではありません。実は先輩里見※(さとみとん)君の煽動(せんどう)によった結果であります。どうかこの広告に憤る読者は里見君に非難を加えて下さい。「侏儒の言葉」の作者。

   追加広告

 前掲の広告中、「里見君に非難を加えて下さい」と言ったのは勿論(もちろん)わたしの常談(じょうだん)であります。実際は非難を加えずともよろしい。わたしは或批評家の代表する一団の天才に敬服した余り、どうも多少ふだんよりも神経質になったようであります。同上

   再追加広告

 前掲の追加広告中、「或批評家の代表する一団の天才に敬服した」と言うのは勿論反語と言うものであります。同上

(一部省略・管理者注)

   賭博

 偶然即ち神と闘うものは常に神秘的威厳に満ちている。賭博者(とばくしゃ)も亦この例に洩(も)れない。

   又

 古来賭博に熱中した厭世(えんせい)主義者のないことは如何に賭博の人生に酷似しているかを示すものである。

   又

 法律の賭博を禁ずるのは賭博に依(よ)る富の分配法そのものを非とする為ではない。実は唯(ただ)その経済的ディレッタンティズムを非とする為である。

   懐疑主義

 懐疑主義も一つの信念の上に、――疑うことは疑わぬと言う信念の上に立つものである。成程それは矛盾かも知れない。しかし懐疑主義は同時に又少しも信念の上に立たぬ哲学のあることをも疑うものである。

   正直

 若し正直になるとすれば、我我は忽(たちま)ち何びとも正直になられぬことを見出すであろう。この故に我我は正直になることに不安を感ぜずにはいられぬのである。

   虚偽

 わたしは或※(うそ)つきを知っていた。彼女は誰よりも幸福だった。が、余りに※(うそ)の巧みだった為にほんとうのことを話している時さえ※(うそ)をついているとしか思われなかった。それだけは確かに誰の目にも彼女の悲劇に違いなかった。

   又

 わたしも亦あらゆる芸術家のように寧(むし)ろ※(うそ)には巧みだった。が、いつも彼女には一籌(いっちゅう)を輸(ゆ)する外はなかった。彼女は実に去年の※(うそ)をも五分前の※(うそ)のように覚えていた。

   又

 わたしは不幸にも知っている。時には※(うそ)に依る外は語られぬ真実もあることを。

   諸君

 諸君は青年の芸術の為に堕落することを恐れている。しかしまず安心し給え。諸君ほどは容易に堕落しない。

   又

 諸君は芸術の国民を毒することを恐れている。しかしまず安心し給え。少くとも諸君を毒することは絶対に芸術には不可能である。二千年来芸術の魅力を理解せぬ諸君を毒することは。

   忍従

 忍従はロマンティックな卑屈である。

   企図

 成すことは必しも困難ではない。が、欲することは常に困難である。少くとも成すに足ることを欲するのは。

   又

 彼等の大小を知らんとするものは彼等の成したことに依り、彼等の成さんとしたことを見なければならぬ。

   兵卒

 理想的兵卒は苟(いやし)くも上官の命令には絶対に服従しなければならぬ。絶対に服従することは絶対に批判を加えぬことである。即ち理想的兵卒はまず理性を失わなければならぬ。

   又

 理想的兵卒は苟くも上官の命令には絶対に服従しなければならぬ。絶対に服従することは絶対に責任を負わぬことである。即ち理想的兵卒はまず無責任を好まなければならぬ。

   軍事教育

 軍事教育と言うものは畢竟(ひっきょう)只(ただ)軍事用語の知識を与えるばかりである。その他の知識や訓練は何も特に軍事教育を待った後に得られるものではない。現に海陸軍の学校さえ、機械学、物理学、応用化学、語学等は勿論(もちろん)、剣道、柔道、水泳等にもそれぞれ専門家を傭(やと)っているではないか? しかも更に考えて見れば、軍事用語も学術用語と違い、大部分は通俗的用語である。すると軍事教育と言うものは事実上ないものと言わなければならぬ。事実上ないものの利害得失は勿論問題にはならぬ筈(はず)である。

   勤倹尚武

「勤倹尚武」と言う成語位、無意味を極めているものはない。尚武は国際的奢侈(しゃし)である。現に列強は軍備の為に大金を費しているではないか? 若(も)し「勤倹尚武」と言うことも痴人の談でないとすれば、「勤倹遊蕩(ゆうとう)」と言うこともやはり通用すると言わなければならぬ。

   日本人

 我我日本人の二千年来君に忠に親に孝だったと思うのは猿田彦命(さるたひこのみこと)もコスメ・ティックをつけていたと思うのと同じことである。もうそろそろありのままの歴史的事実に徹して見ようではないか?

   倭寇

 倭寇(わこう)は我我日本人も優に列強に伍(ご)するに足る能力のあることを示したものである。我我は盗賊、殺戮(さつりく)、姦淫(かんいん)等に於ても、決して「黄金の島」を探しに来た西班牙人(スペインじん)、葡萄牙人(ポルトガルじん)、和蘭人(オランダじん)、英吉利人(イギリスじん)等に劣らなかった。

   つれづれ草

 わたしは度たびこう言われている。――「つれづれ草などは定めしお好きでしょう?」しかし不幸にも「つれづれ草」などは未嘗(いまだかつて)愛読したことはない。正直な所を白状すれば「つれづれ草」の名高いのもわたしには殆(ほとん)ど不可解である。中学程度の教科書に便利であることは認めるにもしろ。

(一部省略・管理者注)

   行儀

 昔わたしの家に出入りした男まさりの女髪結は娘を一人持っていた。わたしは未だに蒼白(あおじろ)い顔をした十二三の娘を覚えている。女髪結はこの娘に行儀を教えるのにやかましかった。殊に枕(まくら)をはずすことにはその都度折檻(せっかん)を加えていたらしい。が、近頃ふと聞いた話によれば、娘はもう震災前に芸者になったとか言うことである。わたしはこの話を聞いた時、ちょっともの哀れに感じたものの、微笑しない訣には行かなかった。彼女は定めし芸者になっても、厳格な母親の躾(しつ)け通り、枕だけははずすまいと思っているであろう。……

   自由

 誰も自由を求めぬものはない。が、それは外見だけである。実は誰も肚(はら)の底では少しも自由を求めていない。その証拠には人命を奪うことに少しも躊躇(ちゅうちょ)しない無頼漢さえ、金甌無欠(きんおうむけつ)の国家の為に某某を殺したと言っているではないか? しかし自由とは我我の行為に何の拘束もないことであり、即ち神だの道徳だの或は又社会的習慣だのと連帯責任を負うことを潔しとしないものである。

   又

 自由は山巓(さんてん)の空気に似ている。どちらも弱い者には堪えることは出来ない。

   又

 まことに自由を眺めることは直ちに神々の顔を見ることである。

   又

 自由主義、自由恋愛、自由貿易、――どの「自由」も生憎(あいにく)杯の中に多量の水を混じている。しかも大抵はたまり水を。

   言行一致

 言行一致の美名を得る為にはまず自己弁護に長じなければならぬ。

   方便

 一人を欺かぬ聖賢はあっても、天下を欺かぬ聖賢はない。仏家の所謂(いわゆる)善巧方便とは畢竟(ひっきょう)精神上のマキアヴェリズムである。

   芸術至上主義者

 古来熱烈なる芸術至上主義者は大抵芸術上の去勢者である。丁度熱烈なる国家主義者は大抵亡国の民であるように――我我は誰でも我我自身の持っているものを欲しがるものではない。

   唯物史観

 若(も)し如何なる小説家もマルクスの唯物史観に立脚した人生を写さなければならぬならば、同様に又如何なる詩人もコペルニクスの地動説に立脚した日月山川を歌わなければならぬ。が、「太陽は西に沈み」と言う代りに「地球は何度何分廻転(かいてん)し」と言うのは必しも常に優美ではあるまい。

 (一部省略・管理者注) 
 

侏儒の言葉(遺稿)
 

   弁護

 他人を弁護するよりも自己を弁護するのは困難である。疑うものは弁護士を見よ。

   女人

 健全なる理性は命令している。――「爾(なんじ)、女人を近づくる勿(なか)れ。」
 しかし健全なる本能は全然反対に命令している。――「爾、女人を避くる勿れ。」

   又

 女人は我我男子には正に人生そのものである。即ち諸悪の根源である。

   理性

 わたしはヴォルテェルを軽蔑(けいべつ)している。若し理性に終始するとすれば、我我は我我の存在に満腔(まんこう)の呪咀(じゅそ)を加えなければならぬ。しかし世界の賞讃(しょうさん)に酔った Candide の作者の幸福さは!

   自然

 我我の自然を愛する所以(ゆえん)は、――少くともその所以の一つは自然は我我人間のように妬(ねた)んだり欺いたりしないからである。

   処世術

 最も賢い処世術は社会的因襲を軽蔑しながら、しかも社会的因襲と矛盾せぬ生活をすることである。

   女人崇拝

「永遠に女性なるもの」を崇拝したゲエテは確かに仕合せものの一人だった。が、Yahoo の牝(めす)を軽蔑したスウィフトは狂死せずにはいなかったのである。これは女性の呪(のろ)いであろうか? 或は又理性の呪いであろうか?

   理性

 理性のわたしに教えたものは畢竟(ひっきょう)理性の無力だった。

   運命

 運命は偶然よりも必然である。「運命は性格の中にある」と云う言葉は決して等閑に生まれたものではない。

   教授

 若し医家の用語を借りれば、苟(いやし)くも文芸を講ずるには臨床的でなければならぬ筈(はず)である。しかも彼等は未(いま)だ嘗(かつ)て人生の脈搏(みゃくはく)に触れたことはない。殊に彼等の或るものは英仏の文芸には通じても彼等を生んだ祖国の文芸には通じていないと称している。

   知徳合一

 我我は我我自身さえ知らない。況(いわん)や我我の知ったことを行に移すのは困難[#「困難」は底本では「因難」]である。「知慧(ちえ)と運命」を書いたメエテルリンクも知慧や運命を知らなかった。

   芸術

 最も困難[#「困難」は底本では「因難」]な芸術は自由に人生を送ることである。尤(もっと)も「自由に」と云う意味は必ずしも厚顔にと云う意味ではない。

   自由思想家

 自由思想家の弱点は自由思想家であることである。彼は到底狂信者のように獰猛(どうもう)に戦うことは出来ない。

   宿命

 宿命は後悔の子かも知れない。――或は後悔は宿命の子かも知れない。

   彼の幸福

 彼の幸福は彼自身の教養のないことに存している。同時に又彼の不幸も、――ああ、何と云う退屈さ加減!

   小説家

 最も善い小説家は「世故(せこ)に通じた詩人」である。

   言葉

 あらゆる言葉は銭のように必ず両面を具(そな)えている。例えば「敏感な」と云う言葉の一面は畢竟(ひっきょう)「臆病(おくびょう)な」と云うことに過ぎない。

   或物質主義者の信条

「わたしは神を信じていない。しかし神経を信じている。」

   阿呆

 阿呆はいつも彼以外の人人を悉(ことごと)く阿呆と考えている。

   処世的才能

 何と言っても「憎悪する」ことは処世的才能の一つである。

   懺悔

 古人は神の前に懺悔(ざんげ)した。今人は社会の前に懺悔している。すると阿呆や悪党を除けば、何びとも何かに懺悔せずには娑婆苦(しゃばく)に堪えることは出来ないのかも知れない。

   又

 しかしどちらの懺悔にしても、どの位信用出来るかと云うことはおのずから又別問題である。

   「新生」読後

 果して「新生」はあったであろうか?

  
(一部省略・管理者注)

   或理想主義者

 彼は彼自身の現実主義者であることに少しも疑惑を抱いたことはなかった。しかしこう云う彼自身は畢竟理想化した彼自身だった。

   恐怖

 我我に武器を執(と)らしめるものはいつも敵に対する恐怖である。しかも屡(しばしば)実在しない架空の敵に対する恐怖である。

   我我

 我我は皆我我自身を恥じ、同時に又彼等を恐れている。が、誰も卒直にこう云う事実を語るものはない。

   恋愛

 恋愛は唯(ただ)性慾の詩的表現を受けたものである。少くとも詩的表現を受けない性慾は恋愛と呼ぶに価いしない。

   或老練家

 彼はさすがに老練家だった。醜聞を起さぬ時でなければ、恋愛さえ滅多にしたことはない。

   自殺

 万人に共通した唯一の感情は死に対する恐怖である。道徳的に自殺の不評判であるのは必ずしも偶然ではないかも知れない。

   又

 自殺に対するモンテェエヌの弁護は幾多の真理を含んでいる。自殺しないものはしない[#「しない」に傍点]のではない。自殺することの出来ない[#「出来ない」に傍点]のである。

   又

 死にたければいつでも死ねるからね。
 ではためしにやって見給え。

   革命

 革命の上に革命を加えよ。然(しか)らば我等は今日よりも合理的に娑婆苦を嘗(な)むることを得べし。

   死

 マインレンデルは頗(すこぶ)る正確に死の魅力を記述している。実際我我は何かの拍子に死の魅力を感じたが最後、容易にその圏外に逃れることは出来ない。のみならず同心円をめぐるようにじりじり死の前へ歩み寄るのである。

   「いろは」短歌

 我我の生活に欠くべからざる思想は或は「いろは」短歌に尽きているかも知れない。

   運命

 遺伝、境遇、偶然、――我我の運命を司るものは畢竟(ひっきょう)この三者である。自ら喜ぶものは喜んでも善い。しかし他を云々するのは僣越(せんえつ)である。

   嘲けるもの

 他を嘲(あざけ)るものは同時に又他に嘲られることを恐れるものである。

   或日本人の言葉

 我にスウィツルを与えよ。然(しか)らずんば言論の自由を与えよ。

   人間的な、余りに人間的な

 人間的な、余りに人間的なものは大抵は確かに動物的である。

   或才子

 彼は悪党になることは出来ても、阿呆になることは出来ないと信じていた。が、何年かたって見ると、少しも悪党になれなかったばかりか、いつも唯(ただ)阿呆に終始していた。

   希臘人

 復讐(ふくしゅう)の神をジュピタアの上に置いた希臘人(ギリシアじん)よ。君たちは何も彼も知り悉(つく)していた。

   又

 しかしこれは同時に又如何に我我人間の進歩の遅いかと云うことを示すものである。

   聖書

 一人の知慧(ちえ)は民族の知慧に若(し)かない。唯もう少し簡潔であれば、……

   或孝行者

 彼は彼の母に孝行した、勿論(もちろん)愛撫(あいぶ)や接吻(せっぷん)が未亡人だった彼の母を性的に慰めるのを承知しながら。

   或悪魔主義者

 彼は悪魔主義の詩人だった。が、勿論実生活の上では安全地帯の外に出ることはたった一度だけで懲(こ)り懲(ご)りしてしまった。

   或自殺者

 彼は或瑣末(さまつ)なことの為に自殺しようと決心した。が、その位のことの為に自殺するのは彼の自尊心には痛手だった。彼はピストルを手にしたまま、傲然(ごうぜん)とこう独(ひと)り語(ごと)を言った。――「ナポレオンでも蚤(のみ)に食われた時は痒(かゆ)いと思ったのに違いないのだ。」

   或左傾主義者

 彼は最左翼の更に左翼に位していた。従って最左翼をも軽蔑(けいべつ)していた。

   無意識

 我我の性格上の特色は、――少くとも最も著しい特色は我我の意識を超越している。

   矜誇

 我我の最も誇りたいのは我我の持っていないものだけである。実例。――Tは独逸語(ドイツご)に堪能(たんのう)だった。が、彼の机上にあるのはいつも英語の本ばかりだった。

   偶像

 何びとも偶像を破壊することに異存を持っているものはない。同時に又彼自身を偶像にすることに異存を持っているものもない。

   又

 しかし又泰然と偶像になり了(おお)せることは何びとにも出来ることではない。勿論天運を除外例としても。

   天国の民

 天国の民は何よりも先に胃袋や生殖器を持っていない筈(はず)である。

   或仕合せ者

 彼は誰よりも単純だった。

   自己嫌悪

 最も著しい自己嫌悪の徴候はあらゆるものに※(うそ)を見つけることである。いや、必ずしもそればかりではない。その又※(うそ)を見つけることに少しも満足を感じないことである。

   外見

 由来最大の臆病者(おくびょうもの)ほど最大の勇者に見えるものはない。

   人間的な

 我我人間の特色は神の決して犯さない過失を犯すと云うことである。

   罰

 罰せられぬことほど苦しい罰はない。それも決して罰せられぬと神々でも保証すれば別問題である。

   罪

 道徳的並びに法律的範囲に於ける冒険的行為、――罪は畢竟こう云うことである。従って又どう云う罪も伝奇的色彩を帯びないことはない。

   わたし

 わたしは良心を持っていない。わたしの持っているのは神経ばかりである。

   又

 わたしは度たび他人のことを「死ねば善い」と思ったものである。しかもその又他人の中には肉親さえ交っていなかったことはない。

   又

 わたしは度たびこう思った。――「俺があの女に惚(ほ)れた時にあの女も俺に惚れた通り、俺があの女を嫌いになった時にはあの女も俺を嫌いになれば善いのに。」

   又

 わたしは三十歳を越した後、いつでも恋愛を感ずるが早いか、一生懸命に抒情詩(じょじょうし)を作り、深入りしない前に脱却した。しかしこれは必しも道徳的にわたしの進歩したのではない。唯ちょっと肚(はら)の中に算盤(そろばん)をとることを覚えたからである。

   又

 わたしはどんなに愛していた女とでも一時間以上話しているのは退窟(たいくつ)だった。

   又

 わたしは度たび※(うそ)をついた。が、文字にする時は兎(と)に角(かく)、わたしの口ずから話した※(うそ)はいずれも拙劣を極めたものだった。

   又

 わたしは第三者と一人の女を共有することに不平を持たない。しかし第三者が幸か不幸かこう云う事実を知らずにいる時、何か急にその女に憎悪を感ずるのを常としている。

   又

 わたしは第三者と一人の女を共有することに不平を持たない。しかしそれは第三者と全然見ず知らずの間がらであるか、或は極く疎遠の間がらであるか、どちらかであることを条件としている。

   又

 わたしは第三者を愛する為に夫の目を偸(ぬす)んでいる女にはやはり恋愛を感じないことはない。しかし第三者を愛する為に子供を顧みない女には満身の憎悪を感じている。

   又

 わたしを感傷的にするものは唯(ただ)無邪気な子供だけである。

   又

 わたしは三十にならぬ前に或女を愛していた。その女は或時わたしに言った。――「あなたの奥さんにすまない。」わたしは格別わたしの妻に済まないと思っていた訣(わけ)ではなかった。が、妙にこの言葉はわたしの心に滲(し)み渡った。わたしは正直にこう思った。――「或はこの女にもすまないのかも知れない。」わたしは未だにこの女にだけは優しい心もちを感じている。

   又

 わたしは金銭には冷淡だった。勿論(もちろん)食うだけには困らなかったから。

   又

 わたしは両親には孝行だった。両親はいずれも年をとっていたから。

   又

 わたしは二三の友だちにはたとい真実を言わないにもせよ、※(うそ)をついたことは一度もなかった。彼等も亦※(うそ)をつかなかったから。

   人生

 革命に革命を重ねたとしても、我我人間の生活は「選ばれたる少数」を除きさえすれば、いつも暗澹(あんたん)としている筈(はず)である。しかも「選ばれたる少数」とは「阿呆と悪党と」の異名に過ぎない。

   民衆

 シェクスピイアも、ゲエテも、李太白(りたいはく)も、近松門左衛門も滅びるであろう。しかし芸術は民衆の中に必ず種子を残している。わたしは大正十二年に「たとい玉は砕けても、瓦(かわら)は砕けない」と云うことを書いた。この確信は今日(こんにち)でも未だに少しも揺がずにいる。

   又

 打ち下ろすハンマアのリズムを聞け。あのリズムの存する限り、芸術は永遠に滅びないであろう。(昭和改元の第一日)

   又

 わたしは勿論失敗だった。が、わたしを造り出したものは必ず又誰かを作り出すであろう。一本の木の枯れることは極めて区々たる問題に過ぎない。無数の種子を宿している、大きい地面が存在する限りは。 (同上)

   或夜の感想

 眠りは死よりも愉快である。少くとも容易には違いあるまい。 (昭和改元の第二日)
 
 

底本:小学館発行 昭和文学全集第一巻
   1987(昭和62)年5月1日 初版第1刷発行
   (「序」は、筑摩書房刊 ちくま文庫『芥川龍之介全集7』)
親本:岩波書店刊「芥川龍之介全集」
   1977(昭和52)年〜1978(53)年
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
ファイル作成:野口英司
1999年1月13日公開
1999年8月6日修正
青空文庫作成ファイル:
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●表記について

本文中の※は、底本では次のような漢字(JIS外字)が使われている。
 
里見※(さとみとん) 
※(うそ)