2007年(平成19年)10月20日   

  上海便り−シルクロード天山南路(1)・ウイグル族との対話  


 10月初めの国慶節休日に約一週間新疆ウイグル自治区のいわゆる天山南路一周の旅に一人で行ってきました。予ねてからここにいる間に行ってみたいと考えていた地域ですが(実際には2度目です)、大勢で一緒に行ける良いツアーもなく、都合がつく同行者も見つからなかったので仕方なく一人旅となりました。一応よく準備をしたつもりでしたが、念の為、万が一のことも考え会社の一部の人にだけ話しをした上で出掛けました。現地の旅行会社と連絡をとり、現地の案内は途中から車と運転手と日本語ガイドを用意してもらい3人で回る日程とし、飛行機、車、夜行列車の組み合わせで回ることとなりました。当然のことながら日本にいる家内からは猛烈な反対を受けることとなりました。(行程 上海―ウルムチーカシュガルーカラクリ湖往復―和田―ニヤー庫車―ウルムチー上海)
 やや緊張気味で上海を後にし、一路ウルムチに向かい、一泊の後カシュガルでガイド達と合流それから5日間、3人で約2,300KMの車の旅となりました。途中、ニヤー庫車の部分はタクラマカン砂漠を南から縦断して計730KMを北上するコースなので、この歳でどこまで体がもつかと流石に一寸心配になりましたが、案ずるより生むは易し、道路が意外と良かったお陰で何とかこの部分も無事完走することが出来ました。
 車はたいして良い車ともいえませんでしたが、幸いにも女性ガイドと運転手には恵まれ、二人共ウイグル族で、とても親切で良い人達でした。5日間、朝から晩まで一緒なので無事旅を続けるためともかく仲良くしてもらう他なく、食事も彼らが選ぶイスラム料理を全て一緒に食べる方針とし別れるまでこれは実行しました。上海などで食べる麺と違い、新疆地域の麺は固めで腰がありスパゲッティに似て結構美味しいので唐辛子が効いた一寸辛目なのを別にすればあまり苦にはならなかったのも幸いしてました。5日間一緒に過ごしたお陰でウイグル族や新疆自治区についていろいろ勉強する機会を得ました。
 彼らは自分達の文化を守っていこうという意識の強い大変誇り高い民族でした。
 紀元前からウイグル族は、シルクロードを中心に仏教徒、漢民族や他の民族と宗教戦争などを繰り返し、栄枯盛衰の歴史を連ねてきましたが、その長い歴史を通じ一定の独自の文化を維持し続け、中国の一部になった今もその伝統を守っています。
 現在中央政府は新疆ウイグル自治区としてこの地方の独自性を尊重してますが、一方でチベットなどと同じく独立運動などを非常に警戒し、様々な対策を講じています。共和国成立以来一貫して漢民族との同化政策を推し進め、屯田兵式に人民解放軍の漢民族兵士を数多く送り込み定住化させたり、また一般の漢民族も、地方政府や会社の幹部の要職に誘導して送り込み、地方政治ににらみを利かせるとともに、この地域の漢民族比率の引き上げに注力してきました。上海周辺の地元出身の共産党幹部でもかつて兵士として10数年も新疆に派遣されていたという人達も結構沢山います。
 自治区人口の9割以上を占めるウイグル族はこのような中央政府の同化政策に表向き従いながらも、意識や生活の面では民族の独自性と一体性を優先し大事にして生活しています。ウイグル族同志の日常会話は勿論ウイグル語、異教徒との結婚は認めない、結婚年齢は男22歳まで、女20歳までとしこのルールを厳しく守っています。若い人達もこれらの民族ルールを当たり前として反対する人は少なく、未婚の人達は殆どいないそうです。東西にも長い広い中国が標準時間が北京時間一つに統一されているのもよくよく考えれば変ですが、実際のウルムチ時間は北京時間より2時間遅く、カシュガル時間はさらに1時間遅くなっています。勤務時間は夏(5−9月)は9時半―20時、冬(10−4月)は10時―19時半で、夏の暑さ、冬の寒さ対策のため昼間は夏2時間半、冬1時間半の昼食を兼ねた休憩時間があり、この間皆自宅が近いので家に帰るそうです。勿論イスラム教徒なので豚肉は口にせず、私がおやつに差し出す菓子類もいちいちこれには豚肉は入っていないかと一つ一つよく確かめた上で口にしていました。漢民族の火葬とは異なり、埋葬は一定のルールに従い全て土葬で行うそうです。
 ガイドの話によると、かつて観光客に付き添い他の漢民族のガイドと一緒にパキスタン国境を越えたことがあったそうですが、国境警備員が漢民族ガイドには何も調べをしないのにウイグル族の自分だけ徹底的に身体検査されたことがあり(独立運動に対する警戒か)、明らかに差別だと憤慨してましたが、漢民族のウイグル族に対する警戒心はかなりのものがあるようです。旅行中もガイドが漢民族のウエイトレスと口喧嘩する場面もあり、お互いに差別意識をもっている様子が伺われました。
 9月中旬から1ヶ月ラマダンに入っていたので、この時期(10月初旬)イスラム教徒は昼間はほとんどお祈りの時間(一日5回とか)となるようで、田舎の町の飲食店は昼間は殆ど休業状態で、道中、毎日昼飯が食べられる店をさがすのに苦労しました。町中を走り廻って漢民族が経営している店をやっと一軒見つけて出しようやく昼飯にありつけるという有様でした。
 520KMに及ぶタクラマカン砂漠縦断道路はそれは大変立派なものでびっくりしました。行く前から道路は全く問題ないと説明されてはいましたが、砂漠縦断というのでかなり身構えて出発しましたが、走ってみれば他の道路よりも余程整備された道路でした。聴けばその筈で、実はこの砂漠周辺の地域で産出される原油量は中国全体の57%に及ぶそうで、国にとっては資源供給の大変重要なドル箱であり、この原油(石油)輸送のために道路が早くに整備され、1993年3月―1995年5月にこの石油道路が建設されました。石油パイプラインはここから遠く上海まで繋がっているそうです。観光は二の次の道路だったわけです。
 このように中国にとっては新疆地域は地政学的にも、戦略的にも大変重要な地域の一つであり、イスラム教徒と漢民族との同化政策に力を入れる理由があるわけです。
 石油道路には5KM毎に120数箇所、小さな建物を置き、道路両脇に防砂林を育てるための水供給のための地下水堀上げの設備をおき、その管理のため夏場だけ遠くから漢民族夫婦を呼び住まわせているとのことでしたが、いろいろな意味でこれは象徴的なことだと思いました。(警戒感、言葉、等々)  

了