From: Kokichi Honda
To: 北村 尚巳
Sent: Wednesday, February 23, 2011 5:39 PM
Subject: バーレン
添付: スンニとシーア.doc(39.7KB)

中近東報道で心配されているかもしないので、一報します。「スンニーとシーアの違いを説明してほしい」と高校の友人に言われて書いた文を参考までに添付します。
反政府側の3つの要求と政府の対応−2月23日午前現在 。

1)真珠広場からの軍隊撤収:即時実行済。
2)政治犯の釈放: 36人(?)中の25名釈放との方針だったが、2月22日夜、全員釈放になった。英国に逃げていて、今回バーレンに帰ってくると言っている反対派のリーダーの一人(帰国すれば逮捕と言われていた)も「釈放」に含まれている。
3)首相の退陣と国外退去:まだ同意していない。

昨日の3万人デモは平和裏に行われた。 上記2)のためか、今日のデモは中止との噂。
リビアと異なり、鎮静化の方向なるも、上記3)の解決は長引くかも。
従業員は午後4時に帰宅させてはいるが、仕事は正常に行っている。
と言うわけで、ご安心ください。

本多@バーレン



[添付ファイル]
スンニ(スンナ派の人)とシーア

バーレンでシーア住民の多い地域へいくと、黒旗を目にすることが多い。いうまでもなく弔旗である。あたかも昨日の死者を弔っているように見えるが誰を弔っているのか? 680年に(現在イラク国内の)ウマイヤ朝軍に破れてカルバラーで戦死したフサイン(ホサイン)である。

ご存知のようにイスラム教の始祖はモハメッド(ムハンマッド)である。
僕らの子供のころ日本の本には「マホメット」と書いてあった。大川周明が戦後に書いた名著「回教概論」でさえマホメットと書いてある。なおムスリムはモハメッドと呼ばないで「我々の預言者」とのみ呼ぶのが普通である。なお、預言者とは神託を預かって人に伝える者のことで、未来を予測して話す「予言者」ではない。

話がとんだが、シーアの起源に話をもどす。
モハマッドの死後、後を継いだのは舅(モハマッドの妻アイ―シャの父)アブー・バクル、次が舅(モハマッドの妻ハフサの父)ウマル、次が娘婿(娘ルカイヤとその妹ウンム・クルスームの夫)ウスマーン、4代目が娘婿(娘ファティーマの夫)アリーである。 この4人を「正統カリフ」という。Khalifah Rasul Allah神使(モハメッドのこと)の後継者(カリ−ファ)が語源。「正統」とは正当な手続きと共同体全体の承認を経てカリフになったという意味である。スンナ派は、正統カリフ時代を理想としている。

第3代カリフのウスマーン(ウマイヤ家の長老)は、ウマイヤ家のムアーウィアをシリア総督に任命した。ウマイヤ家は、メッカの名家であるが、モハメドがメッカを征服したときにやむなくイスラムに加わった家柄である。ちなみにモハメッドの家はハシーム家で、その子孫は現在のヨルダンの王家。

第4代カリフにアリー(イスラム理想主義)が決まる際、ムアーウィア(現実政治家)は支持の態度を保留した。アリーとムアーウィアは正統カリフをめぐる紛争で調停をすることになった。アリーを妥協者と非難視し、アリー派から袂を分かったハリージ(立ち去るハラジャが語源)派(または複数でハワーリィジュ派)はアリーを暗殺。ムアーウィアの暗殺も謀るも失敗。ムアーウィアはウマイヤ朝をダマスカスに開き、ウマイヤ朝初代カリフとなった。
ハワリージュ派は現在では少なく、その穏健な後継というべきイバード派がオマーン で1960年まで選挙によるイマーム制が続いた。今はスルタン製である。
「シーア」は党派を意味し、「アリーの党派」「ムアーウィアの党派」と呼ばれたがアリーの死後はシーアといえば、アリー派を指すようになった。

アリーとファティーマには長男ハサン(佳人の意)とフサイン(小さな佳人の意)がいた。アリーが遷都したクーファにムアウィーヤの大軍がおしよせたとき、ハサンはカリフの権利をムアウィーヤに売ってしまった。ハサンは670年に毒殺される。 ムアウィーヤの生きている間、フサインも宥和的平和路線をとっていたが、ムアウィーヤの息子ヤジード(悪徳者といわれる)の代に、これをうつべく、しかも敗戦覚悟で戦ったのがカルバラーの戦いである。このときクーファの住民はフサインを見殺しにした。

1月10日は「アシューラ(10)の日」いい、シーア派の多い、バーレン、イラン、イラクでは「フサインを見殺しにした」という慙愧の念を表すために、鎖で自分の体を打って行進する行事が今でもある。バーレンではこの日は祭日である。

シーア派にはイスマイール派(パキスタンの一部、インドの一部)、ザイド派(イエメン)もあるが多数は十二イマーム派。イマームとは「(信徒の)指導者」の意味で、アリーを初代とし、891年に突如姿を隠した第十二代までのイマームの言行を重視する。なおイマームが普通名詞の場合は「礼拝の導師」という意味で誰でもかまわないから、ややこしい。

十二イマーム派がシーア派の多数をしめるようになったのは、16世紀以降。
イランはシーアが大多数だが、上述のフサインの死後、すぐにそうなったのではない。1501年にイラン人国家を興したサファービー朝が十二イマーム派の信仰を国教としたことによる。

スンナ派(スンニーとはスンナ派の人)は、その起源がシーアほど明確でない。
「正統派」といわれることもあるが、なぜ正統なのか? 「預言者慣行(スンナ)を重視するから」らしいが僕にはよく分からない。世界での「多数派」ということは正しい。 ウマイヤ朝を支持した派をスンナ派とする書もあるが正しくない。当時はスンナ派という言葉も意識も存在しなかった。 ウマイヤ朝を倒したアッバース朝(首都バグダッド)はスンナ派とされるが、王朝成立時にスンナ派の信条・教義体系はなかった。

シーアはモハメッドの血統を重視するから、「血統派」「伝統派」といえるように僕には思える。ある説では、初期シーア派には「シバの女王」の伝統をもつイエーメン人が「高貴な血統による統治」を重んじたとか、第3代イマームがササン朝ペルシャの最後の王の娘と結婚してペルシャ王朝の伝統を継承した、ともいう。

シーア派は、「アブー・バクルでなくアリー(実際は第4代カリフ)が第1代カリフであるべきだった。歴史はまちがっていた。」とするのに対し、スンナ派はこの歴史的事実を認める。スンナ派は歴史的事実をすべて正しいとしているわけでなく、ムアウィーヤのアリーへの反抗、ヤジードを後継にしたこと、ウマイヤ朝が世襲制となったことは望ましいことでなかったという。

以上で分かったかな?スンナ派六正典とかシーア派四正書という話もあるが、専門的で僕にも分からないので省く。

さらに僕にはよく分からないこと:昔の合議制をよしとするのが、スンニなのに、現在スンニ派のサウジ王家、バーレン王家、ヨルダン王家が世襲制のこと。伝統主義のシーアが反体制的であること。 イスラム教は神のもとでは皆平等であるべきなのに、王政があり、貧富の差があること。

余談、主にバーレンに関して:

1)スンニの人とシーアの人の結婚例は身辺でも少なからずきく。
2)バーレンにきたばかりは「白い民族衣装の男性はスンニ、普通の服を着たのがシーア」と誤解したが、逆の場合も多く一言では言えない。
3)シーアの従業員から聞いた話。サウジでスンニのモスクへ入ろうとしたら、「お前はシーアだから」と追い返されそうになった。彼は「ここは神のものだ。お前のものではない。」と反論して、そこでお祈りをしてきた。
4)バーレンは軍人・兵隊に多数派であるスンニーはなれない。イエーメン、シリアからのスンニの傭兵が多い。クーデタを恐れているのだろう。
5)警官の多くはスンニのパキスタン人。
6)男女参政権による総選挙があるのに、少数派スンニの王家が実験を握れる訳:総選挙は下院だけ。上院議員と閣僚の任命権は王にある。閣僚中のシーア派2名のみ。閣僚には王家関係者が異常に多い。バーレンは金持ちでなく王族扶養費が潤沢でないため、閣僚ポストは就職先の意味をもつ。
以上