大蔵流五家(ごけ)狂言会を観る
2015年6月16日 虎長

 東京新聞芸能欄でこの催しを知り、5月30日(土)に渋谷セルリアンタワー能楽堂で観た。渋谷には長らくのご無沙汰で、セルリアン東急ホテルがあることも、その地下2階に能楽堂があることも知らなかった。狂言には大蔵流と和泉流がある。大蔵流五家とは大蔵弥右衛門家(東京)、茂山千五郎家(京都)、茂山忠三郎家(京都)、善竹家(阪神・東京)、山本家(東京)のこと。これらの若手(32歳~44歳)17名による競演。11時半と15時半開演の2部構成。僕はきばって両方を観ることにした。 1部は正面の前から3列目、2部は脇正面の前から3列目、いずれも右寄りだが悪くない席をとれた。観客に若い女性が多いのは意外だった。

セルリアンタワー能楽堂

平面図
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狂言との出会い:
 中学1年の頃、雅楽面、能面、狂言面に凝り、それが狂言への興味に繋がった。古本屋で「狂言記」(江戸初期の台本)を大正期に活字印刷したものを安価で買って読みふけった。同時期、落語にものめりこんでラジオで聞くだけでは飽き足らず、「落語全集」を耽読した。ところが、狂言に関してはラジオ放送などなく、このように読むことから入ったのだが、結構楽しめた。ところで、狂言師が子供の時にせりふをおぼえるのは今でも口伝えで、台本読みはしないそうだ。

狂言には下品な笑いはない。どんな人間にもある失敗・弱みなどを平等な目で観察した可笑しみに落語との共通性を見出した。本物の狂言を初めて観たのはいつだったか覚えていないが、1971〜1972に鎌倉能舞台で能の観劇勉強会に通ったときは狂言も頻繁に観ることができた。この時初めて、会話の面白さとは別に台本にない動きの可笑しさを堪能できた。狂言リアルタイム観賞はそれ以来。

狂言の面白味:
 カラッとした笑いが好きだ。英雄や偉人でなく、いつの時代にもいそうな人々が登場人物であり、理解しやすい。太郎冠者が仕える「大名」がよく出てくるが、これは何万石の大名とは異なり、家来が一人しか、または一人もいない土地持ちの侍にすぎない。茂山千之丞、山本東次郎といった狂言師は、その著書で、民主・平等という狂言の特徴を誇りにしている。ただ可笑しいというのでなく、精神性もあるのだ。山本東次郎は更に、殺人場面がなく刀をとりあげる曲目が多いことを例示して、反戦・平和をもう一つの特徴にしている。

大蔵流と和泉流:
 江戸時代、大蔵流狂言は幕府式楽の能の付属物であり、形式的であったようだ。和泉流は尾張藩に保護され、禁裏御用もつとめたが皇室には雅楽が式楽としてあり、能は娯楽であったので、その付属物の狂言は慰みの要素が強く写実的だったという。現在でも大蔵流より和泉流の方が派手と一般的には言われるそうだ。

狂言における「そぎ落とし」:
 狂言が「分かりやすい」というのは芸術的価値が低いということではない。純粋にするため余分のものをそぎ落としているため分かりやすいのだ。和泉流の野村萬斎の狂言は、僕は実演を観たことがないが、一層のそぎ落としをしているらしい。故四世茂山千作は、僕はその豪快な笑いをDVDで知るのみだが、役にのめりこんだリアリズムがある。大蔵流でも京都の茂山家は、江戸時代和泉流と同様の活動をしており、和泉流に似た芸風がある、とのことなので合点がいく。

当日の曲目をふりかえる:
一部(11時半開演):

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昆布売り:同道する家来のいない大名が街道でいきあった昆布売りの行商人に太刀持ちをさせる。昆布売りはその太刀で脅して大名に昆布売りをさせる。はじめ威張っていた大名が、立場が逆転し、昆布売りの歌をいろいろな節回しで歌わされるところがおかしい。憎めない人物の大名は太刀を取られてしまう。

左図は「狂言記」から。黒い旗の様なものが昆布。大名が昆布売りに太刀を持たせようとするところ。

このあと地謡と小舞が3曲あったが、よく理解できなかった。


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口真似:太郎冠者は主人の命令で、酒を飲む相手を探してくる。供応役も他に召使がいないので、太郎冠者がすることになるが、やり方を知らない。主人は「自分を真似ろ」と指示。太郎冠者の失敗を主人が次から次へと叱りつけると、太郎冠者は同様に客を次から次へと叱りつける。主人が怒って太郎冠者を倒すと太郎冠者は客を倒す。この曲目は「柳樽」との名前もある。

左図は「狂言記」から。右が主人、左が客人。中央が主人を真似ようとする太郎冠者。


上図は「狂言記」から。当日の武悪の幽霊は図とは異なり、顔を覆い隠すようなザンバラ髪。
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武悪:一つの狂言は普通15〜20分だが, 武悪は50分かかる。狂言面で鬼がかぶる武悪面があるが、この曲目には関係ない。武悪は太郎冠者の同僚で主人に仕えていた者の名前。といって武も悪も「強い」という意味で、固有名詞というよりも「強いやつ」といった感じ。
武悪が無断欠勤をしたので、主人は太郎冠者に太刀で切ってこいと命令する。古い台本の説明によれば、主人の父と武悪は昔同じ主人に仕える仲間だったが、主人の父が成り上がり大名になり、面白くない武悪は個人的に蓄財していたことも、現主人の気に入らなかった、という。が、この辺の事情が舞台で演じられるわけではない。太郎冠者は武悪に同情して切ることはできず、逃がす。主人には切ったと嘘の報告をする。
主人は太郎冠者をつれ、清水寺へ参る。武悪も命拾いのお礼と、京を去る名残に清水寺に参る。主人は武悪を見つけるが、太郎冠者は「自分が確認してくる。」と言い、武悪には幽霊の恰好をするようにコッソリ助言。武悪が、あの世で主人の父から主人を連れてこいと言われたと告げると、主人はおびえて逃げる。最も面白いのは、武悪の幽霊と(太郎冠者を通しての)主人との会話。 この曲目は、山本家の3人により演じられたが、みな「存ずるう」「ござるう」「おっしゃるにはあ」と語尾を下げる発声法だ。太郎冠者の発声は特にこれがきつくて、せりふが形式的に聞こえた

上図は「狂言記」から
左の田舎者は、ついに詐欺師を見破り怒っている。右の詐欺師はウソがばれて困った顔。

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仏師:田舎者は仏像を彫ってもらうために上京。詐欺師が、これにつけこみ「仏師」を自称。田舎者は仏像の印相が気に入らぬから直してくれと頼む。「直した」とするものも気が入らず、また直すように頼む。この繰り返しがスピ−ドアップされていく。実は面をかぶって仏像をよそおっていただけの詐欺師は、そのスピードについていけず、ついに破綻する。だまそうとした都会の詐欺師が翻弄されるのがおかしく、詐欺師が、仏像の振りをして、その都度とるポーズが面白い。これは実演を観て初めて味わえる面白さだ。

このあと地謡と小舞が2曲あった。

佐渡狐:それぞれ年貢納めに上京する、佐渡の百姓と越後の百姓がたまたま同道することになる。越後が佐渡に「離れ島だから不自由だろう。あれはあるか、これはあるか。」と尋ねる。佐渡は「何でもある」と答える。越後が「狐はいないだろう。」というと佐渡は「いる。」と答え、刀を賭けて勝負する。領主の奏者(取次役)に判定を頼む。佐渡は、奏者に賄賂を渡す。それを受け取る奏者の人目を気にしたしぐさが面白い。奏者は佐渡に狐の特徴を教えるが、越後が同席した際に、それを佐渡は忘れてしまう。そこで、奏者が越後に分からないようにジェスチュアで佐渡に教えるところが、またおかしい。狐の特徴をあげてひとまず勝ったはずの佐渡は、越後から「狐の鳴き声」を聴かれて「東天紅」と鶏の鳴き声を言って、刀を取られる。

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左図は「狂言記」から、佐渡の百姓と越後の百姓が向き合い、中央に奏者が判定者として座っている。

当日の舞台では正面から向かって右から奏者、越後、佐渡と並び、奏者が一人おいた佐渡に、隣の越後に気づかれぬように、ジェスチュアで狐の特徴を思い出させようとする懸命な姿が滑稽だった。

髭櫓:たいへんポピュラーな曲目らしいが、「狂言記」には載っておらず、僕は今回はじめて知った。大髭自慢の男が大嘗会の犀の鉾を持つ役に選ばれた。そのため衣服の新調を妻に訴えるが、妻はそんな余裕はないから役を断ってくれという。夫が再三頼むと、「役に選ばれたのも、常々むさくるしいと思っていた髭のせいだから、髭も切ってしまえ」と妻は言う。起こった夫は妻を打擲して追い出す。妻は武器を持った近所の女房達の助太刀で夫を懲らしめにかかる。夫は髭を守るため櫓を首からかけて防戦する。最後は大毛抜きで髭を抜かれてしまう。
小さな櫓と巨大な毛抜きのコントラストがおかしい。太郎冠者もののような面白さはない。どこにでもあるような夫婦間の会話が笑を誘うのと、妻と近所の女房6人も女役が登場し、男一人と立ち回りをする賑やかさが特徴といえる。

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髭櫓:「狂言記」には載っていないので、挿絵もない。また、当日撮影禁止だったので、ここでは他の公演の写真で、当日の衣装・雰囲気に最も近いものを借用。首から下げた箱形の枠の様なものが櫓。

蛇足:能も狂言も主役をシテという。語源は仕手、為手という。能の脇役はワキと言い、語源の詮索は不要だろう。狂言の脇役はアドという。この語源を調べてみた。受け答えを意味する「あどうつ」、率いるという意味の「あどもう」などがある。特に分からないのは「率いる」だ。狂言回し(進行役)だから「率いる」のだろうか? 納得のいくのは茂山千之丞のホームページにある、「挨拶(あど読む)う」で「あどう」とは相手の態度や言葉に調子を合わせる、もてなす、との意味だそうだ。なお、大名狂言、小名狂言との分類があるが、大名がシテのものを大名狂言、大名がアドのものを小名狂言というのにすぎないとのこと。大名より位の低い小名が登場するという訳ではない。

最後に:十分楽しめた。今回が第一回の大蔵流五家狂言会、第二回は来年京都で開催と。交通費を考えると大変だ。観光など多目的も兼ね合わせていくことを考えようか。うしろの席にいた老夫婦が「一部と二部合計で6千円ならなあ(実はそれぞれ6千円)」と話していた。同感ではあるが、観客席・観客数が少ない狂言では、この入場券価格でも運営が大変だろうと思う。観客への携帯電話使用禁止の館内放送なども演者自身がおこなっていた。

以上