はじめに

 僕が欧州駐在員に決まったのが1976年の6月頃。9月にドイツはケルンでのフォトキナという見本市に出品・アテンドをしながら11月上旬までデュッセルドルフで前任者からの引き継ぎをした。その後、欧州駐在員事務所をロンドンのそれと統合してロンドンに置くことになり、12月上旬に設定を終え、1977年1月に赴任。今では欧州各国に現地会社を持っているが、当時はこの程度で、それだけに自主判断で行動できる「よき時代」でもあった。

 大宅壮一ノンフィクション賞を、1976年に深田祐介「新西洋事情」、1977年は木村治美「黄昏のロンドンから」が受賞している。特に前者は当時日本企業の海外担当者の間で話題となったが、僕は「これくらいの本は書けそうだ」と思った。後者はロンドン赴任後に読んだが、誤記の多い本で「これよりましな本は書けそうだ」との感想。

 でも結局、本になるようなものは書かなかった。ロンドン滞在中に家内の友人が遊びに来て、伊丹一三「ヨーロッパ退屈日記」(文春文庫)と金子光晴の「ねむれ巴里」(中公文庫)を置いて行ってくれた。前者は1965年初版(だから十三になる前)、後者は戦前のことを書いているので、ともに「古い」はずだが、実に面白かった。特に金子光晴のものは「とてもこれほどの本は自分には書けない」と思わせた。

 静岡高校同期の川面君に背中を押されて、「おだっくい」の僕がこれから書こうとするのは、話題的には「新西洋事情」「ヨーロッパ退屈日記」に近く、品質的にはそれらに及ばないものとなるだろうことは言うまでもない。欧州駐在、中近東駐在のときの経験のみならず、その前後のことにも触れる。年代記ではなく、話題ごとにまとめて、時代は前後錯綜するはずだ。

この雑記帳の題名はまだ思いつかない。

1.空港と飛行機:

この話題が一番多くなりそうだ。読者も椿事と思ってくれそうなものと、「そんなこと日常茶飯事」と思われそうなものが混在するだろう。

1-1.予防接種
1970年前半には、お客様を羽田空港までお見送りすることは稀ではなかった。また予防接種証明書の持参が要求されることもあった。台湾の石油会社の方が、予防接種証明書を「預けてしまった荷物」に入れてしまったことに気付いた。空港に検疫所があり、そこへ一緒に走って行って証明書を発行してもらい、時間ぎりぎりで出国手続きに間に合った。後年他社に移ったこの方には、2008年頃、偶然仕事で台湾で再会した。
1-2.人間通関業者
予防注射を沢山打って日本からナイジェリアに出張した。1990年の冬だったかな。輸入貨物の通関業者はどこにもいるが、ラゴス空港には人間通関業者がおり、入国審査、通関をスムーズに通れるように付き添ってくれる。「はい、ここでこのofficerにいくら払って」と指示するのである。
これは正規の費用ではなく習慣的な裏金である。出国の時も同様。
このような業者を手配するのは日本の商社に依頼する。
1-3.税関 (其の一)
インドネシアでは入国時の通関で、ものを取られるので予備を持って行った方がよいと言われていた。僕がジャカルタに初めて(そして最後)観光ビザで出張したときは、この災難には合わなかった。でも出国の時に「観光のはずがない。ビジネスだろう」といじめられたが、贈り物の持参はしていなかったから「観光」の一点張りで通過。
1-4.税関(其の二)
僕の先々代欧州駐在員の経験談。当時ルーマニアの仕事が多く、お世話になる日本の各商社の駐在員に日本的なお土産を持参するのが常だった。
世界一の薄さと強度をもつ日本製男性用ゴム製品もその中の一つ。一般的に仕事に忠実なのは女性通関員で開けさせられることが多いが、ブカレスト空港税関で荷物を開けさせられた。このお土産はこの時、特に大量だった。女性税関員が叫んだ。「Oh, you are a superman!!
1-5.税関(其の三)
会社の三年後輩の経験談。1980年、僕の英国駐在中に初めての海外出張で来英。英国のポルノ雑誌を持って帰ったが成田の税関で没収。たった一冊で英国のものはドイツのものよりソフトなためか、幸い会社に報告されることはなかった。

後年、すでに海外出張も沢山こなし、東南アジアから帰った彼が成田税関でまたつかまった。今度は持ち込めない果物。「ここで食べていいですか?」と質問すると「この線の向こうでならよいですよ。」との答え。そこでガブついて食べた。

さらに後年、ポルノ雑誌を持ち帰り、税関でつかまって、「ここで利用していいですか?」と質問したかどうかは定かでない。

1-6.税関(其の四)
英国駐在中の話。まだパソコンでPresentationができる時代ではなかった。日本製の携帯slide projector(裏から投射してTVのように見せる)を持参して、ロンドンから欧州各国に出張していた。ある時、ヒースロー空港へ帰ってきたところでつかまった。「これはロンドン事務所の常備品だ」と言って税関員と喧嘩をした。 彼は「今回は許す。今後出国時にそのつど申告するように」告げられた。その後はこの手続きを守ったが、出国通関時に長い行列のあとにつながる不運にみまわれたことがある。
実は前日、日本からの出張者二名と「明日飛行機の中で会い、一緒にルーマニアに出張しよう」と約束してあったのだ。Gateまで必死で走った。目の前でBritish Airwayの直行便のドアが閉まった。ドアをたたいたが開けてくれない。結局数時間後にチューリッヒ乗り換えで追いかけブカレストのホテルで落ちあうことができた。
1-7.乗り遅れ、オーバーブッキング (其の一)
出張時、ロンドンの自宅からヒースローへはタクシーを使うこともあり、自分で運転して長期カーパークを利用することもあった。
ある時、タクシーがスピード違反で捕まってしまった。チェックインがぎりぎりで、「荷物を預けるには遅すぎるので、自分でGateまで持っていくように」とチェックイン・カウンタで言われた。年末で次の年のカレンダーをギフトとして、また新たにできた分厚い総合カタログも持っていたからつらかった。走ってゲートに着き、ほっとして重い荷物を床におろしたとたん、ぎっくり腰だ。ブカレストでは客先まわりを徒歩でするのを常としていたが、このときばかりはタクシーを使った。あるお客様の受付のおばさんが親切で、薬を下さった。これと、ホテルのサウナに毎晩いくことにより、ロンドンに戻る頃には腰が治った。
1-8.乗り遅れ、オーバーブッキング (其の二)
ロンドン駐在時、日本から出張の上司とオランダはハーグのホテルで待ち合わせ、一緒に夕食をとる予定。British Airwayが七名のoverbookingをして、ヒースローの別のターミナルの「次に出るもっと大きな飛行機」(BA談)に乗らざるをえない。確かに「もっと大きな飛行機」で、すいていたがナイジェリア航空のロンドン経由アムステルダム行きで清掃が全くなされておらず。その汚さには閉口した。遅れたが上司は夕食をとらずに待っていてくれた。
1-9.乗り遅れ、オーバーブッキング (其の三)
会社の仕事ではなく、1972年の個人旅行の話。当時会社の国際部(のちに海外営業部)で欧州へ出張したことのないのは僕だけだったので、次長がこの個人欧州旅行のための長期休暇を認めてくれたのだ。静岡で酒店経営の長兄、清水の酒造会社に勤める次兄との3人の旅行。銀行員の三兄は参加せず。フランスではキリンビールが提携していたシーグラム(カナダ)系のフランスの会社のフランス人、英国ではサントリーの日本人駐在員(後にサントリーホールの責任者となられたと聞いた)、シーグラム系のスコットランドのウィスキーの会社などにお世話になった。
ボルドー近郊のワイナリ(シャトー)を見学の後、ボルドー空港に着いたがジュネーブ行きの飛行機がオーバーブッキング。アテンドして下さったフランス人が交渉したが駄目。他のフランス人はわめいて地団駄を踏んで、席を確保した。アテンドして下さったフランス人が紳士なので、まねして騒げない。ジュネーブで待っていてくださる近藤さん(静岡出身の柔道家)に電話をし、鈍行電車でジュネーブに向かった。初めは座ることもできず、社内の食事はあまりうまくないサンドウィッチ。パリからボルドーへの特急の食堂車でとった食事とはえらい違いだ。アテンドして下さったフランス人には後日、長兄とともに東京で会い、夕食に招いてお礼をした。
1-10.飛行機キャンセル、天候による変更(其の一)
1979年頃の話。東ドイツのライプチッヒ見本市を見学後、ロンドンへ帰るためのBritish Airwayの飛行機が雪のため来ない。散々またされてからベルリン行きの特別バスが用意された。東ベルリンで東ドイツのバスから西ベルリンのバスに乗り換え、西ベルリンへ入った。ここも雪が降っていた。BAの負担で、カイザーウィルヘルム教会の近くのホテルに泊まれた。朝、勝利の女神像の近くまで散歩し、ブランデンブルグ門を遠くに見てきた。この日はロンドンでオックスフォード・ケンブリッジのボート・レースを見に行く予定だったが、帰英が一日遅れて不可能となった。
1-11. 飛行機キャンセル、天候による変更(其の二)
1980年だったと思う。デュヅッセルドルフでの金属工業見本市からロンドンへの帰り、BAよりルフトハンザの方がキャンセルのリスクは少ないと判断したのだが、これが裏目に出た。LHがキャンセル。BAは満席。 ブラッセル経由、アムステルダム経由、バーミンガム経由をトライするも駄目。ようやくマンチェスター行きを確保できた。空港で4〜5時間待たされたが、そばに同じ状況の英国人がいた。「実にエクサイティングじゃないか」と言っている。えらいと思った。僕などそのような表現をする余裕はなく、「テリブル」と言いそうになったのに。話をしているうちに僕のロンドンの家から遠くないところの住人で、子供の時チェコから家族と亡命してきたユダヤ系英国人と分かった。「原爆が落とされ、日本が降伏したとき。ざまあみろと思ったが。今はそう思った自分がはずかしい。」と言っていた。時間があるから話があちこちに飛ぶ。「北アイルランド問題をどう思う?」と聞かれる。「英国人と政治的な話はしたくない。」と逃げようとしたが、しつこく聞いてくるので「イギリス軍は引き上げるべきと思う。」と答えると、「そうしたら大きな内戦になるよ。」と言った。

はマンチェスターの友人に「日本人の友達と夜遅く行くけど泊めてくれ。」と電話してくれた。ようやくマンチェスター行きのBAが飛び立つ。機内放送だ。「マンチェスター行のはずでしたが、リバプールへ行き先を変更します。」こんなことは初めてだ。二人でリバプールのホテルにとまり、翌朝列車でロンドン北西のワットフォドで降り、この英国人の奥さんが迎えにきてくれた自動車でまず彼の家へ、次に彼の運転で自宅まで送ってもらった。

1-12.飛行機キャンセル、天候による変更(其の三)
日本から米国へ出張した帰り。アトランタだったかヒューストンからか、ロスアンジェルス(ここで乗り換え日本へ)の飛行機がキャンセル。シカゴ経由で行くことにした。ところがシカゴからロスへの飛行機が雪でキャンセル。シカゴで航空会社(デルタだったか)負担による一泊となった。タクシー・バウチャとホテル・バウチャを渡された。ホテルは「なんとかヒルトン」とある。タクシーの運転手(インド人)に「このタクシー・バウチャーは使えるか」と聞くと「使える」と。ところがホテルに到着するや豹変。「使えない」と言う。ホテルに助けを求めたが「だまされた貴方が悪い。」と。仕方なく金を払った。さてヒルトンと言えば一流と思いきや、米国では同じ系列でもピンキリで、安いビジネスホテルだった。
1-13.飛行機キャンセル、天候による変更(其の四)
ミュンヘンからブカレストの上空まできたLH機が霧で降りられず、ミュンヘンまで引き返した。スチュアーデスに「あの方は何が起こっているのかまったく理解できないようなので説明してあげて下さい。」と頼まれた。日本のメーカーのたたき上げ職人といった風情の人だ。LH負担のミュンヘンのホテルへのチェックイン、夕食などお世話させて頂いた。
1-14.飛行機キャンセル、天候による変更(其の五)
ミラノは盆地で冬は霧で飛行機の発着が不確実と言われる。そのミラノを無事飛び立った飛行機がデュセルドルフに霧でおりられず、フランクフルトに引き返し、フランクフルトで特別に仕立てられたバスでデュセルドルフへ。ホテル・チェックインは朝二時。
1-15.飛行機キャンセル、天候による変更(其の六)
やはりミラノから。今度は雪でフランクフルトに降りられず。シュトットガルトに降りて、そこからフランクフルト行きの特別バス。一台目にのれず。バスでは隣が日本のローソク屋さん。ローソクを使ったイヴェントの考案もしており、そのお話しをうかがって退屈しなかった。フランクフルトからは日本へ帰ることになっていたが、航空会社用意のシェラトン空港ホテルに一泊。夕食のバウチャーを持ってレストランへ行ったが「遅すぎます」と。一台目のバスの連中は間に合ったらしい。残念。
1-16.飛行機キャンセル、天候による変更(其の七)
1988年頃。日本からインドのカルカッタへの会社の13年後輩の技術屋との二人旅。JALでバンコクへ、そこでAir Indiaに乗り換える予定。乗るべきAir India便が来るのが案の定、遅れる。バンコク空港で足止め。ところが突如、Air Indiaがホテルを用意すると言う。驚き!バスで着いたところは、高層ビルでなく、バンガロー風。車庫が各部屋の横にあって幕がはってある。「何だ、こりゃ?」二人一部屋で割り当てられた部屋は……丸い回転ベッドで天井に鏡。「男二人で寝られるか。都心へ遅い夕食をとりにいこう」ということになり、タクシーで往復。ホテルにもどり、しばらくすると「飛行機が来たので空港へもどります」と。朝3時にバンコク空港着。
1-17.飛行機キャンセル、天候による変更(其の八)
正確にはこのカテゴリーには入らないが、失敗談。日本からバーレンへ香港・アブダビ経由で出張(赴任よりずっと前の話)。バーレンの秘書に アブダビでの市内ホテルを予約してもらった。香港のトランジットでGulf Airが「無料でアブダビの市内ホテルを用意するから、予約済みのはキャンセルしなさい」と。秘書に電話してキャンセル。ところがアブダビ空港で「ホテルが準備できるまでこの部屋で待て」と一室に長時間閉じ込められた。朝2時になってようやく車で市内のホテルへ出発。ホテルに到着したら部屋がない。別のホテルに回され4時にベッドに入る。5時に起きて再び空港へ。あああ、最初に予約したホテルにしておけばよかった。
1-18. 椿事続出の旅(トルコ->バーレン->イラク)
1989年.25歳下の後輩K君とまずはトルコ出張。イズミールのホテルから外出するたびに靴磨きに付きまとわられた以外、大した問題はなし。靴磨きに「明日、明日」と適当にあしらうと、「今日頼む。明日は自分が死んでいるかもしれないから」と答えるので大笑いしてしまった。

さてイスタンブール空港。Gulf AirのLand Staff(30歳前後)が「お局さん」みたいな女性。「バーレンのビザがないから搭乗券を出せない」と。
「日本人はバーレン空港で取得できるのだ」といくら説明してもきかない。「すでにバーレン入りしている仲間から問題なしとのtelexをGulf Air イスタンブ−ル空港オフィスにいれさせろ。」と。仕方がないのでバーレンに電話で依頼するも、telexは届かず。出発時間は刻々と迫る。とうとう「マネージャーを出せ」と当方からも迫る。マネージャーは「今回限り」と言って搭乗券を発行。出発Gateまで必死に走る。

バーレンでの5日間の仕事は問題なく進む。ところがこの間に東京の他の部から突然の依頼。我々の知らないプロポーザルを送ってきて「イラクへ出張して説明とpresentationをしてくれ」というもの。当時、イラン―イラク戦争の後、湾岸戦争の前で、日本企業が少なからずビジネス再開をはかっていた頃である。

バーレンのイラク領事館へビザをもらいに行った。道路に面したパチンコ景品を金にかえる窓口のようなところでしか話ができない。机もないから外で強風の中、自動車のボンネットを机替わりにして書類を書く。東京に依頼したイラク客先からの招請telexが届かない。自社の東京からのtelexでいいことにしてくれと再三ネゴしてやっとビザをもらった。K君、17歳若い後輩のY君、僕の3人。

バーレン空港で、チェックインをすませgateで向かう途中でK君がつかまった。
係「手荷物は一つだよ。二つもっているじゃないか。」
K「もうチェックインもパスポート・コントロルも済んでいる。」
係「チェックイン・カウンターにもどってやり直せ・」
僕 「そんなこと今さらできるか。よし一つならいいんだな。K君、そのガーメント・バッグでもう一つの荷物を海苔巻きのようにくるめ。(係に対して)ほら一つになったからいいでしょう。」
係「しょうがないな。今回限りだよ。」

バグダッド空港に夕方着く。ホテルへの道筋はサダム・フセインのバカでかい写真がいくつも立っている。
ホテル・チェックイン。
受付「予約されていません。」
僕「我々は省から招請されているVIPだ。その省が予約しているのに我々を泊めないと処罰されるよ。」
受付「あ、ありました。」

Credit Cardを持っているのは僕一人。当時はまだTravelers checkというのが広く使われていた。Y君、K君は毎日、翌日分をTravelers check を現金化(さいわいホテルでできた)して前払いさせられた。差し引いている金額があるので、「これは何だ。」ときくと「Taxだ。」というので驚いた。結局「為替手数料」という英語が分からないためTaxと言ったらしい。

部屋に入ろうとしたら、すでにベッドに腰掛け食事をしながらTVを観ているカップルがいる。「失礼。」と言ってドアを閉めようとすると、「No problem. No problem. Please come in」と言う。何だ、ホテル従業員じゃないか。

ホテルの食事は昼も夜も同じビュッフェで、昼は4,000円、夜は7,000円もする。お客様のところで「あのホテルの食事は高い」と言ったら、「いや、私たちも時々食べますが高くないですよ」との答え。イラク人向け価格は10分の1であることが分かった。ちなみにこのホテルには湾岸戦争ぼっ発時に日本人が集められることになった。

仕事は何とかこなしたが、3人とも精神的にまいっていた。週末に商社へ着任したばかりの日本人駐在員から「空中庭園を観にいきませんか。」と誘われたが、「疲れているので。」と辞退してしまい、ホテルでごろごろしていた。

バーレンへ戻る飛行機のことが気になる。イラク航空に電話した。話が通じない。国内線担当らしい。国際線担当に代わってもらったが話が通じない。「これは空港へ行って確認した方がいいよ。」と僕。3人一緒にタクシーで空港へ。Informationカウンターの女性に「航空会社のオフィスはどこか」たずねようとしたが英語が通じない。困った, どうしよう。クルー・メンバーが数人通りかかったので尋ねる。「航空会社オフィスはありませんよ。飛行機のチェックイン・カウンターで予約再確認するしかありません。」
3人でチェックイン・カウンターに進もうとすると「だめだめ。一人だけ。」
僕一人が入って、やれやれ再確認が済んだ。

バーレンへもどる当日のバグダッド空港。チェックイン・カウンターで空港税をとられる。僕は現地通貨をぎりぎりの金額でもっていたが、Y君、K君はもっていない。
Y&K「US$紙幣でいいにしてよ。」
カウンター「だめだめ。あそこに銀行があるから現地通貨に換えてきなさい。」
Y&K「銀行へ行ってきたけど閉まっていた。US$紙幣でいいにしてよ。」
カウンター「絶対駄目。」
僕「理不尽だな。よし、Y君,K君。US$紙幣を投げつけて, いちもくさんに走れ。搭乗券は手に入れているから大丈夫。僕も一緒に走る」
Y君、K君は僕の指示に従う。
追っかけられることなく搭乗Gateについた。
僕「よかったね」
Y&K「あ。しまった。」
僕「何か忘れ物をしたのか?」
Y&K「いや、投げつけたUS$が現地通貨換算で足りなかった。」

バーレン空港に着く。パスポート・コントロールは僕、Y, Kの順。
K君が捕まった。スタンプをおすスペ−スがパスポートにないから、入国できないという。K君真っ青。当時は日本出国時に小さな紙をホッチキスでとめていた。日本帰国時にはがしてもらうシステムだった。
Y君が、紙片をめくって「スぺ−スあるでしょう」
パスポート係「駄目」
僕は、紙片をとりはがし、「僕のパスポートに今押して頂いたスタンプは(指で測って)この大きさですね。今紙片をはがしたところは(指で測って)これだけのスぺースがありますね。押してください。」
パスポート係「今回限りだよ。」バン(スタンプの音)

[10頁になったから、今日はこれでやめとく。]


1-19. 飛行機が飛ばない(其の一)
British Airwayの欧州線。天候のためでなく他の空港のストライキのためだったと思うがヒスローの機内で長時間待った。機長の気転で、乗客にシャンペンが当たるくじ引きが行われた。「間を持たせる策としては、なかなか洒落ているな。」と感心した。
1-20. 飛行機が飛ばない(其の二)
南アフリカには何度か日本から出張した。 ロンドン経由という、とてつもなく長時間の旅もあったが、香港か、台北での乗り換えが多かった。日本へのヨハネスブルグからの帰路はモーリシャス島に一度降り機内で待つ。ある時、エンジントラブルで、モーリシャスで長時間待たされた。「取り替えるエンジンが到着するのを待っています」とのことで一夜を機内で明かした。「連絡したい人はTelexの原稿を書いて下さい。送りますから。」というので、東京の本社へ「自宅への連絡頼む」も含めて送ってもらうことにした。後日このTelexは届かなかったことが分かった。台北での乗り継ぎにも遅れたので、南ア航空負担で台北の空港ホテルに一泊。台湾のホテルに泊まるのは14年ぶり。美味しい中華風または台湾風の朝食を期待した。が西洋式朝食しかなくパンは日本の食パンみたいだった。(蛇足ながら「食パン」という言葉は「主食にするパン」からきているそうだ)
後日談がある。同じ目にあった後輩の場合は機内とじこめとはならず、航空会社負担で島内観光だったという。もう一つ悲しい話は、僕の旅の1カ月くらいあとだったか、同じルートの南ア航空機が海に墜落。多くの日本人漁船員(まぐろ船が南アにおいてある)が亡くなられた。
1-21. プロペラ機(其の一)
1985~6年頃。南アで大型注文を頂いた。一週間のハード・ネゴでお客様も当方も疲れた。お客様はねぎらいにプロペラ機をチャーターして南ア北東部のサファリ・パークに案内して下さり、大いに楽しませていただいたが、復路は強烈な雷雨。強風に飛行機が舞った。みんなお酒を飲んで怖さをまぎらわせた。
1-22. プロペラ機(其の二)
初めてプロペラ機に乗ったのは1968年、台湾の台北-花蓮間。新設紙パルププラントにかかわる仕事だった。花蓮は(中国系でない)先住民も多く、当時は静かな港町。大理石を産する山が屹立しており、その関係で強風が起こる。僕の乗ったプロペラ機が風に舞ったこともある。この時、自分は恐怖を感じなかったが、座席にしがみついている乗客も少なくなかった。僕が台湾担当をはずれてからかなり後に、台湾-花蓮間で中華航空機が墜落した。ジェット機だったかもしれない。
1-23. プロペラ機(其の三)
1976年2月初めて中近東(サウジ・バーレン・クウェイト)に出張した。バーレンは中近東拠点に適切かの調査。その時は実現しなかったが、1990年に実現することは予測できず、現在のように駐在することも予期できなかった。当時、サウジ-バーレン間は橋がなく、フェリーかプロペラ機。僕は6人乗りプロペラ機で海峡を渡った。
1-24. プロペラ機(其の四)
オーストリアのリンツからウィーンへは列車を使うのが常だったが、一度小型機(プロペラでなくジェットだったかも)で移動した。ウィーン上空で強風のため木の葉のように舞い、着陸は何度も試みた後に無事にできた。蛇足:リンツというとクラシック音楽好きは、ブルックナー縁の地として、あるいはモーツアルトの交響曲の名前として想起するだろう。僕のリンツ行きは数え切れないほどの回数だったが、むろん音楽のためではない。ここはヒトラーが力を入れた鉄鋼所の街でもある。韓国に納める焼結炉、転炉などに自動制御装置を採用して頂くためで、結果は受注したり失注したりだった。

2. 列車の旅
2-1. 列車の旅 (其の一)
1988~1989年インドのカルカッタおよびその近郊(といっても列車に何時間も乗る)の鉄鋼会社各社へどさまわりの売り込みに行った。カルカッタでは貧困の極致に出くわす。でも人々は「生きる」ために動いていることがよくわかる。日本の室町時代のダイナミックな絵巻物を思い出す。そうだ、鉄道の話だった。夜行に乗ったが、AC(Air Conditionerつき)ではない、コンパートメントの幅広い背もたれを座席の上にバタンと倒し、その上に横になれという。 背もたれの裏側が汚くて寝られない。「これはAC(Alternate Currecnt交流)でなくDC(Direct Current直流)だな-DCはDirty Conditionのことだけど」と僕。明け方に車内で朝食をとった。トーストと目玉焼きはまあこの程度だろうというもの。紅茶がやけに塩辛い。カルカッタの水が悪いから消毒したのだろうか?
帰路のカルカッタ駅構内。地方の豪族みたいな人が、乞食のような人に喜捨している現場を見た。乞食風の人の恐縮の仕方が尋常でない。気持ちのよい風景ではなかった。時代を何百年もさかのぼったみたいだった。
2-2. 列車の旅 (其の二)
前記の旅行では、カルカッタで遅い(2時ころ)昼飯をレストランで沢山食べた上に、「夜行に乗るから」と早めの夕食をホテルで取ったので、翌日の夕方に腹をこわした。僕はインドへ9回出張したが、食あたりは一度もしたことがなく、 腹痛は食べ過ぎによるこの一回だけ。意地汚さには自分ながら呆れる。2回目の鉄鋼所どさまわりのときはACの列車に乗れた。日本並みにシーツがきれいなので驚いた。この時は食べ過ぎないように気をつけていたので、腹をこわさない自信があった。列車の中に少年が売りに来たサモサを買おうとしたら、同行のインド人に「危ないから」と止められた。でも買って食べてしまった。大丈夫だった。もちろん、生水は絶対飲まないように注意した。
2-3. 列車の旅 (其の三)
1987〜8年頃 南アのダーバンに出張。その前に石油製油所の仕事を受注した余勢で別の製油所を攻略するためだ。まだアパルトヘイト時代だったが、ヨハネスブルグ北のサントンで泊まったホテルでは黒人も泊まれたので、少しずつ緩和の方向にはあった。でもある町では区分された公衆トイレもあった。
 ダーバンの海水浴場は白人、カラード(インド人など)、黒人に区切られていた。週末、一人で退屈なので列車で近くの村へ行くことにした。車両が区分されている。「日本人は名誉白人扱い」とは知っていたが、車掌に試しに、「僕はどの車両にのればいいのだい?」と聞いたら、「どれでも好きな車両に乗れ」との答え。
2-4. 列車の旅 (其の四)
1992年上海から南京へ列車の旅。自社の中国人二名(日本語ができる)と日本からの出張者二名のチームで技術交流会を客先で開くため。「技術交流会」は中国ビジネス特有の表現で、当方から一方的に情報を出すので「直流会だね」と苦笑したものだ。当時列車の切符の値段は、同じ車両でも中国人と外人との間で格差があった。確か紙幣も二種類あった。往路は正規料金で切符を買ったが、復路は中国人同僚が「四人とも中国人として切符を買うから乗るまで話さないで」と言う。「車内で日本語を話しているときに検札が来たらこまるな。」と思ったが幸い検札はなく車窓の風景を楽しんだ。沿線の農村は豊かな感じだった。
2-5. 列車の旅 (其の五)
1992~3年頃。洛陽の石油化学会社への技術交流に北京から列車の長旅。メンバーは日本からの出張者2名と日本人駐在員(中国語堪能)1名。朝出発で夜到着の予定が、乗るべき列車が豪雨で成都から戻ってこない。北京駅から、すでにチェックアウトしてしまったホテルにもどりロビーで昼近く待つ。再度北京駅へ行ったが、まだ列車は来ていない。またホテルへもどるのも面倒なので駅前で多くの中国人混じりしゃがんだり立ったりして待つ。夕方に駅の建物に入る。 我々の乗るべき列車番号が表示された待合室に入ろうとしたら、おばさん駅員に理由なしに断られた。その頃の駅員は役人風をふかせて威張っていた。
 ようやく乗れた。結局夜行だ。途中で駅弁を食べた。ご飯と豚肉を柔らかく煮込んだものだけを一つのプラスチックの弁当箱に入れた簡単なもの。空腹だったためか結構うまかった。洛陽のホテルは明るくて快適。すでに自社北京事務所から、お客様へ到着遅れの連絡はしてあったが電話で謝った。「技術交流会は明日にしましょう。今日はゆっくり休んで下さい。会社の自動車を差し向けるので龍門石窟や白馬寺の観光をどうぞ。」中国ではお客様に歓待されることが多かったが、これはその中でも最高のものだった。
2-6. 列車の旅 (其の六)
1976年、ケルン・フォトキナ展出展のときの話。日本から出張の先輩(ある部門の技術部長)曰く、「さすがドイツの列車はすごい。座席のまわりのねじの頭をみたが、ドライバーを入れるためのマイナスの切り込みが、すべて水平になっている。」本当かと思って自分で確かめたが、80%はそうだった。後年は60%くらいに下がったような気がする。
2-7. 列車の旅 (其の七)
1966年~73年の間、台湾を担当していた。大半の時期、自分は20代で元気いっぱい。客様の担当者は30代後半で日本語を話してくれ、親切にしていただいた。常に同業の中では市場占拠率1位を保っていたし愉快な時期であった。
その後台湾との接点がなく、突如 1997~1998にあるメガ・プロジェクトを追っかけて短期間、台湾に頻繁に出張した(この仕事は米国競合先の安値に敗れる。)が、その時は列車を利用していないので、ここに書くのは随分昔の台湾のこと。

(a) 特急には各車両に専属の小姐がアテンド。各座席に備えた大きなガラスのコップに、お茶の葉とお湯を入れて回る。この時、お茶の葉をコップに入れる中国式の飲み方を初めて知った。水面に浮いた葉をフーフー吹いて、向こう岸へ寄せて飲む。
(b) 台湾には日本語が残っていた。プラットフォームで「ベントー・ベントー」と駅弁を売っていた。
(c) 斜め後ろの席から日本語が聞こえる。同行の台湾人から「あれは日本人でなく高砂族(いまは高山族とよばれる)ですよ。」と教えられた。
(d) 1968年には、漁船用ジャイロコンパスを売るために水産会社や小型造船も回った。基隆は台北から近いから列車で日帰り。蘇墺も列車だが近くはないので一泊の予定。夕方になりホテルを探したが適当なのがない。ホテルは 上から順番に大飯店、飯店、旅社、旅荘とあるのだが、ここでは旅荘しかない。「我慢して泊まろうか」迷うも「台北へもどろう」と同行の先輩Kさんと同意。鈍行列車でもどり、朝チェックアウトしたホテルに再チェックイン。一部屋しかない。ダブル・ベッドの両端に分かれて寝た。
 余談だが、このホテルでは受付の女性から「Kさんを見習っていつもニコニコしなさい。あんたは苦虫を噛み潰した顔をしているよ。」と注意された。自分では気が付いていなかったのでハッとした。

2-8. 列車の旅 (其の八)
(a) イギリスの列車の中には向かいあった客先の間に、食堂車でもないのに大きな机がデーンと固定されているものがあった。北東部の客先を訪問し、ロンドンへ向かうときに、報告書をこの机の上で書いていたが、そのうちに吐き気をもよおしてきた。乗り物で仕事はしないほうがよい。
(b) イギリスの列車の乗降ドアは、僕の駐在時分、多くの場合、内側から開けけられず、ガラス窓を下し、手を外へ出して外側のノブをまわすことになっていた。
2-9. 列車の旅 (其の九)
ドイツの列車に乗る時、改札は駅員でも自動でもなく、切符を印刷機に自分で差しこんでガッチャンと日付を印刷させるのだ。これを忘れて乗れば不正乗車になる。慣れない外人には酷だ。忘れて社内検札で文句を言われたことはあるが、罰金は払わされなかった。
2-10. 列車の旅 (其の十)
欧州の列車にはコンパートメントが多いが、知らない他の乗客から果物やお菓子をすすめられることが多かった。
2-11. 列車の旅 (其の十一 )
欧州の「新幹線」すべてを試した訳ではないが、最も快適だったのは、マドリッドからコルドバ往きのもの。

3.電車・地下鉄
3-1. 電車・地下鉄(其の一)
ドイツのSバーン(路面電車)は 地下にもぐってU-バーン(地下鉄)と区別しにくいものがあるが、ここで話すのはデュッセルドルフのチンチン電車のこと。
自動販売機、キオスクで切符を買えるが、小さい駅で両方ともないところもある。その場合は運転手から買う。金を用意して運転手の後ろに立ったが、電車が動き出してしまった。運転を妨げたくないので、次の駅でとまったときに買おうと思い、そこに立ち続けた。そこへ男女一対の検札が来た。私服ですぐに分からないようにしており、身分証明書を見せて「検札」とどなるのだ。「不正乗車だ」として捕まってしまった。こちらから、事情をドイツ語で説明しかかったところで、そばに座っていた一人のおばあさんが「何も分からない外国人をいじめるな!!」と検札係をどなりつけた。いかん、何も分からない外国人らしく振舞おう。僕はドイツ語をしゃべらず、「アワワワ」と口ごもった。検札係は不承不承切符を売り、姿を消した。おばあさんが下車するときは、僕は「ご親切にありがとうございました。」とドイツ語でお礼を言った。
3-2. 電車・地下鉄(其の二)
はじめてアムステルダムを訪れた1972年、チンチン電車の外部最後尾(最先端にもあったかな?)にカゴがついており、郵便配達に利用していた。大都市にしては田舎的なやり方で微笑ましかったが、いつの間にか、このシステムは姿を消した。
3-3. 電車・地下鉄(其の三)
1970年代後半、ロンドンの地下鉄の駅の乗車券販売機は金額別に独立の販売機が立っていた。金属の箱で演壇くらいの大きさのもの。もちろん今はなく、最近ロンドンへ行ったらSuica相当のカードもあった。
3-4. 電車・地下鉄(其の四)
社会主義体制下のハンガリーはブダペストのチンチン電車は一回1円くらいで安かった。ここでは社会主義でなくなってからの地下鉄での経験を話そう。
ブダペストでは繁華街のあうペスト(ペシュトが現地の発音に近いが日本の表記慣習に従う)側に宿を取ることが多く地下鉄は利用しないが、この時はブダ側で、それもドナウ川に面した(ペストに至近)ホテルではないので、地下鉄でペスト側へ行き、地下鉄の他の路線に乗り換えるつもり。乗り換えるべき駅でこの切符が「通し」で使えるのか分からなかったので駅員に尋ねようと、乗り換える電車の脇をうろうろしていた。すると人相のよくない「あんちゃん」が体を摺り寄せてきた。街でみかける「チェンジ・マネー?」と同類と思い、避けたが、更に寄ってくる。「切符をみせろ」というので私服の車掌か駅員であることが分かった。「この切符で不正乗車しようとしたな」と言う。そのつもりはなかったし、乗り換えもしていないから何ら悪いことをしていない。乗り換えにチェックポイントがないのに、切符が他路線へ「通し」で使えないらしいことが、これで分かった。駅員室に連れて行かれた。不正をしていないのに理不尽だ。その部屋にいた駅員が奥の別室に全員入った瞬間、僕は飛び出し、地下鉄駅から地上へ出る階段をいちもくさんになって走り、逃げ切った。この時、僕は60歳前後だったと思うが、体を鍛えておいた効果が出た数少ない具体例。ハンガリーには何十回も出張。人々が親切でよい思い出が多いが、これが唯一の不愉快な経験。

4. 自動車の旅
英国・欧州大陸を家族で自動車旅行をした詳細を書くと長くなるので、仕事に関係した挿話をまずは披露する。
4-1.自動車の旅(其の一)
1986年頃、 インドのデリー空港で後輩のMa君、Mi君はホテルまでタクシーに乗った。ホテルで降車したとたんに、ドアの一つが車体からはずれた。運転手は「お前のせいだ。」とMa君に。普段温和なMa君もこれには頭にきて「ふざけるな、このやろう!」と運転手の胸ぐらをつかんだ。 Mi君がとめにはいって喧嘩はおさまった。
4-2.自動車の旅(其の二)
1989年頃、鉄鋼会社どさまわりの旅。インド人2名と日本から出張のT君と僕。
前日の客先訪問のあと、次の訪問先へいくため朝ホテルへタクシーを駅まで行くべく呼んだ。(ちなみにこのホテルのシャワーのタオルは洗ってあるのだが雑巾のように黒かった。キッチンを垣間見たが、汚さに驚いた。でもインド人の作る中華風やきそばはうまかった。)

タクシーには助手が乗っている。
「おいおい、俺たちは4人だよ。これじゃ乗れないじゃないか。」
「大丈夫!助手はボンネットにのせるから」
本当に駅までボンネットに乗り続け、滑る落ちることはなかった。助手席にインド人1名、後部座席は、右から僕、インド人、K君。右側のドア二つの窓をおろし、両方の窓枠をタオルで結んでいる。
僕「何だこれ?」
運転手「ドアがはずれるかもしれないから。」と運転手。僕は前述4-1の話を聞いていたから肝をつぶした。あいてる窓から外へ手を出し、右後ろのドアを抱えるようにして必死に押さえ続けた。
僕「K君、きみは左へ座って幸運だったね」
K君「うわ!!」
走行中なのに、突如左後ろのドアが完全に開いた。

4-3.自動車の旅(其の三)
上記と同じ旅。場所は異なり、移動のため農村地帯を抜けるときだった。 馬が我々のタクシーに伴走しだした。実に楽しそうで笑いかけてくるような表情だ。思わず微笑んでしまう。馬があきたのか、伴走をやめる。今度は右から黒豚が道路を横断する、そのあとを犬が追う。タクシーは道路の真ん中で待たざるを得ない。走りだそうとしたら、今度はやはり右からアヒルの親子の一団。
4-4. 自動車の旅(其の四)
インドの本社をバンガロールルにおいてある。その日は南部近郊の英国製造水力発電所へ社員日帰り旅行。僕は時間の関係で別の自動車で後から皆を追った。その時の光景。自動車が通る寸前に農家の女性が穀物を道路に置く。通過する自動車を脱穀機として利用しているわけ。
4-5. 自動車の旅(其の五)
自社デリー事務所のインド人が週末、タージマハルにタクシーで案内してくれた。帰路、貧しい農村のど真ん中でエンコ。どうしても直らない。タクシーをのり捨て、バスをヒッチ。そのバスはマトラ止まり。マトラからデリーへは別のバスに乗り換え。バス停は有名なヒンヅー教寺院の前にある。乗り換えの合間に見学した。日本の仏教のお寺に似ていた。
4-6. 自動車の旅(其の六)
1992~5年.中国の茂名へは 2回出張した。上海から湛江まで飛行機、湛江から茂名へはタクシーの長旅。茂名に近づくと、直径が広く高さの低い円筒状の竹かごを沢山積んだ家がめにつく。食用の鶏をまとめて運ぶためのものだ。
4-7. 自動車の旅(其の七)
1993~4年頃。北京からハルビンへ飛行機。ハルビン空港からタクシーで大慶油田までの長旅。空港のタクシーはガタピシ。ヘッドライトのあるべきところに木の板が貼ってある。後ろのトランクに荷物を入れていたら、ふたが僕の頭を直撃。同行のN君が支えていた手を離したからだ。ふたを開いた状態に維持するばねなどないのだ。其の晩、招待処(客先付属のホテル)で真夜中に頭と腹が強烈に痛かった。帰国後、脳を診てもらったが何ともなかった。トランクのふたによる一撃と無関係に、ふだん低い血圧が急激に上がったためかもしれないが、原因不明。
4-8. 自動車の旅(其の八)
1998年ころ?上海から地方都市へ飛行機、そこからタクシーで九江の肥料工場へ。帰りはお客様が公安(警察)の副業の自動車を手配してくださった。公安のマークをつけているので「そこのけそこのけ」で速く帰ることができた。
4-9. 自動車の旅(其の九)
1998年ころ。新疆のコルラへ北京から軍の副業の旅客機で。スチュアーデスは中国民航より明るく親切だった。同業各社が見積もり説明に呼ばれたはずだったが、そのような会合は一度もなく。観光に連れ出された。後で分かったことだが、失注が決まった会社だけが招待され、受注した会社は来ていなかったのだ。北京への帰路は直行便がないのでウルムチからの北京行きに。ウルムチまでは夜9時にでて朝7時にウルムチ着で、タクシーで天山の山越えをしたわけだ。道路わきではハミグア(ハミは地名。グアは瓜)と葡萄を売っていた。同行の自社の中国人はお土産に買って帰った。山路には月が照り、ウイグル語の看板がある土地柄から漢詩を思いだす。

葡萄の美酒、夜光の杯
飲んと欲すれば、琵琶馬上にうながす
酔うて沙上に臥す、君、笑うことなかれ
古来、征戦幾人かかえる

夜光の杯は敦煌のお土産らしいが、僕は蘭州のお客様からお土産に頂いた。

4-10. 自動車の旅(其の十)
2004年8月。シリアのダマスカスで技術説明会。翌日北東はユーフラテス川の近くの工場(英蘭系会社とシリアの合弁)現場へ自動車で。途中に名所旧跡のパルミラがある。ローマ時代の隊商都市。しかし、お客様の自動車のあとをついて行くので、途中でとまれない。帰路は単独なので、40分途中でおりて観光した。
4-11. 自動車の旅(其の十一)
2005年。カイロ空港で代理店の若者が「新しいターミナル」に迎えに来てくれるはずなのにいない。僕は「新しくできた国際線ターミナル」に着いたのに、彼は「新装なった国内線ターミナル」にいたのだった。予定より遅れて代理店の自動車でアレキサンドリアへ。途中の農村の庭先に白壁の塔がある、ところどころに穴があいている。ハト小屋だ。エジプトではハトを食べる。アレキサンドリアのハト専門レストランでいろいろに料理されたハトを食べた。
4-12. 自動車の旅(其の十二)
1980年代後半。ブダペストのホテルで日本人3名が、自社オーストリア会社社長Hさん(僕より7歳年上) がウィ―ンから朝到着するのを待っていた。彼の自動車で北方のティシャにある石油化学工場を訪問するため。僕だけがそこには1981年以来面識があった。約束の7時をすぎ8時になっても現れない。奥さんに電話したら「朝4時に出たから、まだ到着しないのはおかしい。」と。9時近くになってようやく到着。「オーストリア・ハンガリー国境でエンコ。ヒッチハイクしてたどりついた。」あわててレンタカーを手配。僕は彼のためにホテルレストランからパンとリンゴをポケットに入れて持ち出して与え、「僕たちが運転するから車内でこれを食べたら寝ているように」と伝えた。「すまない。帰路は自分が運転する。」ブダペストを出るまで先輩のOさんが運転。高速道路とそれに続く狭い産業道路は僕が運転。1981~2年にレンタカーで同じ道を運転した経験があったから。お客様には大歓迎され来客用食堂で昼食に招かれた。当然パリンカ(果物の蒸留酒)とトカイワインが出る。
僕「E(Hさんのfirst name), あまり飲むなよ。帰りは運転なんだから。」
H「大丈夫。酒にはつよいから。」結局へべれけで運転できず、またもや僕が運転してブダペストへ帰ることに。彼は車内でぐーぐーと鼾。
4-13. 自動車の旅(其の十三)
やはり1980年代後半のハンガリー。すでに何度か注文頂いているブダペスト郊外ドナウ川近くの製油所の仕事で、この客先の仕事としてはこれまでで大きく4億円ほど。ネゴの合間に週末が入った。僕と日本人後輩2名だったが、「文化体験」のため、彼らをウィーンに連れて行くことにした。列車で国境を超える。ウイーンでは日本商社のブダペスト駐在員から「このホテルに泊まりなさい。ブダぺストへ帰る運転手つき自動車を手配してくれるから」という中級ホテルに泊まった。ところが帰る段になってホテルに話すと「そんなアレンジはしませんよ。」これは参った。Hさんに助けをもとめる。部下に運転を命じて送らせてくれた。沿道には、ハンガリー経由で西独にはいろうとする東独の自動車が多かった。社会主義体制崩壊のまえぶれである。なお仕事は米国競合会社に4百万円の差をつけて受注。Hさんは「おめでとう」とブダペストに現れた。
4-14. 自動車の旅(其の十四)
南アフリカの製油所の追加注文を決めたとき、客先の招待所でお昼にシャンペンの祝杯をお客様とともにあげた。ここへは宿泊地のサントンからヨハネスブルグへ南下し、市内には入らず東へ曲がっていくのだが、毎日レンタカーを交代で運転した。僕は英国の免許証をもっていたから国際免許証を持参しなかった。後日「南アでは英国免許は通用しない」ことを知った。 さてこの日、僕はシャンペングラスに口をあてた程度で飲まなかった。同行の若い後輩は「大丈夫です」と言って沢山ではないが飲んでいた。帰路、高速道路で彼が運転しながら眠っているではないか。すぐに止めさせて、僕が運転してホテルへ帰った。

[第1回は10頁。今回は10頁を超えたので、読者諸兄もお疲れでしょう。
ここで頭を休めて下さい。

日本の蒲団屋さんが、初めて訪米しました。パスポート・コントロールで質問されたが、ちんぷんかんぷん。しかたなく
「斎藤寝具店です。」
「Ah! Sightseeing ten days? Okay」]