関恒義先生・関ゼミの思い出
北村 尚巳(6回生)

関恒義先生・関ゼミナールの思い出を書いて、関先生への追悼文にしようと思っていたが、『恒友』創刊号に書いたものを読み返してみたら、正に今も私の心の中に残っている心象と同じであった。
下手に新たな雑文を書くよりも相応しいと思い、『恒友』創刊号に掲載したものをそのまま先生に追悼の言葉として捧げさせて頂きます。
1.ゼミナール風景

 われわれの年度は関ゼミナールにとって過渡期にあたっていたと言える。我々の2年目の時から先生は社会主義経済学という新設の講座を担当されることになった。その際先生は相当の決意をされたようであったが、そのような先生の決意はゼミナールに対する態度にも変化をもたらした。 その具体的な現われはゼミナリステンの現象である。ゼミナリステンの数は第5回生の10名以降、5名・3名・2名と漸減傾向をたどっている。このような漸減傾向は単なる減少としてのみとらえるのでなく、先生のゼミナールに対する考え方の変化の反映と見なければならない。

 我々がゼミナールに入る条件として、資本論第1巻を各自読んでおくべしということであった。そしてゼミナールでは第2巻から始めた。第1巻は商品から貨幣へ、貨幣から資本へと転化していく過程が弁証法的に克明に描かれており、また資本主義の発展過程、即ち近代的賃金労働者階級の形成と資本の原始的蓄積の基礎の上に、資本主義が発展していく様が述べられている。 正に資本論第1巻は弁証法的論理と唯物史観の宝庫である。われわれがこの第1巻を深く読む機会がなかったのは残念であった。しかし毎回のゼミナールこそは生きた弁証法的唯物論・史的唯物論の学校であり、そこにおいて我々の観念論的・形而上学的思考方法の外被はかなぐり捨てられ、弁証法的なものの見方や考え方を会得することができたのである。 先生のゼミナールの方法についてのそのような考え方は正しいものであったと痛感している。

 ゼミナールの第2年目は各人が独自のテーマにとりくんだ。5名のゼミテンはそれぞれ別個のテーマを追ったわけであるが、底に流れる問題意識は共通であったと言える。国家独占資本主義論をとりあげた人、技術論にとり組んだ人、農業問題・金融資本・帝国主義論などすべて資本主義の現代的状況に対する熾烈な問題意識に拠るものなのである。 単に解釈する立場ではなく変革する立場から出たものである。我々の年度の卒論テーマを見ただけでもゼミナールの傾向を知ることができるであろう。このような傾向は先生のゼミナールの方法についての考え方を反映したものであり、さらには先生や我々の問題意識をかくあらしめた社会的状況の変化の反映である。

 正直なところ我々の年度はあまりよくは勉強しなかった。サブゼミをやろうと試みたけれど、2・3度開いただけで消滅してしまったものである。弁解じみるのかもしれないが、5人はそれぞれ各人の領域をもっており、その領域における活動に忙しかったため、落着いてサブゼミを持てなかったのかもしれぬ。 3人も運動部に籍を置いてレギュラーとして活躍していたし、また自治会活動の忙殺されて、ゼミナール独自でまとまって何かするということができなかったのは残念であった。しかし、殆んどサブゼミを開かなかったり、また一橋祭や三商大などの対外的ゼミナールに参加しなかったということのみをもって、われわれの年度の者が怠慢であったと評価することはできないであろう。 各人が自分の領域の活動に専念せざるをえなかったのは、それなりの事情があったからであり、我々をしてそうなさしめた状況を理解して欲しいと思う。

 ボート部に所属して、対抗エイトに乗っていたH君は、試合があるたびにその1ヶ月間は合宿入りし、ゼミナールに出てこられないこともしばしばあった。しかし彼はそのような制約された時間の中で技術論のための尨大な資料を集め、一千余枚という大部の卒論を書きあげた。このような仕事を成し遂げた彼は我が年度の誇りであるとともに、 我々が決して怠慢の徒ではなかったことを裏書してくれるものであると思う。

 ゼミナールの雰囲気は先生の雰囲気でもある。したがってあの熱っぽい調子で議論しあうという雰囲気はいずれの年度にも共通しているであろう。先生はゼミナール制度のことを学問における徒弟制度であると言われたことがあるが、少なくともわがゼミナールにおいては親方と弟子の区別はなく、先生とわれわれゼミテンは全く対等の立場で議論し合うことができた。 それは先生の持っているエネルギッシュな若々しさが、我々の心と相通じたからであろう。しかし、我々が先生と対等に議論できたということのみがゼミナールの雰囲気の特徴ではない。先生はわれわれの仲間であると同時に教師であったということを忘れてはならないであろう。ゼミナールが生きた学問を教える学校であるならば、 先生がそのような二つの役割を同時に果たさなければならなかったのは当然である。われわれは先生と対等に議論をしていく中で、我々の思弁的思考方法、形而上学的思考方法を正されて、弁証法的なものの見方や考え方を身につけることができたのである。卒業して後も、関先生は依然われわれの先生であると同時に仲間であることに変りはないであろう。

 関ゼミナールといえば、酒豪が揃っているというのが通り相場であったが、われわれの年度にはそれほど酒に強い者はいなかった。あるいは先生が以前ほど強くなくなったため、われわれの酒量のレヴェルも低下したのかもしれない。しかし、先生の家におしかけて夜遅くまで飲んで、口角泡を飛ばして議論したりすることも度々であった。 また歓迎コンパや追出しコンパでは飲むほどに酔うほどに先生のお得意の民謡がとびだし、われわれも声を合わせて一緒に歌ったものである。コンパの席上で出る歌も「人生劇場」「王将」のような歌が多かったが、それらはわれらゼミテンの心情をよく示している。ゼミテン一人一人が皆単純な心の持主であった。単純というのは純心だということであり、良い意味で単純なのである。 人間に対するなさけが深く、義理と人情に生きる男の歌を好んで歌ったのは、純粋な心のあらわれであろう。そのような単純な心の持主ばかり集まっていたというのもわがゼミナールの雰囲気をよくあらわしている。

 第6回生、第7回生とも財政的にピンチの者が多く、派手なゼミ旅行はやれなかった。皆の懐具合を斟酌して、我々は極めて安上がりの旅行をした。場所は国立駅より40分の中央線上野原駅から歩いて30分、ひなびた山の鉱泉であった。温い鉱泉に浸った後、途中の酒屋で買いこんだ地酒で宴を開いた。やがて山陰から月が昇りこうこうと照って、われわれの宴に一層の趣をそえて くれた。大した貧乏旅行であったが、今になってみるとより鮮かな懐かしい思い出となっているのである。

 現在関ゼミナールはわが母校の中核となってきている。学問の分野における先生の活躍はめざましいものであり、学内における先生の発言力は日増しに高まってきている。また学生も学内における諸活動の中心となってイニシアティヴを握ってきている。関ゼミナールが一橋大学においてこのように大きな比重を占めつつあるということは一橋大学の発展にとって好ましい現象であり、 社会進歩にとっても大きなプラス要因となるであろう。このように言うことは決してセクト的でもごう慢でもない。それは正に関ゼミナールの持つ進歩性の故にそうなのであり、われわれは一橋大学において位置づけられた関ゼミナールのこのような進歩的性格を認識して、ますます我ゼミナールが発展することを望むものである。

   第6回生のゼミナール風景を述べるつもりがその目的を果たすことができなかったが、ここで述べたことは我年度の前後を通じての関ゼミナールの一般的上京である。したがって一般的なことを述べることによって、第6回生のゼミナールの様子を推察していただけることと思う。(1964年9月4日)