おわりに
ここまで、みなさんにショパンの生涯とその思想についてお話ししてきましたが、最後に、私自身にとっての思想を表現するということの意味を、伝えたいと思います。私がはじめて「音楽は思想」という言葉を聞いたのは、私の父からでした。
「はじめに」でも触れましたが、在日韓国人として生まれた私は、法的には「外国人」として、自分の生まれ育ったこの日本という国で生活しています。
私は、大学を卒業するころから、留学を夢見ていました。それは音楽をさらに深く学びたいという思いがあったためだけではなく、生まれ育った日本で「外国人」と言われている自分自身が、いったい何者であるのかわからなくなったからでした。
「日本」という鏡に映してしか自分を見ることができないのに、この鏡に映る自分は、いつもゆがんでいるように思えてなりませんでした。だったら、鏡が変われば、自分も違って見えるのではないだろうか、と思うようになっていたのです。私はどうしても日本をいったん離れなければ前に進めない、自分が何者かわからなければ、音楽によってなにを表現したいのかもわからない、そんな思いが津洋なりました。
もちろん、日本を出て自分自身を見つめ直したいと言っても、決して日本に帰国したくないと思っていたわけではありません。けれども、21歳のとき指紋押捺を拒否したために、何度再入国許可を申請しても、不許可になるばかりでした。いったん日本を離れればもう帰国できないかもしれない、それでも留学すべきか――私は3年間悩み、苦しみました。
そんなとき、私の姿を見かねた父が言ったのが、「すばらしい音楽家には思想がある」という言葉でした。父は「それは、たとえばショパンだ」と言い、私を励ますような目をしたのです。
このとき、父は私に、たとえ帰国できなくても、自分の思想・信念を曲げず貫くこと、それが思想をもつことだ、と言いたかったのだと思います。けれどもそれは、自分の娘が二度と日本に帰国できなくなり、会えなくなるかもしれない、ということでもあり、父にとってもつら選択のはずでした。
しかし、このときの私は、まだ自分の将来に対する不安がいっぱいで、父の気持ちを考える余裕もなく、また父のかけてくれた言葉についても、「ショパンの思想ってなんのことだろう」と思うばかりでした。
けれども、父は、ショパンの音楽の核にある思想を見抜いていたのです。それは、父がショパンと同じ「亡命者」だったからでしょう。
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私の父は、分断される前の北朝鮮に生まれました。そしてひとりで38度線を越え、自分で学費を稼いで現在の韓国にある大学を出たころ、南北を分断する朝鮮戦争になりました。父は、武器を持って闘うことを避けるために、南の島の山奥に潜んだそうです。
その後、どうしても勉強したくて、24歳のとき、ひとりで日本に渡ってきたのです。父がふたたび生まれ故郷に帰ることはありませんでした。祖父の死に目にも会えませんでした。
父が選んだ亡命者のような人生の苦悩やさびしさを、日本で父と一緒に過ごしていた約20年間、私は考えようともしていませんでした。しかし、自分が家族と離れてアメリカに行き、帰国できないかもしれないという状況になったとき、はじめて、私は父の苦しみを実感し、その感情に近づくことができました。亡命者の悲しみ、それは、家族と自分が生きていた場所から「断絶させられる」ことです。
そして、それは遠い時代の遠い世界の話ではないのです。ショパンの人生を知ったとき、私は自分が日本で生きていることと重なり、そして父の歩んだ人生をもっと知らなければと気づきました。ショパンの悲しみが自分の悲しみとして響いてきました。
北朝鮮と韓国、そして世界中には、家族親族が引き裂かれて、生きていながらお互いに会えない人が、まだまだたくさんいます。ショパンの音楽は、時代を超えて、そのような人びとの悲しみの声として、私には響いてきます。
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ショパンは生涯を通して「民族の音楽」を音楽の核に置いていました。私の父もよく「民族」という言葉を口にしました。「民族こそがもっとも大切なものなんだ」と、私にいつも語っていたのです。
私の父が生きた朝鮮半島は、日本に侵略された歴史をもっています。父は、自分の名前を日本名に変えさせられ、日本語を強要される教育を受けました。父の言葉は国を奪われた体験からにじみ出るものだったのです。
けれども私は、この「民族」という言葉に苦しみました。なぜ「民族」がそんなに大切なものなんだろう、そもそも「民族」っていったいなんだろう、と。私は朝鮮が侵略された時代を知りません。民族を奪われているという実感がないのです。
ですから、私は、侵略された人びとの痛みが、どこまで自分のこととしてわかっているのか、と今も自分に問うています。それは、私の父親たちの心情、侵略された朝鮮人の苦しみや怒りが自分のものにならないという壁であり、同時に、侵略の苦しみを訴えるショパンの音楽を本当に理解し共感することができるのか、という壁でもありました。
けれども、ショパンの言葉で触れ、ポーランドの侵略された歴史を追うことで、ショパンの音楽が訴えている「侵略に対する怒り」というのは、人間として当然のことだと思えるようになりました。それによって、ようやく私は、ショパンを感じるように父の感情を理解し、ポーランドの歴史を思うように朝鮮の歴史に思いをはせればいいのだと思えるようになりました。
韓国人であろうと、日本人であろうと、ロシア人であろうと、ポーランド人であろうと、人間として、決して侵してはいけないものがあります。それをショパンは音楽で訴えていたのではないでしょうか。そのショパンの悲しみを忘れてはならない、と思うのです。
そして私がショパンや父の痛みを理解したいと願ったように、お互いをもっと知りたい、もっと理解しあいたい、という情熱をもちつづけられれば、平和に一歩ずつ近づいていくのだと私は信じています。わかりあう努力はをやめたとき、暴力は戦争がはじまるのではないでしょうか。ポーランドの魂とは、侵略を拒否し、平和を求める魂なのです。
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この本を書くことは、私の思想の表現でもあります。言葉を探し、組み立て、なにを伝えたいのかを模索する過程は、苦労でもありますが、それ以上に、なにものにも代えがたい大きな喜びでした。音楽では語りきれないことを言葉にし、また言葉にできないものを音楽にする喜びをみなさんに伝えられたとすれば、大変うれしいです。
最後に、このような機会を与えて下さった岩波書店の岡本厚さんと朝倉玲子さんに、心から感謝を申し上げます。「崔さんのショパンを書いて下さい」という岡本さんの言葉に、終始支えられました。また朝倉さんは、拙い文章しか書けない私を、最後まで導いてくださいました。
また、私がアメリカの大学の書店で購入した"Chopin's Letters"で省略・割愛されていた手紙、および評論など、訳出できなかったものについては、参考文献に挙げた本のうち、特に関口時正さんと小沼ますみさんの訳に頼らせていただきました。ここに記してお礼を申し上げます。
みなさんにはぜひショパンの音楽を聴いてほしいと思います。音楽のなかに彼の心からの声が注ぎこまれていること、彼は音楽のなかでこそ輝き、音楽によって生かされていたことを、きっと感じることができるでしょう。
2010年8月
崔 善愛
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