目撃証言シンポジウム


2001年6月19日(火曜)午後1時〜5時に、弁護士会館2回クレオBCにおいて、目撃証言シンポジウム(第5回)「─刑事弁護と心理学の対話─法廷の中のコミュニケーション」が行われ、後藤先生ならびに3,4年のゼミテンと一部の大学院生で傍聴しました。
以下は、現役ゼミテン(五期)による記録及び感想です。


内容
1. 「演技空間としての法廷」を打ち壊すことができるか 浜田寿美男(心理学・花園大)
2. 法廷における法律家言葉の分析 仲真紀子(心理学・東京都立大)
3. 「戎橋ホームレス水死事件」について 莚井順子(大阪弁護士会)
4. 証拠評価をめぐるコミュニケーション 中川孝博(刑事訴訟法・大阪経済法科大学)
5. 日本の裁判官と法廷のコミュニケーションの認識 秋山賢三(元裁判官・東京弁護士会)



1. 問題提起
浜田寿美男(心理学・花園大学)
「演技空間としての法廷」を打ち壊すことができるか

 浜田氏は、様々な裁判における証言を分析することを通じて、法廷は一つの演技空間であることを指摘された。
 捜査段階において、当初の事件とは異なった物語が生まれ始める。捜査機関が捜査をする際、事件について一定の仮説を立て、それに基づいて情報収集を行うからである。その仮説は実際の生の事件とは完全に一致するものではない。
 次に法廷への準備段階で、この物語の確定が試みられることとなる。すなわち、法廷で供述する内容や尋問方法等を事前に打ち合わせる過程で、捜査段階で生まれ始めた一つの物語が完成するのである。
 そして、法廷においては、この物語に則って供述者は演技をすることとなる。すなわち、供述者は昔の出来事を思い出して話すのではなく、あたかも事件当時を思い出して語っているようなふりをしながら、前日の打ち合わせを思い出して供述するのである。
 このようにして、法廷は時として演技空間と化すのである。
 この他にも、方言、外国語などの言葉自体の問題もある。また、法廷に立った人は、事件当時の記憶以上のものを語る危険性もある。例えば事件の目撃者は捜査機関から何度も事情聴取を受けるにつれて、事件当時の記憶に新たに情報を加えて事実を再構築してしまう。さらに、法廷に登場する人々にはそれぞれに役割があり、その役割にそった演技を強いられることがある。例えば検察側の証人は、その立場性ゆえに自らの記憶に反していても、検察官の主張に沿った証言をしかねない。
 以上のようにして、刑事裁判におけるコミュニケーションは深刻なものがある。そして、このような演技空間性を打ち破るのは容易ではないが、まず我々が、この演技空間性を正確に見極めるところから始めなければならないことは確かである。

<感想>
 浜田氏が指摘するように、法廷が演技空間化しているのは事実であろう。また、そのような演技空間性に対して疑念を抱く、裁判官等の訴訟関係者が少ないのも事実かもしれない。このような演技空間性の結果、検察側、弁護側が描く事件像は、実際の事件とは異なったものになる危険性がある。
 しかし、演技空間性の除去を仮に当事者に期待するとすれば、それは当事者主義を採用していることとそぐわないのではなかろうか。例えば、検察側も弁護側もそれぞれ証明しようとする事柄があるのだから、裁判官の前では自己の主張だけに有利な証言を引き出す必要がある。そのためには、目撃者の中から自己に有利な証言をする者だけを証人申請し、その者と事前に打ち合わせることが不可欠となるであろう。
 また、演技空間性の除去を当事者に義務付けることは、当事者に真実を明らかにする義務を負わせることに等しい。しかし、そのような義務は、真実ではない可能性があることに対する立証活動に消極性をもたらし、ひいては法廷における攻防の沈静化をまねきかねない。
 特に弁護人にとってはむしろ演技空間を演出することさえ必要となる場合もある。例えば、真実を明らかにする義務が弁護人にあるとすれば、実際に犯行を行ったにもかかわらず被告人が否認している場合には検察官と異なる立証をすることも、また検察官の立証を阻むことも十分にできなくなる。このような場合には、弁護人は検察官の主張とは異なる仮説をたて、仮説の立証に必要な証人と打ち合わせをして、自己の仮説に対してのみ有利な証言をうまく引き出すことにより、検察官の立証を阻まなくてはならないのである。
 もちろん、証拠の捏造や偽証などは許されない。しかし、当事者主義を採用している以上、多かれ少なかれ演技空間性を帯びることは回避できない。そしてそもそも当時者主義が予定したのは、当事者が激しい攻防をぶつけ合わせる中で、中立的立場にある裁判所が冷静に判断することである。このように考えると、当事者主義の中で演技空間性の問題点を是正する方法としては、当事者の立証活動に制約を課す方法ではなく、当事者が反対当事者の立証の演技性等を十分に指摘し、裁判所が演技空間性の問題点を考慮した上で証明力を吟味することをより一層深めていく方向が妥当なのではなかろうか。
 そのように演技空間性を指摘し、それを考慮して判断するには、現状の認識では足りず、法廷の演技空間性及びその問題点をより一層訴訟関係者が理解する必要があると思われる。ただし、現実には、検察官と弁護人が対等ではなく、弁護人が演技空間性を十分に指摘して検察官の仮説を打ち破るのは困難であるから、演技空間性の理解だけでは問題の解決には至らず、その他の法制度の改正・運用の改善などが必要となるであろう。


2. ケース研究T
仲真紀子(心理学・東京都立大学)
法廷における法律家言葉の分析


 仲氏は日本での具体的な調査に基づいて、法廷でのディスコミュニケーションを指摘された。
 アメリカの先行研究によると法律家言葉による質問は解答が困難であるとされている。法律家言葉とは、例えば、複数のことを1度に聞く埋めこみ・マルチ質問、代名詞・指示語、否定・二重否定、複雑な文法、日常では使わない堅い言葉などである。
 そこで、日本における法律家言葉の現状を調べるため、ある中学生に対する強制わいせつ事件において裁判官、検察官、弁護人の質問と子供の反応を調査・分析してみた。
 この調査は、@裁判官、検察官、弁護人の質問が、@WH(いつ、どこ、誰、何)、A埋めこみ・マルチ、B否定、C誘導質問、D疑問、E複雑な文法のうちのどの型に基づいている回数が多いか、A各質問者に対する子供の反応、及びB質問と反応の関係を調べたものである。なお、調査の対象たる被害者の中学生は、検察側の証人である。

@Aの調査結果のまとめ
・ 法律家言葉は日本の法廷でも見られる。
・ 裁判官と弁護人の質問は、マルチや代名詞を含み、長文である。特に弁護人は否定と誘導が多い。
・ 検察官は疑問符のついたWH質問が多く、マルチ、代名詞、否定が少ない。文字数も少ない。
・ 子供は検察官にはANS(文、orはい+文、orいいえ+文)で答え、裁判官と弁護人には回答が少ない。
※ WHはBの調査からも分かるように相手から多くの情報を引き出せる点で良い質問型である。
他方、埋めこみ・マルチ、代名詞、否定、誘導質問、複雑な文法は、分かりにくい等といった点で悪い質問型である。

Bの調査結果のまとめ
・ ANSが生じやすいのは、WHと疑問。
・ ANSが生じにくいのはマルチ、否定。
・ ANSが長いのはWH。
・ DR(覚えていない)・DK(分からない)・沈黙は長文の質問で生じる。
・ 誘導型や否定型は長文の質問となる。
・ 子供の証言能力は質問に依存する。

 以上のことから、検察官は良い質問をしているが、裁判官と特に弁護人の質問の仕方には問題があることがわかる。
 ただし、弁護人は今回の調査では反対尋問をする側であった。そこで、誘導尋問も許される反対尋問であるがゆえに質問が分かりにくくなるのか、また、反対尋問を行うための認知的負荷(裏をかく質問をしなければならないという負荷)が質問を分かりにくくするのか、という疑問が生じる。しかし、反対尋問で多用される法律家言葉は真実の発見につながらない可能性もあるから、やはり望ましくないものである。そして、反対尋問と法律家言葉を分離することは可能ではないかと思われる。

 次に、「一定の『仮説』に基づいて質問することがディスコミュニケーションを生じさせるのではないか」、という仮説を、ある少年審判における調査を通して分析してみる。その少年審判は、少年Aが1回目の質問時には自白していたが、2回目には否認に転じ、他方、少年Bが1回目も2回目も否認していたという事案であった。そして、@少年Aへの裁判官の1、2回目の質問とそれに対するAの応答、及びA裁判官の質問内容と少年の反応内容を調べることで仮説を分析してみた。
 
@ Aの調査結果のまとめ
・ 否認に転じたことによって、裁判官の質問に対する少年Aの答えにおける発話数が激増した。これは、裁判官は有罪と思って質問しているので、自白していた1回目は発話数が少なかったが、否認にじていた2回目は発話数が増大したと考えられる。
・ 裁判官はAの虚偽自白を嘘・想像と呼び、取調べの仕方、少年の無知について尋ねている。
・ 他方、少年は虚偽自白の理由として取調べで「やった」といわれること(取調べ)、皆がやったといっていると信じたこと(信念)、真実を言っても信じてもらえないなどと思ったこと(諦め)などをあげている
・ しかし、裁判官は質問に対する少年の反応・答えを吟味せず、取調べの問題点や信念や諦めを追及してはいない。それは、少年がやったとの仮説に基づいて質問しているため、その仮説を否定するような答えは問題とはならないからであろう。

 以上のように、法廷におけるディスコミュニケーションは明らかである。これに対処するには、@質問の意図を伝える(そのために、明確な主語、述語、目的語を用いて、疑問符をつけた短い質問をする。逆に、マルチ・否定を用いることを避ける)、AANSを引き出すため、WHで尋ねる、BオープンマインドでANSを聞くことが重要である(ただし、Bがなかなか難しい)。

<感想>
 強制わいせつ事件における仲氏の詳細な調査、多角的な分析から、法律家言葉がわかりにくいこと、WHの質問はANSを導くなどというように質問と答えとの間に関係があることがわかる。このような認識を裁判において質問・尋問する者が持っているかは疑問であり、興味深い分析である。
 また、仲氏は弁護人が「悪い」質問をしていたと指摘する。しかし、これに対しては、最後の質疑応答の中で、「反対尋問側の弁護人としては何を証人から聞けばいいかが見えていないので上手な質問ができていないのかもしれない」、との指摘が聴衆から出た。検察側の証人とは弁護人は事前の打ち合わせも行っていないであろうから、その点が弁護人の「悪い」質問に影響した可能性があるだろう。
 なお、確かに、弁護人の質問が証人に多くを語らせていないのは仲氏の調査から明らかであるが、証人に多くを語らせないことが「悪い」かどうかは疑問の余地がある。というのも、証人に自由に多くのことを語らせることが真実の解明に寄与するとはいえるかもしれないが、弁護人は真実を発見するためではなく、被告人のために法廷にいるからである。弁護人としての悪い質問とは、被告人にとって不利な証人に対して多くを語らせることである、とも言い得る。また、裁判官に自己に有利な心証を抱かせるためには、WHではなく、あえてYesかNoで答えさせる方が言い場合もあるだろう。さらに、仲氏のディスコミュニケーションへの対処方法に関していえば、質問の意図を伝えないことにより、より上手に自己に有利な証言を引き出すことができる場合もあると思われる。
 そのように考えると、検察官、弁護人にとって良い質問とは、自己に有利な心証を裁判官に抱かせるために、最も適切な質問型を選んだ質問であると思われる。それに対して、中立的立場にある裁判官にとっては、大抵は、多くを語らせることが良い質問であるといえよう。しかし、裁判官、検察官、弁護人がそのように意図的に質問型を選んで質問・尋問をしているか、またあえて質問の意図を明かさずに質問をしているかなどは疑問である。仲氏の調査結果から分かる質問と答えの関係を認識した上で質問がなされてこそ、各当事者の立証の趣旨が裁判官にとって明確になるであろうから、そのような質問・尋問が法廷でなされることが望ましいだろう。


3. ケース研究U「道頓堀事件を素材に考える」@
莚井順子(大阪弁護士会)
「戎橋ホームレス水死事件」について


 莚井氏は、ある事件の弁護の実体験をもとに、捜査・裁判の問題点、目撃証言の危険性などを指摘された。
 戎橋ホームレス水死事件(道頓堀事件。大阪高裁判決2000年3月31日・無罪確定)の事案は以下である。平成7年10月18日、道頓堀川にかかる戎橋上から60代の男性が落ちて水死する事件が発生した。目撃者は多数あり、捜査線上にはSとTの2人が浮かんだ。Tは逮捕後、過酷な取調べに堪えかねて一旦は自白するが、弁護人(莚井氏)の前では無実を訴え、無実を確信した弁護人の励ましからその後は否認を貫く。Sも逮捕され、当初「一人でやった、落とすつもりもなかった(一人説)」と供述していたが、過酷な取調べの結果「二人でやった(二人説)」という供述に転換させられた。その後、再び一人説の供述をすると、取調べが過酷になり二人説に戻るという繰り返しが続く。第一回公判期日ではSは二人説の起訴事実を認めたが、その後は一人説を貫き、Tの公判でも一人説の供述をした。
 公判では事件の目撃者であり、二人説を供述するA、B、Cの証人尋問が行われたが、どれも信用性を欠く証言であった。その後、他の目撃者D、E、Fが一人説の証言をし、信用性も高かった。
 そして、一審では検察側の証人の証言や検面調書の信用性が否定され、Tが無罪となった。それに対して、検察官は控訴したが、二審でも無罪判決が維持され、確定した。なお、Sに対する裁判は、一審では二人説を認定したが、二審では一審を破棄して一人説の認定をして確定するに至っている。
 本件は無罪に終わったが、一人説を証言してくれたD、E、Fを幸運にも発見できたこと、特に、D、Eは警察の取調べで不快な思いをさせられたにもかかわらず、真実発見の義務ありとして名乗り出てくれたこと、Tががんばって否認を貫いたこと、Sが「一人でやった。Tは関係ない。」と言い続けてくれたことなど、この無罪判決には様々な幸運の要素があった。一方で、厳しい取調べを行い自白させたり、一人説の目撃者がいることを弁護人に隠し続けたり、その他にも捜査にずさんな点が多々あった捜査機関の姿勢には憤慨するところがある。
 また、この事件を通して通して@当事者間は力の差があまりにもありすぎるため、裁判は真実発見の場ではないこと、A明確に目撃していない証人の証言で有罪となる危険があること、無罪であることを目撃した人に証言してもらえずに有罪となる危険があること、B検察官、警察官にしつこく言われると、彼らの言っていることが頭の中に焼きつき、あたかも彼らの言う通りのことを目撃したかのように思いこんでしまうこと、を実感した。

<感想>
 本件は、目撃証言の危険性、警察・検察が逮捕後有罪に執着する姿勢、浜田氏の指摘するように警察官・検察官の立てた仮説があたかも真実のように錯覚する現象、などが具体的に現れ、無実のものが有罪の危険にさらされた典型的な例といえよう。
 本件においては、弁護人の熱意の他に様々な幸運な要素があったこともあって、検察官側の目撃証人が信用できないことや、検察側の仮説が真実ではないこと、を指摘できた。しかし、検察側と弁護側とが対等ではない現実からすれば、本件のような幸運な要素を欠く他の事案では、無実の者が有罪になっているのではないかと疑わざるをえない。


4. ケース研究U「道頓堀事件を素材に考える」A
中川孝博(刑事訴訟法・大阪経済法科大学)
証拠評価をめぐるコミュニケーション


 中川氏は、道頓堀事件の調書、弁論、判決文などを通じて、証拠評価をめぐるコミュニケーションの現状について分析するとともに、いくつかの提言をされた。
 「証拠評価の誤り」の意味は@証拠を適性に評価しなかったという場合とA証拠評価に関する当事者の主張を無視したという場合がある。従来は証拠評価は裁判官の専権事項と考えられていたが、Aは事実認定の当事者による統制を強化しようとする主張である。
 このような主張の是非を考える前提として、証拠評価に関するコミュニケーションの現状を実証研究する必要がでてくる。そこで、@証拠に基づく当事者の主張がどう絡み合っているか(相手の主張の無視、水掛論など)、A当事者の主張に対する裁判官の応答はどのようなものか(当事者の主張の無視など)、B裁判官の応答に対する当事者の反応はどうか(控訴審での原判決批判・正当化の態様)を道頓堀事件を通じて分析してみた。

a.  論告において検察官はある証人の目撃証言の信用性が高いと主張する。しかし、その証人は検察官調書では犯行態様についてはっきりと供述しているが、証人尋問においては犯行そのものは目撃していないと供述している。証言の信用性を主張するのであれば、この調書と公判供述の内容は同じであると主張する必要があるが、論告において検察官は、調書と公判廷供述が食い違っていないことを証明するのではなく、何ら解釈を示さずに、同じであるという結論を暗に示すに止まっている。
b.  それに対して、弁護人は弁論において、上記のような公判供述の解釈をしない論告の姿勢を批判するとともに、調書と公判供述の食い違いを詳細に指摘している。
c.  一審判決は、「…という点に関しては弁護人の主張する通り」というような検察間の主張や弁護人の主張に対して答える形になっていない。いわゆる独白型判決である。また、弁論と同様の結論を示しているが、その論拠部分は非常に簡素であるし、弁論におけるいくつかの主張が無視されている。さらに、弁論に示されていない新たな事情が含まれており、これが分量的にはメインであるが、後に控訴審での混乱を招くことになる。
d.  検察官の控訴趣意書は、論告と比較すると、ほとんどが新主張である。そして、弁論の主張に対する無視が目立ち、それらは原判決でも無視されたものばかりである。原判決が弁論の主張を列挙し判断をしなかったため、控訴趣意書でも弁論の無視が行われたと考えられる。
e.  弁護人の答弁書では、弁論のうち控訴趣意書で無視された部分がメインとなっている。また、控訴趣意書のうちのいくつかの点について、反論を示していない。
f.   二審判決は、きわめて簡素なものにとどまり、また結論だけを示すものになっており、証拠に関する当事者の主張をどのように解釈したかが示されていない。

 以上からもわかるとおり、検察官は証拠内容の解釈を示さずに論告をしているが、当事者に証拠評価についても主張させて、証拠評価についてもコミュニケーションを取らせる必要がある。
 また、一審判決が弁護人のいくつかの主張に言及しなかったため、同じ争いが控訴審で繰り返されることとなるなど、当事者の主張に対して裁判官がどのように評価したのかが明確でない。そこで当事者の主張を列挙し、妥当である・妥当でないと欠く必要がある。それは判決理由の規制ともいえる。
 さらに、控訴審段階で検察官は新主張を次から次へと繰り返したが、一審の論告で言及できなかった事情は一切なかった。そこで、刑訴法382条の2の議論を参考にして、刑訴法382条の「事実の援用」を限定的に解釈して新主張を制限すべきである。
 今後、こうした点について研究を進めていく予定である。

<感想>
 道頓堀事件の調書や論告、控訴趣意書等を見ればわかるとおり、反対当事者の証拠評価に対してそれを批判することなく無視している箇所がある。当事者が証拠評価について主張をぶつけあわせることで、客観的立場にある裁判官にとっても冷静・公正な判断が可能になるから、なるべく全ての証拠評価について当事者は見解を示すべきであろう。また、相手方に有利に見える証拠であっても、それに対する相手方の証拠評価を無視するのではなく、自分なりの証拠評価を示すことで初めて自己の主張がより説得的になると思う。
 他方、裁判官が当事者の主張を無視、あるいは、当事者の主張が裁判官の証拠評価にどのように反映したかが不明な箇所が多々ある。当事者の主張がどのように反映したかが示されてこそ、裁判官が判決を下すに至った過程、当該証拠評価を下すに至った過程がわかり、当該判決が適切な判決であったかが判断しやすくなるし、また不服申立もしやすいであろう。
 当事者の主張に裁判官の判断が法的に拘束されるとすると、例えば当事者の能力の差だけで裁判の結果が決せられることにもなりかねないなど、様々な問題があると思う。しかし、当事者の主張が裁判官の判断にどのように影響したかが示されることで、自己の主張が受け入れられなかった場合でも、当事者の判決に対する納得をより得られるであろうし、裁判の誤りをより判断しやすくなるであろう。よって、少なくとも、裁判官としては判決で当事者の主張をどのように評価したのかを示すことが望ましいであろう。

5. コメント
秋山賢三(元裁判官・東京弁護士会)
日本の裁判官と法廷のコミュニケーションの認識


 秋山氏は、元裁判官という立場から裁判官の意識、法廷の実状について詳細に説明された。
 裁判官の担当事件のほとんどが自白事件であり、量刑裁判所の役割が基本となる。この場合、検察官の求刑を2割引いた量刑行動が通常であり、それは検察官主導の実体といえるが、いかにも判決行動が裁判官の主体性によって行われているかのような外観を呈しつつ進められている。それに対して、例外的な否認事件が係属すると、裁判所は@オウム事件のようなはっきりした「長期係属重大事件」、Aまれにやってくる「まともな否認事件」、B「弁護人が被告人の言いなりになって、やたらとがんばるので困る事件」のどれかとして受け止めるものである。そのため、裁判官がどこかで「予断」を持ち結論を決めてしまっている場合には被告人・弁護人が懸命に争っても、まともに審理してもらえず、冤罪事件が生まれることとなる。また、否認事件においては裁判官の意識は、長期係属による裁判官自身の負担が問題であるというのが基本であり、当事者の負担と苦しみは考える余裕がない。
 また、調書裁判化している下での裁判官の意識は、検面調書に何がかかれているかという関心が基本的に旺盛である。そのため、公判審理が形骸化し、結果的に冤罪の多発という現象を生むことになる。
 キャリアシステム下での裁判官としての特有の問題点も多い。まず、保身・出世を気にしながらの裁判・判決となってしまう。また、被疑者・被告人と同じ目線に立って話したことがないので、被告人の心理が理解できない。例えば、「本当にやっていない者が自白調書に署名するはずがない」などと考えてしまう。特に、取調べの実情を知らない点は問題が大きい。
 無罪判決に対して検察官控訴が許される制度による影響もある。例えば、検察官上訴されないように危惧する意識があり、結果として「疑わしきは被告人の利益に」の原則が機能しない現実を生む。
 その他にも、わが国の裁判官は@起訴された被告人は概して有罪である、A検察官証人は嘘をつかないが、弁護人側証人については、とりわけ偽証に注意しなければならない、B有罪か無罪か迷ったら、有罪にしておいたほうが後悔しなくて済む、C2号書面はとりあえず採用しておいて、その後ゆっくり判断すれば良い、などと言った意識を持っている。
 このような現実を打破するには、組織体としての検察官・警察官の在り方の改革、捜査の可視化、証拠の全面的事前開示などの実務改革、弁護士経験のある裁判官の選任や陪審制の導入など裁判主体の改革等が必要である。

<感想>
 秋山氏の指摘するように、無罪推定の原則が働いていない現実があるようである。全ての裁判官が秋山氏の指摘する裁判官のような意識であるとは思わないが、そういう問題のある裁判官が現実にいることは確かであろう。そのような問題のある裁判官が一人でもいれば冤罪が生まれることとなるのであるから、重大な問題である。
 このような意識を持つ裁判官が現実にいることは、裁判官の個人的な問題もあるであろう。検察官や裁判官が冤罪事件に対してどのような考えをもっているのかわからないが、冤罪に対してそれほど危機感を抱いていないように感じられる。検察官や裁判官が、冤罪の犠牲者の話を直に聞く機会を設けるなどして、意識を改革する必要があるのではなかろうか。
 また、裁判官の個人的な問題以前に、刑事司法の構造的な問題が大きいようである。そのような構造的な問題は以前から指摘され、改革の必要性も唱えられていたが、あまり改革が進んでこなかったように思われる。今度導入される予定の裁判員制度により、裁判官が市民と一緒に仕事をすることによりその意識が改革され、また裁判員を経験した市民の体験談等から、刑事司法の実情が世間に知れ渡り、より改革の声が強まれば良いと思う。


 最後に、前原宏一氏(刑事訴訟法・明治大学)から「<アピール>『法と心理学会』第2回大会に向けて─法と心理学会の発展に何を期待するか」があり、今後どのような方向での研究が進められていくことを期待するか、というお話とともに、法と心理学会第2回大会の案内があった。ちなみに、「法と心理学会」の第2回大会は2001年10月20日(土曜)に一橋記念講堂及び会議室(東京都千代田区一ツ橋2丁目)において行われるそうである。

文責:J.T.(五期生)