蓄音機で楽しむ午後のひと時
2016年9月16日  虎長

 9月10日、鶴見川でのボート漕ぎの練習が終わってから、家族と外で夕食をとるまで時間があるし、一度帰宅すると交通費が余分にかかる。横浜で何か安上がりな催し物がないかと、前の日にInternetで探した。山手234番館で1400〜1500に、無料で表題のプログラムがあるという。これに決めた。

 中華街で一人昼食をとったあと、ついでに山手の西洋館めぐりも。入場料はどこも無料だ。外人墓地近くのベーリック・ホール、エリスマン邸を観てから山手234館に13:45到着。このSPレコードを聴く会の定員が35名であることを、この時初めて知った。幸い最前列に一つ空席あり。おまけに左側の席に和服姿の若い女性の二人連れ、という幸運にも恵まれた。定刻前なのに、何やらクラシックのピアノ曲が電気蓄音機(?)から聞こえてくる。
[山手234番館。レコード・コイサートは [手回し蓄音機。電蓄ではなかった]向かって右の部屋で]
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 解説者は、中年は越えた、しかし多分小生よりは若い、和服の女性。ピアノ曲の後、「ご存じの方は多いでしょう。」と曲名・歌手名に触れずにかけたのは、ディック・ミネの「ダイナ」。エノケンによる替え歌「旦那」でなくても、これくらいは僕にも分かる。さて本番は14:00から、蓄音機は、僕の家にあって1945年6月19日の静岡空襲で焼けてしまった電蓄くらいの大きさ。音量も電蓄のように大きい。けれど、電気を使っていないのに気が付いた。上の写真で、布を張ったスピーカー部の内部は見えないが、大きなラッパで、レコード針を装着したサウンド・ボックスの響きがパイプを通して、このラッパを鳴らすという。山手234館に4台ある蓄音機の一つで、Victor社 のVictorolaという手回し蓄音機だ。レコード針は金属針で、レコード保護の為、片面をかける毎に取り換えているという。道理で、キズ音がほとんどない。竹針は使わないそうだ。

 静岡の空襲で最後に飛来したB29に焼かれ灰燼に帰した我が家で、最後まで炎を出して長時間燃えていたのは、父親の集めたSPレコードだった。戦後、我が家で買ったのは手回し蓄音機で、サウンド・ボックスの音をラッパで拡声しないで直接聴くものだった。

 14:00からの本番は、お月見にちなんでベートーベンの「月光」の第1楽章。ポーランド首相も務めたパデレフスキーの演奏。次が昭和歌謡曲。「湖畔の宿」は「当局から軟弱と非難されたので流行ったのは戦後ではないか」と解説されたが、軟弱ゆえに戦中に流行ったはずだ。「昨日生まれた豚の子は」という替え歌が巷で歌われたのも覚えている。「高原の旅愁」は「湖畔の宿」(昭和15年発売)の裏面とのこと。もう少し時代が下ってからのものと思っていたので、意外だった。「黒い瞳」は昭和25〜27年頃の録音で、前述の「ダイナ」の片面とのこと。「ダイナ」は、ディック・ミネの歌でも、もっと昔のものと思っていたので、これも意外。

 さて次はアルゼンチン・タンゴ〜名曲聴き比べ。山本さんの解説によれば「10年前の発足時もアルゼンチン・タンゴから始めたかったが、とっつきやすいコンチネンタル・タンゴから始めた。」そうだ。

 驚いたのは、1920〜30年代録音のSPレコードの音が、電気でない機械式蓄音機から鮮明に聞こえることだ。もちろん円盤の回る「スースー」というカスレ音があるものの、バンドネオンとピアノの音には意外とフィデリティ(忠実性)がある。もう一つ驚いたのはデビュー後 1〜2年の録音という藤沢嵐子の「大人の歌唱力」。彼女が手本としたメルセデス・シモーネも上手いが、声の質としては藤沢嵐子の方が好きだ。アダ・ファルコン の歌う「ジーラジーラ」には胸が熱くなった。彼女は人気絶頂時に突如修道院に入り、以後公共の場に姿を現さず2005年に亡くなった。グレタ・ガルボのような、いやそれ以上に謎に満ちた生涯。

 再び自分史。戦後、実家の取引先で破産した喫茶店から、未払い金の一部をSPで補填されたことがある。それまでクラシックのSPの方が主だった我が家に、突如たくさんのポピュラー音楽(当時は何故かジャズでなくてもジャズと総称)が流れることになった。

 次回10月8日(土)は4台の蓄音機聴き比べだが、出席できない。毎月第2土曜にあるので、「またボートの練習のあとに立ち寄ってみようかな。」と思った土曜の午后であった。

以上