バッハゆかりの町

友人の則松君はバッハのCDを全部もっており、学生時代からのバッハ・ファンとのこと。社会人になってから徐々にバッハに興味をもつようになった僕は彼の足元にもおよばない。

ドイツのエアフルトに住む佐分さんは、僕の友人である柳澤君の昔のコーラス仲間で、僕にとっては、まだお会いしていないメル友である。このようにして佐分さんとメル友となった則松君が、バッハ談義のなかで「ケーテンはバッハ・ファンとして行ってみたかった」と佐分さんあてに書いていた。

 僕はケーテンがどこにあるか知らず、このたび地図で調べてみた。KoethenはLeipzigの北西に位置することが分かった。これをきっかけに、バッハゆかりの町を地図の上で旅行してみょうと思い立ち、この文章を書きはじめたのである。

 調べてみると、Eisenach-Leipzig- Koethen-Hamburgで、Hamburgでは, グラモフォン本社訪問、アリス=彩良・オットのピアノ演奏を聴くという贅沢があるが、日程的にはきつい。今回は、紙の上での旅なので、日程的にゆったりとした贅沢を味わおうと思う。ただし、聴く楽しみでなく観る楽しみに偏ってしまうのは致し方ない。

 バッハの生涯の順序に尋ねる案もあるが、地理的に周遊しやすいルートをとってみよう。僕自身、その一部を廻ったゲーテ街道、エリカ街道の二つのルートをたどれば、主要な町を効率的に訪ねることができる。鉄道利用の地図を最終頁に描いた。

アイゼナハEisenach:

バッハの生地である。2002年に当地を訪れた際はワルトブルク城とルターの家に時間をとり、バッハの家(生まれた家ではない)は外から眺めただけ、洗礼を受けた聖ゲオルグGeorg教会のある広場ではゆっくりしたが、教会の中には入らなかった。次回は中も見たいものだ。

左バッハの家

右 聖ゲオルク教会
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ミュールハウゼンMuelhausen

ここは、今回地図で調べたところ、アイゼナハから北東に位置することを知った。バッハは22歳でここの聖ブラジウス教会のオルガニストとなった。アルンシュタット時代とヴァイマール時代には挟まれた短期間である。この近郊で最初の妻との結婚式を挙げている。

ミュールハウゼンから南東に向かえばゴータに着く。ゴータから後述のオールドゥルーフとアルンシュタットへは近い。

オールドゥルーフOhrdruf

父母の没後、長兄に引き取られ、ギムナジウムに入った町。僕は行ったことはないが、次回訪問時のスケジュールに入れるほどの名所旧跡はなさそう。日本のバッハ関連の本にはオールドルフと書いてあるものが多いが、Ohrdorfという町は存在しない。

アルンシュタットArnstadt

ゲーテ街道を、アイゼナハからワイマールにむけて東進する際、途中のゴータで南へちょっと下ると前述の オールドゥルーフと、その東側に、これも僕が行ったことのないアルンシュタットがある。バッハが18歳で、そこの新教会のオルガニストに就任している。合唱隊のレベルがひくくて嫌気がさしたと言われる。20歳の時、ここからリューベック(後述)まで400kmを徒歩で行ったという。

ヴァイマールWeimar

ザクセン=ヴァイマール宮廷楽団楽師長に29歳で就任している。僕は2002年にヴァイマールを訪れたが、ゲーテとシラーの銅像の立つ劇場前、ゲーテ・ハウス、シラー・ハウス、それにバッハゆかりの城(今はStadtschlossというが、Wilhelmschlossとも言われた)を外から 眺めたのみ。次回は、当地に一泊してゆっくりしたい。

ヴァイマール時代のバッハの代表的作品: 「トッカータとフーガ ニ短調 ドリア風」

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ライプツィッヒLeipzig

ヴァイマールから北東に向かう。バッハが39歳で聖トーマス教会カントールに就任してから65歳で没するまで滞在した土地である。僕がライプツィッヒを訪れたのは1979年の見本市見学のためだった。記憶にあるのは、当時の東ドイツの人々の表情が暗かったこと、僕のロンドンへ戻る飛行機が雪でキャンセルになり、バスで東べルリンー西ベルリンと連れていかれ、翌日特別仕立ての便でロンドンにもどったこと。それに聖トーマス教会を訪れてバッハの銅像を見、教会の中に入って練習中の合唱を聞いたことである。ここに現在あるオルガンはバッハやモーツァルト時代のものとは異なるとのことだった。ドイツ統一後のライプツィッヒは、まだ訪ねていたいので次回は再訪したい。バッハ博物館もあることだし。

ライプツィッヒ時代の代表的作品:「ロ短調ミサ」「マタイ受難曲」「ヨハネ受難曲」「クリスマス・オラトリオ」「平均律クラヴィーア曲集第2巻」「ゴールドベルク変奏曲」「管弦楽組曲第2番・第3番」「音楽の捧げもの」

右バッハ像

左聖トーマス教会内部
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ハレ Halle

ライプツィッヒの北西に位置する。34歳のときにヘンデルを訪ねたが会えなかった土地。後述のケーテンより大きな市であるが、バッハゆかりの名所旧跡はさほどなさそそう。バッハはハレの町とオルガニスト契約寸前までいったが、結局はヴァイマールにとどまることになった。 僕の未訪問地ではある。

ケーテンKoethen

ハレの更に北に位置する。32歳から37歳まで、アンハル=ケーテン候レオポルドの宮廷楽長。僕の未訪問地で小さな町だが、城も残っており、歴史博物館は一名バッハ記念館であり、次回は是非とも行ってみたい。

ケーテン時代の代表的作品:宗教曲はない。「ブランデンブルク協奏曲」「平均律クラヴィーア曲集第1巻」「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」「無伴奏チェロ組曲」

ドレスデンDresden

ケーテンに就職が決まった32歳のときに、フランスの名オルガニスト、ルイ・マルシャンに会おうと出かけた土地。バッハはマルシャンとの競演をさせられることになったが、マルシャンは逃げてしまい。バッハは宮廷教会で独演することになった。

僕がドレスデンを訪れたのは2007年。バッハとの関係がなくても爆撃後復興した名所旧跡は、Zemper Oper、Zwinger宮殿、Frauen教会など見所が沢山ある。再訪してみたいところである。

宮廷教会
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ポツダムPotsdam

ドレスデンから一気にベルリンまで北上し、ここではバッハとは関係のない名所・旧跡や音楽会を楽しもう。そしてベルリンからちょっと南下してポツダムへ。バッハ62歳のときにプロイセン王をポツダムに訪問、即興演奏をしている。これをもとに「音楽の捧げもの」を作曲、献呈している。面会の宮殿は有名なサン・スーシーではなく、新宮殿であったようだ。僕は2007年にベルリンからの日帰りでポツダムを訪れたが、高大な庭園を歩き回るのに時間をとった。次回は、宮殿内部も見てみたい。

「音楽の捧げもの」はジュネーブに住む友人海野君がフルートで奥様のチェンバロと共に演奏するそうである。いつの日か聞かせていただきたいものだ。

新宮殿
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さて、ベルリンからは列車で、ハンブルクへ1時間半、その後エリカ街道を南下することとしよう。ベルリンからハノーファーへ列車で1時間半、そこからエリカ街道を北上してからハンブルクという途もある。

ハンブルクHamburg

バッハは35歳の時にハンブルクを訪れ、聖ヤコビ教会のオルガニストを志願している。試験は聖カタリーネン教会で受けている。バッハには「その地位を買う金」がなかったため就任は実現しなかった。

僕のハンブルク訪問は1972年夏が最初、日独青少年友好協会がアレンジした「ドイツの旧友に会う自由な旅」がパリ到着解散―自由行動―ハンブルク集合という日程のためだった。

次は、1976年9月、欧州駐在赴任を前にした引き継ぎで出張したとき。最後が2000年にオランダから自動車でエリカ街道とメルヘン街道を同僚と回ったときだ。 最初の2回は市庁舎Rathaus地下のレストランへ行った。安くて美味。アールズッペ(鰻のスープ)が有名。市役所は 聖ペトリ教会のそばにあり、聖ペトリ教会の隣(さらに中央駅側)に前述の聖ヤコビ教会があり、この3つは一つの写真に納まる。聖カトリ−ネン教会はエルベ川沿いで、一緒に撮るのは無理。

左から順に、市庁舎、聖ペトリ教会、聖ヤコビ教会の塔
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リューベックLuebeck

ハンブルクから北東に位置するハンザ都市。トーマス・マンの生家がることでも有名。20歳のバッハは、聖マリーエン教会でのブクステフーデのオルガン演奏を聴きに行き、リューベックには4か月、アルンシュタットの雇用主に無断で滞在した。

僕はリューベックを2000年に2時間ほど周遊した。ここで有名な建物は、ホルステン門と、そこから市に入って右側の聖ペトリ教会と、左側の聖マリーエン教会。

たまたま最近(2月16日)にNHK FMを聞いていたら、ブクステフーデのアリア「カプリチョーサ」と32の変奏曲フランチェスコ・トリスターノによる(チェンバロでなく)ピアノ演奏が流れていた。バッハのゴールドベルク変奏曲・第30変奏に影響を与えたという。

左から聖マリーエン教会・ホルステン門・聖ペトリ教会
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リューネブルクLueneburg

塩の産地として栄えた。バッハは15歳で聖ミヒャエル教会学校の給費生となった。合唱隊でボーイ・ソプラノが変声期で歌えなくなってからも、オルガンやヴァイオリンを弾いていたという。2000年に僕は1時間ほど訪ねたのみで、写真の定番観光地は見たものの、聖ミヒャエル教会は外側さえ見ていない。

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ツエレCelle

さらにエリカ街道を南下して、英国のチェスターのように木組みの家の街並みで有名なツエレへ。僕はやはり2000年に訪れた。 16世紀に建てられた建物が多いので、現 7 代のこの風景はバッハの時代のものと変わらないのだろう。ここにはブラウンシャヴァイク=リューネブルク公の宮廷があり、バッハはリューネブルク時代に、そこで知己となったド・ラ・セルの紹介で、この宮廷を訪れ、そこで盛んに演奏されていたフランス音楽に親しんだ。当時、ドイツではフランス楽派とイタリア楽派が競っていたというが、バッハは両方を吸収したそうだ。

木組みの家並み

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この後は、近くの大都市ハノーファーへと南下し、そのあと国際線発着空港のある都市へ向かうのがよいだろう。 またはハノーファーからメルヘン街道を南下し、ゴスラー、ゲッティンゲン、ハーメルンなどを、おまけとして周遊することもできる。

以上