「貨幣博物館を訪ねる」

2011年5月26日(木) 日銀の貨幣博物館を初めて訪れた。この日、昼から学生時代の体育会ボート部同期による、2ヶ月に一度の集まりがあった。終了時の午後2時頃、U君とF君が行くというので、「僕も連れて行ってくれ」と頼んだ。

神田一橋から、日本橋まで歩く。U君は「江戸学博士」のように博学である。一橋では徳川慶喜を出した一橋家の屋敷跡との説明版を読む。皇居(江戸城)の城を右に見る。「僕は中学時代、駿府城の石垣に刻んだ家紋で寄進大名を調べつくした。」 と僕が言うと、「このすぐ先に『江戸城の石垣についてのミニ博物館』みたいのがある。」とU君。左に折れ、皇居を背にして日本橋を目指す。

高層ビルの谷間に平将門首塚というのが左手にあった。U君によれば、「捕らえられた将門が京都で斬首されたとき、首がここまで飛んできた。」という。 戦後進駐軍がここで工事をしたときと、後に三井がビル工事をはじめたとき、不吉なことが起きたそうだ。首塚の石碑は何代目かの新しい石だが、初代は1305年建立とのこと。また、ここは初代(?)神田明神のあったところで、後に現在のところに引っ越したという。「神田明神は平将門を祀っているのか?」と僕。「いや今の神田明神に祀られているのは4人。将門はその中の一人。」とF君。

更に進むと、渋沢栄一の像がある。如水会館にある胸像に似ているが、これは全身像。朝倉文夫の作だ。近くに常盤橋がある。説明文によると、隅田川に両国橋が掛けられる前は江戸一番の大橋だったというが、川というより運河に掛けられた常盤橋は、それほど大きいとは感じられない。

僕「向島から浜離宮まで艇を漕いで、この辺を通ったよな。」
U君「あれはもう少し先の三原橋近辺。」
僕「証券会社があった。」
U君「そう、兜町を上に見て漕いで行ったんだ。」
F君「あの頃は、橋の上から手を振ってくれる人、とくに若い女の子が多くて、いい時代だった。」
当時は、NHKが対校戦をTV実況し、朝日新聞も前日に勝負の予測を載せるなど、ボートに対する世間の認知は今より高かった。いまでもBBCは毎年Oxford, Cambridge対校戦のTV実況をしているのになあ。

いよいよ貨幣博物館に着く。入場無料。写真撮影は禁止。受付はガードマンの制服を着ているが応対は丁寧だ。U君、F君の狙いは、常設展示物ではなく、特別企画展「貨幣・天下統一 -家康がつくったお金のしくみ-」である。

僕が同行を頼み込んだのには、少々わけがある。小学校高学年から中学生の頃にかけて、古銭に興味があり、家にあった古銭(空襲で焼け残った金庫に残っていた)に、自分の小遣いで骨とう品店で買求めたものを追加していったのである。当然、参考書を古本屋で求めて「研究」もした。 この辺の事情を、歩きながらU君、F君に話しながら、「駿府には金座、銀座、銭座があり。銀座は江戸に引っ越して、駿府での地名は両替町に変わった。」などと吹聴してきた。

常設展はL字状で、一辺が古代・中世・近世、一辺が近現代。企画展はL字に囲まれた一角にある。企画展から見る。年表には、前述の駿府と江戸の関係も書かれている。静岡高校出身の僕は得意げに「どうだ、書いてあるだろう。」と言うが、F君・U君ともに東京の高校出身で、お国自慢には興味はなさそう。
(注:東京とその近辺では田舎者のことを田舎ッペーと呼ぶ。静岡では田舎ッサーと呼ぶ。静岡では田舎者への尊敬度が高いのだろう。サーは「さん」に近いし、英語でも男性に対する丁寧な話し方にはサー(sir)を入れる。むろん、僕がF・U両君から田舎ッペーといわれたことはない。)

来る道筋、U君と僕は「日本で始めての貨幣」論争をしていた。僕が、「長い間、和銅開珎が最初と言われていたが、10年くらい前にそれより古いもの が発見された。(注:名前を忘れていたが、あとで富本銭[フホンセン]と分かった。)というと、「いや寛永通寶だよ。」とU君。どうもU君は「近代的貨幣制度としての」という定義で語っているのであり、僕の定義と異なっていたようである。

富本銭も江戸末期の天保銭も鋳型からとる枝銭という形式は同じ。
但し、F君指摘のように技術進歩により幹が細くなってきた。
秀吉の天正長大判の前で、3人で「チョウダイバンて読むのかなあ?」と話していたら、女性のキュレーターが近づいてきて「ナガオオバンと読むのですよ。」と教えてくれた。このあと彼女をつかまえて質問攻めにした。江戸初期までは1両が今の10万円、10両が今の75万円くらいにあたるが、幕末には価値が下がったとのこと。小判の金含有量も落ちていく。「悪貨は良貨を駆逐する」グレシャムの法則だ。 秀吉の天正菱大判もある。

僕「極印の桐が菱形に中にあるからですね。」
キュレーター「そうです。」
僕「天正長大判の極印は何の模様ですか?」
キュレーター「ちょっと調べてみます。……桐の変形ですね。」
僕「そこにある家康の慶長大判の極印も天正長大判と同じですが、なぜで葵の紋ではないのですか?」
キュレーター「さあ」
我々「花押の墨はよくすりきれませんね。」
キュレーター「膠を混ぜて書いたからです。これは製造者である後藤家の人の花押です。」
F君、U君「じゃあ極印も豊臣家の桐でなくて後藤家のものだろう。」
僕「そうかなあ。」(注:家に帰って調べたら、その通りだった。後藤家は彫金家で、僕は刀剣の三所物 -目貫 ・笄・小柄の3点セット- 製作者の家と記憶していた。)
天正長大判慶長大判

U君の興味は「幕末不平等条約による不等価交換」これは企画展のテーマから外れていたので、常設展で説明を受けた。1859年には日本では重さで金が銀の5倍の価値、世界では15倍の価値。その差による利益を外国に貪られた。しかし1860年にはすぐに世界の交換レートに替えたという。

F君の興味は藩札。藩札は藩内部だけで通用するもの。「銭でも箱館通寶や仙壹通寶という地方銭がありましたね。」と僕。キュレーターが常設展に連れて行って藩札の説明をしてくれた。日本最初の紙幣は1600年の山田羽書(ハガキ)という少額銀貨の預かり証。ヨーロッパ最初は1640年頃英国の金貨預り証。 僕は「関孝和の微分積分はライプニッツ・ニュートンより早い」というお国(静岡でなく日本)自慢に、更にお国自慢が加わると喜んだら、何と中国には990年頃に「世界で最初の紙幣」があるとのこと。

僕の興味は両君のようにレベルの高いものでなく、日本からオランダに輸出された、スホイト銀の語源。F君は「銀採掘法開発者の名前では?」との推測。キュレーターは即答できず、違う階まで資料を調べに行ってくれた。オランダ語で船を意味する「schuit」という。当時はスコイトといっていたのだろう。スカウトの方が正しい発音にちかい。オランダではschを英語のschoolのばあいのように常にスクと発音する。uitは英語のoutのように発音する。

僕のもう一つのお願いは「冥土の飛脚で忠兵衛が封印切りした封印というものを見せてください。」 やはり常設展で見せてもらった。変哲のない紙包みである。これが開封されることなく、一つの単位をして信用されて流通していたというから驚きである。
封印切りえちごや
「呉服屋 越後屋の絵がある。家紋は丸の中に井桁、その中に三である。「なぜ三越のような丸の中に越でないのだろう?」と僕。 「丸に越は三越に。この絵にある紋は三井宗家のものと後世使い分けたのだろう。」と3人は結論づけた。

「現金掛売り無きよう云々」という看板があった。「おかしな書き方だな。」と僕。「現金のあとにスペースや点がないから読み間違えたのだろう。現金のあとで、一息つくのさ。」とU君。もっともだ。

キュレーターから「歴史研究会の方ですか。」と聞かれた。「いや、一杯飲んでの帰り道です。」とF君。キュレーターと分かれたあと、U君はF君に「研究会でないと言うのはよいとして、『一杯飲んで』は余計だろう。」と文句。

「でもキュレーターは、我々から質問攻めにあって生き甲斐を感じたに違いない。」 「結構面白かったな。今度は逓信博物館へ行こう。」とこれも3人で一致した意見であった。

F君とは日本橋で、U君とはもと白木屋(東急デパート)のあったあたりで別れ、僕は銀座4丁目、有楽町駅まで歩いた。もと白木屋の場所には近代的なビルが建ち、「Coredo日本橋」と名付けられている。 江戸学博士 U君によると「 『これ江戸』にcoredoを当てた。」のだそうだ。

…………… 「貨幣博物館を訪ねる」終わり ----------------