『中原中也の手紙』展(6月15日〜8月4日)を観る

前置き:

 2013年7月6日 (土) 、神奈川県立近代文学館を訪れた。この日はボートを漕ぐ練習のために鶴見川へ行ったが、強風で中止となり、そのまま鎌倉の自宅に帰宅するのももったいないので、まだ行ったことのない、横浜は「港の見える丘」公園を散歩しようと思い立ったのである。

 さて、大仏次郎記念館、近代文学館のどちらへ行こうか、と迷ったが、前者は常設展が主、後者は常設展と特別展があるので、後者を選んだ。400円の入場料は65歳以上は200円と安い。

 常設展「神奈川と作家たち」は、特別展を左右で挟むようになっており、神奈川に住んでいた作家、神奈川を舞台にした作品を生んだ作家を紹介。一人につき2〜3枚の写真と説明パネルで一メートル幅しか占有していないから、説明も簡潔である。興味ある内容だが、 20分ほどで見終えた。再訪してじっくり見直す価値はあろう。

『中原中也の手紙』展:

さて本題に入る。僕は詩の鑑賞に興味がない野暮人間である。中原中也の詩は、今は国語の教科書に取り上げられることがあるという。僕が中学・高校生当時はそうではなかった。中也について、これまで僕が知っていたことは:

「幾時代かがありまして….ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」と 「汚れちまった悲しみに」の二つの詩。日本のランボオと言われることがある。ランボオ気取りの写真。夭折したこと。

この展示会には、時間つぶしの軽い気持ちで入ったのだが、結果は、大変面白かった。今回知ったことは中也の交友の広さ。特に感動したのは、中也んおmと手紙の相手、安原喜弘(よしひろ)との友情と魂の交流である。これについては後述する。

中也略歴紹介ビデオ

この展示会は、2012年秋に中也の故郷、山口県 湯田温泉の中原中也記念館で催されたものを基礎にし、中也から安原への104通の手紙を中心とする。 その記念館作成の17分のビデオを,今回の会場の入り口近くで 繰り返し上映していた。1907年生まれで、小学校では神童、中学では成績が落ちているが、小学校(尋常)6年のときの習字のうまさはすごい。後に安原に送った手紙(多くは原稿用紙に書いてある)も非常に読みやすい。京都の立命館中学に転校してから、富永太郎を誌友に得、三歳年上の長谷川康子と同棲するが、東京へ出てから富永が夭折し、長谷川康子が小林秀雄のもとに走って、精神的打撃を受けている。長谷川康子は1993年まで生きた。グレタ・ガルボに似た女コンテストに当選した美貌である。ビデオでは諸井三郎が曲をつけた「朝の歌」を聴くことができた。弟 恰三の死、長男 文也の死が特に精神を衰弱させた。最後まで中也が経済援助を頼った母フクは1980年まで生きている。

1937年、中也は計画していた帰郷を果たさず、鎌倉寿福寺内の家で30歳で亡くなる。今の展示会が、神奈川近代文学館で催されたのも、その縁である。

安原(右)

奔放な女 長谷川康子

中也にも背広姿の
(NHK受験用)写真
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交友関係

大岡昇平によれば、安原を除き「彼に献身的な愛情を持つものでないと、友情は長続きしなかった」ということだが、展示会で紹介されている交友の広さには驚いた。前述の諸井の主宰する「スルヤ」の会で知った内海誓一郎も、中也の詩に作曲をしている。音楽と言えば、年下の吉田秀和(中也からフランス語を習った) は、中也の唄う歌は音程がしっかりしていた、と証言している。安原が、はじめて中也を大岡に紹介されたとき、3人でべート−ベンの第9を聴いたこともあるという。古谷綱武の紹介で彫刻家の高田博厚とも交流があり、高田のフランス留学中も交信を続けた。展覧会場には高田製作の中也の頭部ブロンズ像があった。高田は中也の生前と、没後20年ほどと、製作しているが、展示品はどちらの(レプリカ?)ものか判然としなかった。

高田博厚による中也像

大岡昇平

小林秀雄

安原喜弘
―まじめなイケメン
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中也の酒ぐせの悪さは、安原が同行してなだめるのに苦労したほどだったらしい。一対一で飲んだ場合はおとなしが、人数が多い会ではかならず喧嘩を吹っかけ、大岡はいつも殴られ役。それでも後年、中也の評伝を書くほど大岡は中也に影響を受けた。ビール壜でなぐられた中村光男は、殴ったあとで「俺は悲しい」と泣き伏した中也の悲しみがよく分かり、怨む気持ちにはならなかったという。もっとも太宰治のように、罵倒されて恨みをもち続けた人も多いそうだ。檀一雄も離れていった一人。中也が中心になった同人誌「白痴群」同人には、安原、大岡、内海、古谷、のほか河上徹太郎、阿部六郎、富永次郎、村井康男もいた。小林秀雄とは長谷川康子の一件で複雑な関係にあったが、小林は中也の詩の真の理解者の一人で、中也の「山羊の歌」の文圃堂による刊行は小林の紹介による「山羊の歌」の装丁は高村光太郎による。

挫折した生活者である中也を、没後「生前は無名に近かった」と潤色する向きもあったが、生前はかなり、有名だったのが事実とのこと。

安原喜弘との交友

前述の大岡、小林、中村のように、中也を理解する度量の人々はいたが、安原のような理解者は他にいない。旧制成城高校時代、京都帝大生時代と交友があり、中也の死までの真の唯一の親友であった。「山羊の歌」刊行に奔走した、安原による出版社への指示書が展示されていたが、実に細かい。安原著「中原中也の手紙」(中也の手紙99通)は現在、講談社文芸文庫で手に入る。(ちなみに大岡による評伝「中原中也」も講談社文芸文庫にある。)

今回の展示は中也の手紙であり、安原から中也への手紙の展示はなかったが、安原による言葉の引用はあった。安原と中也の魂の交流で、僕が最も感動したのは次の点である。

1) 中也が、就職後の安原に「エラン・ヴィタル[注]に欠ける」と批判めいた手紙を書いたことについて、安原は「これは、自分に対する鞭とうけとめる」と謙虚に言っていることだ。安原は当時、横浜の女学校教師であり、それを中也が指していたのかもしれない。一方、中也や一生、定職がなく母のすねかじりであった、と意味で「挫折した生活者」であったにも拘わらず、である。
2) 中也の死の直前の病の重さを、真に理解していなかったと安原が自責している、その悲痛さ。
3)安原は、自身が亡くなる直前にキリスト教徒となっているが、その理由が、安原より数十年前に没した中也(キリスト教徒で鎌倉の教会に通ったりしている)を本当に理解したからだった、という。

[注] élan vital。ベルグソンが「創造的進化」(L’Évolution Créatrice)で唱えた。「生命の躍動」または「生命の跳み」と訳される。