From: Kokichi Honda
昨日の3万人デモは平和裏に行われた。 上記2)のためか、今日のデモは中止との噂。 リビアと異なり、鎮静化の方向なるも、上記3)の解決は長引くかも。 従業員は午後4時に帰宅させてはいるが、仕事は正常に行っている。 と言うわけで、ご安心ください。 本多@バーレン [添付ファイル]
スンニ(スンナ派の人)とシーアバーレンでシーア住民の多い地域へいくと、黒旗を目にすることが多い。いうまでもなく弔旗である。あたかも昨日の死者を弔っているように見えるが誰を弔っているのか? 680年に(現在イラク国内の)ウマイヤ朝軍に破れてカルバラーで戦死したフサイン(ホサイン)である。 ご存知のようにイスラム教の始祖はモハメッド(ムハンマッド)である。 話がとんだが、シーアの起源に話をもどす。 第3代カリフのウスマーン(ウマイヤ家の長老)は、ウマイヤ家のムアーウィアをシリア総督に任命した。ウマイヤ家は、メッカの名家であるが、モハメドがメッカを征服したときにやむなくイスラムに加わった家柄である。ちなみにモハメッドの家はハシーム家で、その子孫は現在のヨルダンの王家。 第4代カリフにアリー(イスラム理想主義)が決まる際、ムアーウィア(現実政治家)は支持の態度を保留した。アリーとムアーウィアは正統カリフをめぐる紛争で調停をすることになった。アリーを妥協者と非難視し、アリー派から袂を分かったハリージ(立ち去るハラジャが語源)派(または複数でハワーリィジュ派)はアリーを暗殺。ムアーウィアの暗殺も謀るも失敗。ムアーウィアはウマイヤ朝をダマスカスに開き、ウマイヤ朝初代カリフとなった。 アリーとファティーマには長男ハサン(佳人の意)とフサイン(小さな佳人の意)がいた。アリーが遷都したクーファにムアウィーヤの大軍がおしよせたとき、ハサンはカリフの権利をムアウィーヤに売ってしまった。ハサンは670年に毒殺される。 ムアウィーヤの生きている間、フサインも宥和的平和路線をとっていたが、ムアウィーヤの息子ヤジード(悪徳者といわれる)の代に、これをうつべく、しかも敗戦覚悟で戦ったのがカルバラーの戦いである。このときクーファの住民はフサインを見殺しにした。 1月10日は「アシューラ(10)の日」いい、シーア派の多い、バーレン、イラン、イラクでは「フサインを見殺しにした」という慙愧の念を表すために、鎖で自分の体を打って行進する行事が今でもある。バーレンではこの日は祭日である。 シーア派にはイスマイール派(パキスタンの一部、インドの一部)、ザイド派(イエメン)もあるが多数は十二イマーム派。イマームとは「(信徒の)指導者」の意味で、アリーを初代とし、891年に突如姿を隠した第十二代までのイマームの言行を重視する。なおイマームが普通名詞の場合は「礼拝の導師」という意味で誰でもかまわないから、ややこしい。 十二イマーム派がシーア派の多数をしめるようになったのは、16世紀以降。 スンナ派(スンニーとはスンナ派の人)は、その起源がシーアほど明確でない。 シーアはモハメッドの血統を重視するから、「血統派」「伝統派」といえるように僕には思える。ある説では、初期シーア派には「シバの女王」の伝統をもつイエーメン人が「高貴な血統による統治」を重んじたとか、第3代イマームがササン朝ペルシャの最後の王の娘と結婚してペルシャ王朝の伝統を継承した、ともいう。 シーア派は、「アブー・バクルでなくアリー(実際は第4代カリフ)が第1代カリフであるべきだった。歴史はまちがっていた。」とするのに対し、スンナ派はこの歴史的事実を認める。スンナ派は歴史的事実をすべて正しいとしているわけでなく、ムアウィーヤのアリーへの反抗、ヤジードを後継にしたこと、ウマイヤ朝が世襲制となったことは望ましいことでなかったという。 以上で分かったかな?スンナ派六正典とかシーア派四正書という話もあるが、専門的で僕にも分からないので省く。 さらに僕にはよく分からないこと:昔の合議制をよしとするのが、スンニなのに、現在スンニ派のサウジ王家、バーレン王家、ヨルダン王家が世襲制のこと。伝統主義のシーアが反体制的であること。 イスラム教は神のもとでは皆平等であるべきなのに、王政があり、貧富の差があること。 余談、主にバーレンに関して:
以上
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