「写楽」展を観る

東京国立博物館で開催された「写楽」展を5月31日に観た。5月23日で来場者が10万人を超えたとのことだったが、切符売り場に長蛇の列はなかった。僕の憶えている東京国立博物館の建物は正面本館と左側のものだけだったが、今回右側と左奥にも建物が作られたことを知った。「写楽」展は左奥の建物だ。
4月1日〜5月15日の開催予定が、5月1日〜6月12日に変更となり、海外駐在から5月17日に帰国した僕も観ることができたのだ。

展示の構成
展示は1部と2部とから成り、1部の始めはかなり混んでいた。女性館員が「込み合っているので空いているところから観てください。」と盛んにどなっているのがうるさかった。2部に進むと、かなりゆったりと観ることができた。

1部は「前史」つまり、歌舞伎の説明、版元蔦屋重三郎の紹介、蔦屋が写楽の前に売り出した歌麿の作品などである。そのあとは、写楽と同時代の他の絵師、特に豊国と春英による役者絵と写楽のそれらとを並べて比べるようにしてある。豊国の絵は、写楽の絵に似てはいるが、梅原猛の「写楽=豊国」説をサポートするほどではない。

2部は歌舞伎の演目ごとに役者絵を集め、粗筋の説明を添えてある。従い、1部で観たのと同じ絵の大部分を2部でもう一度観ることになる。これは版画であるから可能なわけだ。

作品数
全作品142の中、本物がなく写真展示であったものは、行方不明2点、門外不出、他の展示会に出展中各が1点で、合計4点としてあったが、実際は「東日本大震災のため出展できません」というのが1点あった。詳細な理由は書いてなかったが紛失したのでなく、原発事故が理由で海外の所有者が日本への貸し出しを渋ったのかもしれないと勝手に想像した。

個人的な興味 僕は小学校高学年から歌舞伎や日本の美術に興味を持ち始め、1953年中学1年のときに村松友視という同好の親友を得た。写楽の絵を2人で画き写したりしたものだ。「写楽は誰だ?」ということが日本で話題になりはじめたのは、1957年で1985年まで、この謎解きは続いた。それ以前に、僕らは「写楽は誰だ」よりも写楽の絵そのものを楽しんだのである。今回の展示会は「写楽は誰だ」には焦点をあてないことを最初に謳っていたことが、これは正しい方針だったと思う。

中学生時代、村松君も僕も似顔絵は得意だったが、「筆に勢い」があるという意味では村松君の方が上だった。後年、彼が現代西欧文学の紹介者・名編集者の安原顕を追悼する本を出したとき、そこには彼の描く安原顕の似顔が沢山載っていて、「腕は落ちていないな」と感心したものである。

余談だが、写楽の「尾上松助の松下造酒之進」に村松君が似ているので、中学時代、彼に「松助」とあだ名をつけたことがある。(5頁、図3参照) 今回、よく見ると松下造酒之進は不遇な浪人で月代に髪の毛が生え、無精ひげがうっすらと見えている。今思えば、気の毒なあだ名をつけたものだ。

絵のサイズ
写楽の作品群は、10ヶ月の活動期間を4期に分類されるのが慣わしで、最も写楽らしい1期の大首絵(おおくびえ-半身像)は大判といって横26.5cm 縦39.4cmで以外と小さい。

僕は高校生時代、静岡の古本屋で国周(幕末・明治の浮世絵師)の大首絵を買った。価格は当時のLPレコード3枚分くらいで、サイズは横40cm 縦60cmはあったように記憶しているからだ。残念ながら、この役者絵は紛失してしまい、僕の記憶するサイズが正しいかは確認できない。
写楽の絵で一人全身像は細判(ほそばん)が多く、このサイズは横16.5cm縦33.0cm。中間は間判(あいばん)と言って横23.5cm 縦36cmほどだ。

西洋画からの影響
1期の大首絵は黒雲母(きら)刷りである。いまや色が褪せているが、当時は人物をうきたたせる効果がもっと大きかっただろう。内田千鶴子は、ここに西洋肖像画からの影響を見ているが、正しいかもしれない。彼女は「写楽は客席から舞台の実演を見て画き、光の当たる場所を強調した」と想像しているが、これは疑問である。芝居の興行が始まる前に役者と会って画き、芝居の開始には間に合わせる必要があったのではないか。写楽が芝居のリハーサルで蝋燭の灯を、カラバッジョがカンテラでモデルを照らしたように照らしたのだろうか、これは分からない。

世界の3大肖像画家の一人?
明治43年にドイツ人クルトが写楽を「ベラスケス、レンブラントと並ぶ肖像画家」と書いたので、日本人がその評価を逆輸入したと言う。何やら、昭和初期におけるブルーノ・タウトの桂離宮評価と似た話だ。
僕の個人的な感想では、ベラスケス・レンブラントの肖像画は、後に写真館で写す肖像写真のようにこちらを向いている。 大田南畝が写楽について書いた「あまりに真を画がかんとて、あらぬさまにかきしかバ、長く世に行わず、一両年にて止む」の「真を画がかんとした」と言う意味では、スペインではゴヤ、フランドルではフランス・ハルスにその傾向が強いと思う。もっとも彼らは「あらぬさま」には画いてはいないと思うが…..。
果たして写楽の役者絵は「肖像画」なのだろうか? むしろ僕には芝居の中の瞬間的なクローズアップとして、のちの映画監督エイゼンシュテインや現代の劇画の手法を先取りしていると思えるのだ。エイゼンシュテイは歌舞伎の「みえをきる」ことに影響を受けたと自認している。
図1:左 イワン雷帝国、右 戦艦ポチョムキン

外国でまず写楽が評価されたが、今でも大切にされている
写楽の作品が多く海外に流出し今回里帰りをしたわけだが、今回の展示会で気が付いたことがある。その一つは2部で芝居の筋と登場人物の関係を説明するビデオがThe Art Institute of Chicago作成であったことであり、もう一つは最も保存状態がよく色彩が鮮明であったものはフランスのギメ東洋美術館からの貸し出しのものであったことである。

1期の写楽は「へたうま」か?
「あまりに真を画がかんとて、あらぬさまにかきしかバ、長く世に行わず、一両年にて止む」の「あらぬさまに」とは、「誇張がある」ためにかえって似せる効果があるということだ。現代の似顔絵かきの第一人者、山藤章二はあの温厚な王貞治に「自分の似顔絵を見ると(山藤氏を)バットで叩き殺したくなる」と言われたそうだが、「誇張」があまりにも「特徴」を捉えているためだろう。

写楽の大首絵で、顎の線(より男に見える)や目の上の山なりの皺(より年取って見える)を画かれた女形は同じような気持ちだったかもしれない。

写楽の大首絵の大きな顔とバランスしない小さな体の画き方が「へたうま」と言われることがある。全身像では、これは打って変わり、頭が小さく、体が大きく8.5頭身くらいだ。大首絵のインバランスは「クローズアップ効果」を狙ったものだろう。
よく話題になるのが、「驚いているのか、脅かしているのか分からない江戸兵衛の、おかしな手」である。(4頁、図2参照)会場では歌舞伎役者による奴一平と江戸兵衛との対決の場をビデオで見せていた。これで分かったことだが、江戸兵衛は奴一平を殺して金をとろうとしているから脅かしてはいるのだが、奴一平が気付いて刀を抜こうとしているので驚いてもいるのである。

2期以降、写楽の腕は落ちたのか?
2期以降は確かに迫力に欠ける。全身像が多いため、クローズアップ効果が出しにくいからだろう。「写楽の腕が落ちた」というより、プロデューサーであり、プロジェクト・マネジャーでもある蔦屋重三郎の「写楽プロジェクト」の路線変更という失敗と見るべきではなかろうか。そして、この路線変更は芝居小屋、役者、そして1期の製作スポンサーたちの圧力によるのだろう。

大首絵の独立性と相関性
写楽の一人の大首絵は、それだけで視る者に「感じ」させるものがある。
が、芝居の一場面として「対」の絵と並べると「感じる」上に「分かる」ことも増える。

図2:三代目大谷鬼次の江戸兵衛と市川男女蔵の奴一平。
図3:尾上松助の松下造酒之進と三代目市川高麗蔵の志賀大七。
志賀大七は松下造酒之進を殺害、その娘に敵と狙われる。
図4:二代目坂東三津五郎の石井源蔵と3代目坂田半五郎の藤川水右衛門。
父の敵、藤川水右衛門を狙う石井源蔵は妻千束(ちずか)と共に返り討ちにあう。

最後に:
以上、とりとめもなく私見を羅列したが、本展覧会の主要スポンサーである、東京新聞では<写楽が集う>1~5、<私の写楽>1~6、<写楽が描いた役者たち>1~5を連載した。これらは、「写楽」展のWeb Siteに「関連記事」として転載されているので、興味のある方はWebから消えぬうちに、お早めにのぞいてみてください。

以上