「猫ふんぢゃった俳句」(村松友視著 角川学芸出版)を読む

2014年9月7日 本多 幸吉

 中学3年生のとき国語の先生は、当時の先生方の中では年配に属しれ, 国語の教科書に載った桑原武夫の「第二芸術論」に対し、俳句支持の立場から強く反論しておられた。我々悪童は、教壇の机の上にカマキリをおき、教室に入ってこられた先生は怒って出て行き、その時の授業がなくなってしまった。先生の綽名がカマキリだったから。こんないたずらをしたのは桑原武夫を支持する立場からでも、先生を嫌っていたからでもなかった。カマキリが先生の入室までよく他所へ逃げないで机の上に頑張っていたと妙な感心をしたことを憶えている。

 桑原武夫の主張にも一理あると思った当時の僕は、日本の伝統文化に一般的な興味を持っており、先生の反論に共鳴できるところも大いにあった。著者は「この論文を読んだとき違和感をおぼえた。(中略) オリンピック精神の潔癖性を楯に、大相撲にケンカを売っているような感じを受けた」と本書の終章に書いている。うまい比喩だ。

 序章+ 22章+終章からなる本書は、元来雑誌「俳句」に連載されたもの。各章8頁でコンパクトだ。要を得た記述が、著者自家薬篭中の小気味よいリズムで躍っている。また、著者得意の軽妙な比喩にも事欠かない。前記の例以外にも、こんな記述がある。「山頭火の句は、豪快に注がれてコップから受け皿に溢れ出る、定型も自由律も溶け切った冷酒の様な趣だ。(中略)一方、放哉の句を同じ喩えで思い浮かべるならば、コップの上のぎりぎりのところで、絶妙にして壮絶な表面張力を保っている酒で、自由律を醸しながらも、俳句としてコップからこぼれ出る不作法がない。」

 「俳句、俳諧の知識をもちあわせない」著者は雑誌「俳句」編集長からの誘いに、著者が得意とする「猫」を覗き穴として俳句を眺めては、ということで、雑誌への連載を引き受けたとのこと。文筆業の著者と、自分を並べるのはおこがましいが、僕も俳句のことはよく分からない。子供のころから興味があったのは川柳の方で、個々の俳句に「うまいな、すごいな。」と思うことはあっても、共感を覚えたのは蕪村だけである。著者も「蕪村には小学生のころからなじんだ」とのことで、「やっぱり」と親近感を覚えた。

 本書のはじめの数章は、猫から説き起こすものの、大部分の章は前半部が俳人の評伝、後半部がその俳人の猫に関する俳句の総覧という構成である。著者は自身を「散文家」と断っている。とはいえ、さすがプロである。韻文である各句への文学的な切込みはシャープだ。それでいて, 著者が読者と同一目線からアプローチしているという印象を与えるところが好ましい。僕は素人のくせに衒学的な文章を書きがちなので、よい教訓になる。

 「著者ならでは」との感想を僕がもったのは、やはり評伝の部分だ。評伝作家の面目躍如と感じさせるのは、著者が常に対象者の「生き様」に強い関心をもっているからにほかならない。とくに第19~22章、それぞれ放哉、波郷、橋本多佳子、鈴木しづ子についての記述は感動を与える。

 さて、猫である。著者は泉鏡花の章で、「ポーの『黒猫』もまた鏡花の『黒猫』とともに、猫好きの私が馴染むにはとうていふさわしからぬ作品」と書いている。 著者とちがい、猫に暗いイメージを抱く僕は猫が苦手で、とくに俳句の題材として多いという「猫の恋」は大嫌いである。猫が苦手の僕が本書を一気に読めたのは、著者の文章力による。

 英語による猫の句では、アメリカの女流作家Deborah Coatesが一人で100もよんだ本『Cat Haiku』があるそうだ。僕は読んだことがない。邦訳もなさそうだ。ただ、この本の紹介に引用された句がある。英語の俳句は読んですぐに理解できないものが多いが、これは何となくわかる気がする。
  A cat getting your
  Tongue is impossible; you
  Guys are way too tall

 俳句ではないが、猫好きの作家が書いた詩で有名なのはT.S.Eliotの「The old possum's book of practical cats」だろう。ミュージカル好きの僕が、猫が苦手との理由で観たことのないミュージカル『キャッツ』のもととなった詩である。Eliotは「自由気ままな」猫の生き方にあこがれ、自分も猫になりたかったらしい。邦訳は絶版だが、英文ならインターネットでただで読める。
http://www.moggies.co.uk/html/oldpssm.html
いろいろな名前の猫について吟じているが、ポーの『黒猫』や化け猫騒動とは異質な、Eliotの猫への敬愛が読み取れる。「猫ふんぢゃった俳句」の著者の猫への愛情とあい通じるものがある。

 以上