島崎 隆 (元一橋大学社会学研究科)
如意団とは何か?―新入生へのいざない
新入生の皆さん、まずは入学おめでとう。多かれ少なかれ、皆さんの胸は、大学への期待に高鳴っているに違いない。「まずは」と付けたのは、やはり入学した
ことですべてが終わりというわけではなく、(最低)この四年でなにを経験し、なにを得てこの大学を去るのかがもっとはるかに重要な問題であるからだ。オリ
ンピックならば、参加することに意義があるとかいうのかもしれないが、大学は入学することに意義があると簡単にはいえないと思う。なにか自分でしっかりし
た目標なり、行動計画を決めて実践しないかぎり、フワフワとワタアメのような大学生活を終わるだけになりかねない。
さて、このサークルは『如意団』という。これは実は座禅をやるための集まりだ。いやとにかく、座禅なんて古臭いものは御免こうむる、精神修養のようなも
のはちょっと苦手だな・・・・という人は、まあ、少し話を聞いて欲しい。ぼくの専門は哲学であるので、いい加減なことをいいたくないが、現代哲学の世界で
も、いまや東洋思想はもっともナウいものであり、現代の多くの哲学者は東洋的なものに注目している。そしてその中の中心は禅仏教といわれるものだ。たまた
まぼくはウィーンの小さな本屋をのぞいたら、ショーウィンドウに座禅の本がシリーズで五巻飾ってあったのでびっくりしたことがあった。そしてつい最近、ド
イツ哲学者の講演を聞いたのだが、そこではヨーロッパ哲学の総括がなされていた。その結論がどうなるのかと聞いていると、限界に来ている欧米思想は、いま
や「東洋の知恵」に学ばなければならないという結論で終わっていて、びっくりした。そしてその中心が、禅なのです。現代哲学の代表者といえば、ハイデガー
だろうが、彼もまた、仏教や禅に大きな関心を寄せている。また現代哲学の旗手ともみなされているウィトゲンシュタインにかんしては、彼の思想が、禅とまっ
たくそっくりであるという本も出ているくらいだ。
それでも君は、「でもそれって宗教でしょ。なんかオウムとも近いんじゃない?」とか躊躇するかもしれない。でも如意団は、宗教団体ではない。ぼくの解釈
では、この組織は、一種の心身覚醒の方法を身につけることを目的とする。いま世の中は「癒し系」とかいわれて、疲れている現代人がなにか心を癒してくれる
もの、ヒーリングを求めている。そうした音楽があることは、君たちもご存知だろう。座禅もそういう系列に入るといってもさしつかえない。だからこの点で
も、座禅は新しいのだ。
座禅は単純な根性主義ではないと思うが、その実践重視の態度は、実社会に出てからも役に立つものと思う。結局人間にとって、いつでも自分をとらわれの無
い状況へと戻すことが重要だろう。それは自分を無にすることであり、それがかえってサラリーマン金太郎がもっているような、スケールの大きさを生むかもし
れない。日本人であるからには、その中心的な思想である座禅を体得して、世界に雄飛するのも悪くないのでは、と思う。もっとも、単純な愛国主義者になって
しまっては困るけれども。
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如意団とは何ぞや?
学生のクラブにおいて、如意団ほどわかりづらい組織はないように思われる。その「如意団」というその名称からし
てそうであるが、座禅をやる組織だといっても、学生からは「一体それって何? 宗教なの」と質問されてしまうかもしれない。大学にいて、学生諸君にどうわ
かりやすく、かつ魅力的にこのクラブを紹介できるだろうか。
このクラブは体育会系でもない。体や技術を鍛えるスポーツ系のものでもない。かといって、何かものごとを知的に研究する文科系のクラブでもない。如意団
の性格について、永井さんともときおりお話したことがあるが、氏は「自己修養クラブ」だろうといわれる。たしかに、座禅を通じて自己修養をおこなうクラブ
といえば、適切かもしれない。ある意味では、バンカラ系に属するという意味で、体や筋肉ではないが精神をともかく鍛えるという意味では、体育会系に近いだ
ろう。そして、老師などを通じて勉強会もやるから、文科系にも近いといえるかもしれない。
かつて私は、新入生への如意団の紹介のパンフレットには、「一種の身心覚醒の方法を身につける組織であり、けっして宗教団体ではない」ということを強調
した。そして実は如意団の目指すところは、現代の若者が関心をもち、おおいに心ひかれるものに共通するところがあると述べた。
現在、世の中で「心理主義」という立場が流行し、若者の心も捉えている。「心」の問題はいま、カウンセリング、ヒーリング、癒しへの関心とともに、大き
なテーマとなっている。現代人はストレス対策として、そしてとくに若者は自分探しに心の旅に出て、心理学などに興味をもつ。細木某、江原某などという心の
大家も大活躍である。「癒し系」などということばも使われ、その関連の多様な商品も出回る。その点では、心を静寂な空間で、見つめなおすということは、現
代人がおおいに求めざるをえないものであろう。その点では、かつてのオウム真理教に典型化されるように、危険で怪しげなところのある心理ブームからする
と、如意団のなかで座禅をして自分の心に無心に向き合うということは、安全なものである。ということで、如意団における座禅の体験こそ、わかりやすくいえ
ば、まさに現代人が求めるものに、一見そう見えるよりははるかに近いのではないか。
その点では、私は哲学の立場から、多文化主義や国際文化哲学(intercultural
philosophy)という分野を研究してきたが、これは欧米の近現代の文化にたいして、そこで発生したヨーロッパ中心主義を批判する立場を取る。その
点では、欧米では、座禅などに強い興味をもっている人たちもいるのだ。彼らは東洋の仏教や禅に(さらにヨーガや気功などにも)、欧米文明の閉塞状況からの
脱出の道を求めている。したがって、現代の日本人の教養として、座禅などを実践的かつ理論的に習得することは必要かつ有益なことだろう。欧米人から仏教や
禅などについて聞かれたときに、ある程度答えられればそれはいいことである。「何もしないで座っていて何がいいのか、この忙しい世の中に」という声もない
わけではない。その意味で、「如意団って何? 禅をすると何がいいの?」という学生諸君の素朴な質問にーーさらにまた、欧米人からもそう聞かれることが
ないわけでもないがーーどうしたらわかりやすく答えられるのか、考える必要があるだろうと思っているところである。
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ウィトゲンシュタインの哲学と禅仏教
私が関心をもってきた哲学者に、一九世紀のウィーン世紀末に活躍したルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインという人がいる。数々の奇行と逸話で知られてい
るが、三人の兄がすべて自殺をして果て、自分もつねに自殺念慮をもっていたという。彼は言語批判の哲学者として知られ、現代哲学の旗手とされてきた。とこ
ろで、黒崎宏『ウィトゲンシュタインと禅』(哲学書房)では、この哲学者の主張と禅仏教のそれとがまったく瓜二つであると主張されている。黒崎氏の主張は
かなり独自のものであり、私の論文でも取り上げたことがある。彼はまた、道元の言語観もウィトゲンシュタインのそれと一致するとさえ主張する。
ウィトゲンシュタインの前期の主著『論理哲学論考』は、「あらゆる哲学は『言語批判』である」と述べ、曖昧な思想を清明にして、語りうるものだけを語る
ことを目指すべきだという。また後期の主著『哲学探究』でも、「哲学とは、言語によってわれわれの知性が呪縛されていることにたいする闘いである」とし
て、同じ言語批判の姿勢を継続する。ウィトゲンシュタインによれば、哲学的混乱に陥っている人は、ドアが開いているのに無理やり窓から出る人と同じだとい
う。黒崎によれば、主人公は飛んできた蜂であるが、禅にもまったく同じ話があるという。ウィトゲンシュタインはまた、哲学的思弁を弄する人に向かって、そ
こに言語的混乱を見抜き、「考えるな、見よ!」という。禅にも「思考することをやめて見よ」という思想があり、言語が世俗社会の約束ごとの反映であるかぎ
り、それに依拠して考えることが正しく見ることの妨げになりかねないとされる。
こうして禅は、言語によるあらゆる概念構築を排し、事物をあるがままに見ようとする。「道はどこにあるのか」の問いに、禅は「只在目前」と答える。言語
を使って、何か遠い世界のことを考える必要はない。ウィトゲンシュタインも、「哲学はすべてのものをまさに眼前におくだけである。そして〔本来の〕哲学は
何ものも説明せず、何者も推論しない。なぜならすべてのものは隠れることなく存在し、そこには説明すべきものは何もないからである」と指摘する。ある意味
で、こうしたウィトゲンシュタインの思想は、従来の言語と概念による体系構築のなかに壮大な真理が潜んでいるはずだという、西洋哲学の偏見に真っ向から対
立し、おのずと非欧米の思想に向かっている。
『哲学的考察』の序文で彼は、欧米の精神と異なり、自分が依拠する方向性は、構造の明確な洞察にあるという。最後に黒崎の述べることを聞こう。「このよ
うな〔ウィトゲンシュタインの〕哲学観
哲学は『理論』ではなく、ハエにハエ取り壺から脱出する道、解脱する道、を示してやる『活動』であり、『戦い』である
においては、哲学というものは全く禅的な営為である、と言えるのではないでしょうか。」とはいえ、ウィトゲンシュタイン自身は禅については、何も知らな
かったようである。いずれにせよ、もっとも現代的とされるウィトゲンシュタインの哲学が、おのずと禅仏教の発想に、内容上接近していったということは興味
深い事実で、禅仏教のなかに、現代人が求める共通の思想が潜んでいるということの証左なのかもしれない。
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