一橋大学とイチョウ その4
一橋大学名誉教授 田ア 宣義
国立の新キャンパスは、雑木と赤松の林をひらいて造られた。赤松は残し、雑木はほとんどが切り倒された。そこに本格的な植樹が始まったのは、一ツ橋の樹木が引越を始め、佐野学長が卒業生のクラス会(同期会)に植樹資金の寄付をよびかけた昭和5年からである。だから昭和5年3月より前には、新キャンパスにイチョウの姿はなかったはずだ。
『一橋新聞』を繙くと、昭和5年3月10日付に載ったコラム「校の内外」の次の記事が、この間の事情を伝えている。
一橋といてふとは切つても切れない縁のあることはだれしも
ご承知の通りだが、今度出来上つた専門部の新校舎の付近には
松や櫟は沢山あるが肝心のいてふがほとんどなく、
当の国立つ子を始め皆非常に残念がつてゐた、所がこの春巣立つ同部の三年生こそは
国立に育つた最初の卒業生である所からその卒業記念に是非共いてふを植ようと
有志の者が計画してゐる、若この企てが実現すればそれこそ国立最初のいてふ樹が見
られる日も遠くはあるまい 『一橋新聞』昭和5年3月10日 第108号
「今度出来上がった専門部の新校舎」は現在もある専門部本館(東本館)で、その周りにはマツやクヌギは沢山あるが、肝心のイチョウが「ほとんどな」いという。
今日の感覚では「ほとんどない」は「ある」のはずだが、だとすると「国立最初のいてふ樹」と両立しない。それに、専門部が移転した昭和2年から5年の間にイチョウが植えられたという記録も見つかっていない。おそらくイチョウはなかったのだろう。
昭和5年3月に学窓を巣立った専門部生は入学時からの国立育ちで、生粋の国立ッ子である。その彼らの間から、卒業記念に、大学の表徴のイチョウを植えようという動きが起きた。ただ残念なことに、この計画の顛末が判らない。国立に専門部しかなかった時期に発行されていたらしい『一橋新聞』の専門部版が見つかれば、疑問が解ける可能性があるのだが…。
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つぎに『一橋新聞』にイチョウが登場するのは昭和6年11月14日である。コラム「国立カラー(10)」に次の一文がある。
一ツ橋大通りは歩道のほ装は完成してゐる、大学側だけはいてふの並木道−このいてふは先輩が卒業記念事業に寄付した資金の一部をいれて一橋会が植えたものだ、本学の学長が指揮して二列、交互に植させた、国立らしいぜい沢な植方だ
「大学側」は現在の西キャンパスである。昭和6年11月には、西側の緑地帯に、佐野学長の指図で交互に植えられた2列のイチョウ並木があったことが分かる。
一ツ橋大通りは、大学へのいわば表参道だ。佐野学長は、国立を巣立つ卒業生に最高の場所を提供したのだろう。
卒業記念事業に、この資金を出した「先輩」は誰か。昭和6年3月には、本科生が国立で最初の卒業式を迎えた。専門部からは、第2代の国立ッ子が巣立っている。「先輩」とは、昭和5年卒の専門部生か、昭和6年卒の本科生か、あるいは同年卒の専門部生か、はたまた、これの組み合わせか、すべてを一丸にしたものか、これも調べがついていない。いずれにしても、昭和5年3月から翌年11月の間に、一ツ橋大通りにイチョウ並木が出現したことは間違いない。昭和6年には、5月10日に国立移転記念式と矢野二郎先生像除幕式、一橋会主催移転記念祭があり、10月には籠城事件が起きたから、このあたりの記録を丹念に拾えば、さらに時期が絞れるかも知れない。
さて、この時期は、明治38年卒業の「三八会」が「兼松講堂に向かって右手に立派な公孫樹二本」を植えた時期と重なる。国立初のイチョウは、一橋会と卒業生のイチョウ並木か、「三八会」の記念樹のいずれかの可能性が高い。
いずれにしても、国立の「イチョウなし」は昭和5年から6年の間に解消したとみてよいだろう。イチョウの植樹は戦後まで続き、いまではキャンパスのどこに立ってもイチョウの樹影が見られるほどになった。
わずか80年前のことが分からないのは何とも情けないが、昭和9年の本科卒業アルバムには、2列に交互に植えられたイチョウ並木の写真が載っている。鮮明な写真ではないが、東側の緑地帯には、赤松以外の樹木はないようである。
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右側の公園道にイチョウ並木が見える (昭和9年の本科卒業アルバムより) |
すでに紹介したように、一ツ橋大通りの緑地帯にイチョウを植える計画は、大正14年秋に箱根土地が商大関係者に送ったダイレクトメールに登場する。
これ(一ツ橋大通り:筆者注)は商大提案の理想道路で廿四間のうち中央十間が本道、左右五間づゝが天然生の赤松やプラタナス銀杏野萩等を植え込んだ公園道となり、更に左右二間づゝ(学校前は五間づゝ)がアスファルトの歩道となるのであります。
先のコラムで「一ツ橋大通りは歩道のほ装は完成してゐる」とあるは、この「アスファルトの歩道」だろう。そして現在の緑地帯は、開発の当初は「公園道」にする計画だった。佐野学長の指図で2列に植えられた贅沢なイチョウ並木は「公園道」の並木なのかも知れない。
「佐野学長は、キャンパス内の植栽だけでなく、一ツ橋大通りの公園道づくりも指揮した」と書くと奇異に感ずるかも知れないが、一ツ橋大通りが「商大提案の理想道路」であってみれば驚くにはあたらないだろう。ここにも、国立大学町誕生の秘密を解く鍵があるように思うが、残った東側の公園道はどう仕立てる考えだったのか、佐野学長にきけないのが残念だ。
2列のイチョウ並木のうちの1列は東側に移植されるが、仮に2列のままで今日の大きさに成長していれば、国立駅を降り立つと大学のシンボルが出迎え、シンボルの間を抜けて一ツ橋大通りを進むと大学の正門に至るのだから、「商大の大学町」を印象づけるユニークな仕掛けになっていたはずだ。そしておそらくは、西側だけではバランスが悪いから、東側にも、卒業生の手でイチョウが植えられたのではないか、と想像する。
一ツ橋大通りの植栽にも大学の力が及んでいたことを目の当たりにすると、移転当時と現在とでは、キャンパスの内と外との関係が全く違うことに驚かされる。
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さて、イチョウはしばらくおいて、話題を一ツ橋大通りの桜にかえよう。
この桜は今上天皇の誕生を記念して植えられた、と伝えられているが、実際にはそれほど単純な話ではない。
移転後の大学町はなかなか人家が増えなかった。ようやく増えはじめるのは空襲が激しくなった戦争末期で、本格的に増えるのは戦後の文教地区指定運動の頃だ。それでも、戦後の昭和26年に出た創立75周年記念アルバム『Hitotsubashi in Pictures』には、キャンパスの西南方向は都立五商の校舎がポツンとあるだけで、あとは一面の畑、という写真が載っている。
「大学町には商大の先生や学生がドッと越してきて、あっという間に立派な街になる」と箱根土地は宣伝した。これを信じて越してきた住民や商人は、すっかりアテが外れた。並外れた未開ぶりは、とくに商人には深刻な打撃で、街おこしのあの手この手が浮かんでは消えた。昭和6年9月5日の『一橋新聞』には、住民組織「国立会」の会長の談話として、
学生さんにはまづなんといつても慰安がなければと考へて奇麗なカフエーでも造り
たいとも計画してゐるのですが
と学生吸引策の奥の手をだしたがつてはゐるが
学校や箱根土地の方で学園都市の清浄を守りたいといふ意向に反するわけにも行か
ぬので…
という記事が載っている。「学園都市の清浄を守」ることは、大学が箱根土地に求めた最重要の遵守事項で、それを障害と感ずる住民がいたことを裏付ける。
また昭和6年11月の『一橋新聞』には、国立会が、籠城事件支援募金の残金で万国旗を購入して専門部運動会当日に駅前を飾り、今後も各種の催しの際に駅前を賑わすだろう、という記事がある。
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『Hitotsubashi in Pictures』1951年より |
そして昭和8年6月12日の『一橋新聞』は、町の発展策として、貸地紹介と桜並木が話題に上ったことを報じている。
本科移転以来すでに三年を閲した国立も一向にめざましい発展をしないので町会では
塚本町会長以下役員及び本学々生有志もよりより協議したところ九月は
本科移転三周
年と予科小平移転の記念にあたるので、
さしあたり一橋(ひとつばし)大通り駅前から
四百間の道路の両側に山桜の一種で上品な赤目桜約百本植ることになり、
小金井の花見客を吸収しようとする遠大な理想(?)を抱いてゐる、
なほ現在卒業生の寄附による銀杏は桜と二列に植かへることにしたので
遠からず春と秋の学園を飾る国立名物とならう
「小金井の花見客」とは、玉川上水沿いの桜の見物客をさしている。武蔵境から小平分校あたりまでの玉川上水沿いは江戸時代からの桜の名所で、「小金井桜」として名をはせた。現在は「名勝 小金井桜」として国指定文化財になっている。
武蔵小金井駅がなかった関東大震災前までは、花見客は境か国分寺で下車して、玉川上水に向かった。震災後になって武蔵小金井駅ができたが、最初は花見シーズンだけ営業する臨時駅だった。それが住民の運動で常設になったのは、大正15年のことだ。この当時の桜には、駅を作らせるほどの集客力があったのである。その小金井桜にあやかろうというわけだ。
町の発展策として、桜並木をつくる。そのために2列のイチョウの1列を東側に移植する。今上天皇の誕生は昭和9年12月、発展策の桜並木はその1年半以上前だから、もちろん誕生奉祝が目的ではなかった。
だが、赤目桜案は地質が不適ということで流れ、正式な決定をみたのは昭和9年1月28日の国立会役員会だった。「皇太子殿下御誕生奉祝記念事業として町民の赤誠こめた寄附金三百円で一橋大通りに桜並木を植えることに」決まった。
『一橋新聞』はこの決定を、「本科側の公孫樹並木一列を専門部側に移植し桜並木は本科側と専門部側に各一列づゝ植えるので実現の暁は公孫樹と桜と相まつて春秋共に美観を呈す事になり学園都市美化の上にこの上ない計画で鉄道省あたりのポスターに「お花見は国立で」の文句の出るのも間もない事であらう」と報じているが、イチョウと大学との関係は意識の外にあるようにも読める。
こうして、昭和9年から10年にかけてイチョウの移植と桜の植樹が行われ、大学の樹と市民の樹が交互に植えられた現在の通りが出現する。厳密にいえば、公園道の歩道側は大学の樹、車道側は市民の樹で、交互ではなく、2列になっているが、神宮外苑のような立派なイチョウ並木に育つ可能性はなくなり、「商大の大学町」の象徴も消えた。
増田四郎先生の回想に、「図書館が出来、学部が昭和五年に移転して、研究室と時計台に明るい灯がついた時の感激とうれしさとは、いまもなお忘れることが出来ない。吾々の背丈ほどの大きさであった大通の銀杏の並木や図書館前のヒマラヤ杉は、いま亭々とすこやかに繁りそびえている」(『Hitotsubashi in Pictures』)と、桜が登場しないのも納得がいく。一橋新聞子とは対照的である。
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福田徳三先生と並び称され、全一橋人の注目を集めた本学の象徴ザ・イチョウの記憶は、ザ・イチョウとともに学園生活を送った一ツ橋ッ子の間で生き続けた。
『如水会々報』昭和11年1月号からは、それまでの欄名が変更になり、「支部通信」は「国の内外」、「種々のミーティング」は「淡交如水」、そして「クラス会便り」は「公孫樹下」と改められている。
戦後の創立75周年記念アルバム『Hitotsubashi in Pictures』には、マーキュリーの校章とイチョウの葉の写真が載せられている。また75周年記念事業で作られた「一橋の歌(武蔵野深き)」の作詞者は「銀杏会同人」となっている。
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『Hitotsubashi in Pictures』1951年より |
さらに、植樹会誕生のきっかけをつくった増田四郎先生の学長時代には、パイオニア会の寄付でイチョウ20本が植えられた。
昭和四十一年十一月三日に第二回の国立パイオニア会が同じ兼松講堂前庭で開催せられ来賓として藤本、井藤両先生、昭和三、四、五年と各年度から五十六名、家族十二名参加という盛会であったが、当日渡辺和君の提案で帽子をまわして母校に銀杏の植樹基金の寄付金が集められ、これが基本となって当時の学長増田四郎君の計らいで大学正門のメインストリート両側に二十本の銀杏の苗木が植樹された。(『国立・あの頃』より)
昭和41年は、キャンパスの赤松が次々に枯れていた頃である。パイオニア会にとっては、昭三専養会が、昭和13年に卒業10周年を記念して各クラス1本ずつ、計6本を植えたイチョウにつぐ2度目のイチョウの植樹だった。
増田四郎先生のイチョウに寄せる思いは、『国立・あの頃』に寄せた、先生の次の一文によく表れている。
まったくの田舎から、西も東もわからぬ東京へ出て来て、大震災の傷跡もなまなましい神田のバラックの校舎に学んだころ、やはり一番印象に残っているのは、あの何本かの大きな公孫樹である。太い枝の多くは焼けただれて、一部は木炭のように真黒になっていたが、その半死の幹から無数のひこばえがはえて来たのをみて、この木の生命力の不屈さと強靱さといったものを痛感した。梧桐の並木もバラックの窓辺に植えられていた。またあのなつかしい図書館周辺の瓦礫のまじった黒い土は、春になると一面のクローバで蔽われ、そこに寝そべって大都会の上空をゆく白い雲の流れを見つめながら、来し方、行く末に若々しい想いをめぐらしていたことを思い出す。こんなわけで私は、先年一ツ橋講堂前の公孫樹の実とクローバの一株を持ち帰り、自宅の庭にそれを育てて、毎日ひとり悦に入っている。他人からみれば、何の価値もないものであろうが、私には実生の公孫樹とあそこのクローバの子孫とは、何ものにもかえ難い宝ものなのである。
一橋講堂前には、ザ・イチョウと大正七年会が図書館前から移植した卒業記念のイチョウがあった。増田先生がご自宅の庭に植えられたのは、どちらの子孫だろうか。ザ・イチョウの雌雄とも関係するから興味を引かれるが、これも宿題である。
「大学の象徴・イチョウ」という観念は結局、国立に「移転」させることができず、公孫樹下で青春を過ごした世代とともに消えたようにも思える。公孫樹下世代の先輩方が、年の瀬に「聖樹」に仕立てられた聖樹の末裔を見たら、どのような思いを抱くだろうか。そう考えると、複雑な思いに駆られる。
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最後に、別館の東側にできた「貿易植物園」について触れておきたい。
別館は、国立の本建築の建物群の中では最後の建物で、昭和7年に竣工した。本科の理化学実験室や商品陳列室など、商品学関係の特別教室や実験室などを収容した建物であった。その東側、現在のテニスコートのあたりに、商品学の付属施設として「貿易植物園」は作られた。面積100坪ほどだから、テニスコート一面(約78坪)よりやや広い。神田の狭いキャンパスでは望めなかった、国立ならではの施設である。
『一橋新聞』によれば、この100坪ほどの敷地に、林業試験場から購入した貿易植物の苗木51種249本を植えた。100坪に249本はまるで花壇で、樹木の植え方とは思えない。驚くばかりの密植である。
樹種は「コナラ、クリ、ブナ、カツラ、ハリギリ、ヤチダモ、シラカシ、ケヤキ、ホヽノキ、トチノキ、ヒバ、カラマツ、モミ、シラベ、コリヤナギ、アベマキ、ヌルデ、ウルシ、ハゼ、ミツマタ、クスノキ、杉、ヒノキ、サハラ、カヤ、コノテガシワ、オニグルミ、ウバメガシ、タウヒ、ネズコ、イヌマキ、アカエゾ松、赤トヾ松、青トヾ松、ビヤクシン、アララギ、ツガ、セカイヤセンペルビレンス、印度杉、鉛筆ビヤクシン、アカガシ、カウエウザン、イタジヒ、オレゴンパイン、欧州唐檜、欧州赤松、ツヤギガンテヤ、カナダツガ、落羽松(以上各五本)、イチヰガシ(一本)、ローソンヒノキ(三本)」と『一橋新聞』に出ている(昭和7年4月30日付)。
これだけの樹木を植えた植物園の顛末が気になるが、あるいはキャンパスのあちこちに移植でもしたのだろうか。植樹会活動の中で発見があるかも知れない。
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現在の国立キャンパスは豊かな緑に恵まれている。その緑は四季折々に姿を変えて、訪れる者を楽しませてくれる。その美しさは、ロマネスクの建物群と相まって、はるか海外から訪れた研究者や留学生をも魅了している。国際的にも、優れたキャンパスのひとつではないかと思う。
けれども、ここにキャンパスがひらかれる前は、赤松のまじった一面の雑木林だった。その赤松を残し、雑木を払ってキャンパスがひらかれた。現在では、武蔵野の雑木林はキャンパスのごく一部にその名残をとどめるばかりになり、今では保存が課題になっている。つまり、キャンパスがひらかれる前からの樹木は数えるほどしか残っていないのである。
ともすると、この豊かな緑は元からあった自然の賜物のように錯覚することがある。それほど見事に、豊かに茂って、訪れる者を癒し、憩わせ、楽しませてくれる。けれども、この数知れない緑のほとんどは、誰かが植えたものなのである。それはちょうど明治神宮の森と好一対、諸先輩たちの母校への思いがこの誇るべきキャンパスを生み出し、私たちは今、その恩恵に浴している。造園に造詣が深かったと伝えられる佐野学長の存在は、もとより大きかったに違いない。
大学通りに面した椿の垣とその奥の亜高木と高木の林、昭和6年にできた瓢箪池と哲学の道、あるいは池の奥の檜や杉の林。数え上げるだけで気が遠くなるが、赤松を除けば、これはほとんどすべて、人の手で植えられたものだ。
移転して80年が経過した。この間に淘汰や遷移も進んでいる。植えたけれども姿を消した樹木もあるだろう。それにしても、これだけの樹木を、いつ、誰が、なぜ植えたのか。あるいはどのようなイメージで植えたのか。謎は深まるばかりだ。
昭和5年の佐野学長の呼びかけにこたえて、各年度のクラス会が募金を集めた。その募金で記念樹を寄付した会もあったが、募金をそっくり大学に寄付した会もあった。現在のキャンパスの緑の骨格は、母校に寄せられたこの募金で誕生したのではないかと思う。
諸先輩と当時の教職員の思いを、遺産の樹木を通して後世に伝えたい。それも植樹会の仕事のひとつだ。その責任の重さと大切さに思いを新たにして、筆を擱くことにする。 |