イラン・シーラーズ訪問記
5月はじめにイランのシーラ−ズへ行ったときの記録です。
ペルセポリス訪問記は後から送ります。
本多
1) 2011年5月2~4日、中近東駐在最後の出張をした。行く先はイランのシーラーズ。過去イランへは8回くらい出張しているが、いずれも首都テヘランのみ。以前はバーレンからシーラーズへの直行便があったが、バーレン政府が「最近の反政府デモをイランが陰でバックアップしている」との判断で止めさせてしまった。当社のドバイの子会社の社長兼イラン・カントリー・マネジャーのF君(英国籍も持つイラン人)とドバイ空港で待ち合わせ、隣の国(だが、隣の街と言ったほうがピタリ)シャルジャーの空港へ移動。
シャルジャー空港でひと悶着。イランのビザ証明書コピーを持参、「これをシーラーズ空港で見せればパスポート上にビザをもらえる」とチェック・イン・カウンターの女性に説明しても、なかなか納得せず搭乗券を出してくれない。彼女の同僚を呼び出させて、やっとOKをもらった。
アラブエアという小さな会社の機内で待っていると、「トラブルがあるのでゲイトに引き返す」と機長のアナウンス。一時間半送れたので、5月2日に会う客先とのアポを電話でキャンセル。 コックピットにある「コンピュータ」を交換したという。
2) シーラーズ空港でビザを買うのに20分かかった。テヘラン空港ではもっと時間がかかったことがあるので驚かない。マレーシア人の夫婦がビザを買おうとして「要らないよ」と言われていた。ムスリムの国だからだ。
パスポート・コントロール・カウンター8番へ行って驚いた。3人がかりで僕のパスポートを見て議論をしている。「カウンター9番へ行け」と。ここでも時間がかかった。指一本一本を左右の手それぞれ2回も指紋を採るのだ。日本がイラン人にやっていることへの対抗であることは分かるが、「テヘランでこんなことされなかったよ」と言ったら、「これは最近始めたことで、テヘランでも今はやっているよ。」と。 僕より前にパスポート・コントロールを終えた中国系オーストラリア人がもどってきて「私も指紋要りますか」と質問。「オーストラリア人は要らない。」と答え。やれやれ。
3) 空港からホテルへタクシーで向かう。シーラーズは西を除き、3方を山で囲まれている。山はテヘラン同様禿山だ。しかし道路わきは並木で、全体的にも市内には緑が多い。公園も沢山あり、テヘランより雰囲気がある。宿泊したホテル・ホマーもアザーディ公園に隣接している。公園の芝生には若いカップルや家族連れがカーペットを敷き、食事をしている。ピックニック気分だ。のどかな情景に、イランが経済制裁で苦しめられていることを忘れてしまう。ホテルの庭にはオレンジとレモンの木があり、丁度花が散って実を着け始めたところだが、香水のようによい香りがする。シーラーズ出身のF君によると、3月~4月の花盛りの時期はシーラーズ市全体が花の香りに包まれると言う。花びらを乾燥させると、英国のポプリみたいになるが、紅茶のポットに花びらを2枚入れただけで、花茶を楽しめると言う。公害もテヘランほどでなく、僕はシーラーズが気に入ってしまった。
4) F君は、数百年前まで遡ることのできる高名なイスラム法学者の家系にシーラーズで生まれたが、彼のお祖父さんまでで、その仕事を終わりになったとのこと。僕の持っている中公新書「イランの歴史」にも、彼の祖先の名前が出ている。F君は英国に子供のときに留学、英国の大学をでて英国の企業に入ったので、英国人なみの英語を話す。
5月2日の夕方、街を案内してもらった。バザーレ・ヴァキールというバザールだ。アラビアではスークというが、ペルシャではバザールという市場だ。そうだ、英国人作曲家ケテルビーに「ペルシャの市場にて」という曲があったね。このバザールが、以前訪れたダマスカスやイスタンブールの市場に劣らず面白かった。衣料品、日用品、装飾品、貴金属、銅細工品、食料品、絨毯などがそれぞれにまとまって並んでいる。
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銅食器専門店
銅製品を店先で造形中
貴金属商店街の中の一軒
絨毯屋街に香辛料店(左)があった。
もちもちアイスクリーム屋の隣のいろいろみやげ物屋

やま積みになっているのは、ヨーグルトで、チーズのように見えるが、チーズより柔らかく茶色い。少しスライスして味見をさせてもらった。薄い塩味ですごく酸っぱい。妊婦が好むとのこと。小さなプラスチック容器に入っているのは黒い昆布巻きに見えたが、実は杏を煮詰めたものを平たく延ばし、それを丸めたもの。これは甘酸っぱかった。
5) バザールを通り抜けてから、マドラセイエ・ハーンを訪れた。1615年に建てられたイスラム教の学校。5つの講義室と114の部屋が設けられている。
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マドラセイエ・ハーン入口のくぼみ(エイヴァーン)の天井鍾乳石飾り
マスジェデ・ヴァキールン南側エイヴァーン奥の礼拝堂
マドラセイエ・ハーン中庭に面した講義室と部屋
6) 次にマスジェデ・ヴァキールを訪れる。1766年に建設が始まり、その後地震の際に修復されたモスクである。北側入り口中庭側のエイヴァーンは彩色タイルで美しかったが写真がぼけてしまった。
7) 夜はF君が姉夫婦の家に行くので、僕一人でホテルの近くのレストランへ歩いていく。F君おすすめの店で、シャテール・アッバースという。セット・メニューのうち、チェロー・キャバーブ(ラムひき肉のつくね)、えび、魚がそれぞれ個別の串にさしたものが、ご飯のうえに置いてあるものを選ぶ。サラダと水は自動的に出されたが、値段は別だ。スープは「要るか?」と聞かれたので注文する。これで日本円千円程度。1階は窯、客室は地下にある。大きな彩色タイルの絵があった。大広間で大勢の人が食事をする図。 カメラをもってくればよかった。
8) 5月3日は、午前や済ませてもらいペルセポリス見学。これは別にレポートする。
午後はF君と仕事。夕方、2人とも大好きな「イランのナッツ類」を買いに行く。その途中で、詩人ハーフェズ(1325~89年)の廟に連れて行ってもらった。ハーフェーズはチムール時代の抒情詩人。ハフェーズは本名でなく、クルアン(コーラン)の「暗唱者(保持者)」の意味で王から与えられた呼称という。ドイツのゲーテがハフェーズの詩集からインスピレーションを受けたともいう。大理石の墓石があずまやのしたにあるが、廟全体は花で彩られた公園である。訪問者が多かった。 自然を愛し酒と女を称え、恋愛詩に長じていた。
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ハフェーズ廟

廟公園の中のお土産やにあった。大きなタイル絵。酒と女を称えた詩人を示す。革命後のイランでは酒は公式には禁止。
9) 5月3日夕食は小高い山の上にあるレストランへF君と行く。時間が早いためか客がわれわれ以外には若いカップル一組のみ。風情を好んで、屋外の桟敷席をとったが、寒かった。この店は、テヘランでは何度も行ったシャンディーズのシーラーズ支店。F君が以前うまそうに食べていたラムの柔らかい肩肉を頼む。F君は鶏肉の串刺し。
10) 5月4日の午前は客先訪問で忙しく、14時台の飛行機に乗るべく空港へ向かったので、昼食を市内で取る時間がんかった。 空港にはレストランがない。売店でビスケットをと紅茶を買い、昼食代わりとした。
11) 余談:F君によると、
(a) シーラーズの人々は働き者というより、生活をエンジョイする性質がある.
(b) エスファハーンは、古い建物やバザールの保存状態がシーラーズよりもよく、もっと美しいから、是非言ってみなさい。
(c) シーラーズを出自とする葡萄からできたワインは、いまや世界のあちこちにある。
オーストラリアへのシーラーズ葡萄移植がフランス経由との話は間違いで、ドイツ人がイランからオーストラリアに持ち込んだ。
シャー・チェラーグ廟 835年にシーラーズで殉教したエマ―ム・レザーの
弟セイイエド・アフマド・エブネ・ムーサ(通称シャー・チェラーグ)の廟

――― シーラーズ訪問レポート終わり ―――――