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[小林 悦生 君 寄稿文] | |||||
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続亦楽 この人を見よ(6)
小林 悦生 君
5月19日が小林君の命日です。平成九年(1997年)京都議定書が作られた年でした。
小林君の愛称はエツでした。予科に入学したはじめから、エツ、イチゾウ(井上一造君)とヤマタン(山崎坦)の三人は何時でも一緒におりました。
右から 井上一造 小林悦生 山崎坦 山本恒太郎(6組) 菅谷寛一 |
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中学校で禁じられていた映画鑑賞の束縛から解放されて、封切られる映画という映画を総てと言ってもいいほどに連れ立って見に行きました。大学の映画研究会にも入りました。
確か昭和12年(1937)12月12日。計算すると予科2年です。ようやく二十歳になろうかとしていました。
大船の松竹撮影所の撮影現場を見学しました。
その時の一齣を覚えています。
主役は夏川大二郎(夏川静枝の息子)、女優は桑野通子、監督は渋谷実だったと思います。
女が男とのやり取りで、思わせぶりにピアノの不協和音を打つ、それだけの場面でした。
映画は一齣ずつ造るのですね。
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映画「未完成交響楽」(シューベルトの悲恋物語)、と「会議は踊る」(ウィーン会議をめぐるロシヤ・アレクサンダー3世の悲恋・音楽映画)が二本立てで、ギャラプレヴューと歌われ、帝劇で封切られました。
貴族になったような気持ちで帝劇の赤絨毯の敷かれた階段を上がって見に行った記憶があります。
シューベルトの音楽や、ドイツのリードが20歳の少年達の心に、悲恋物語と共に、深い感動を与えました。
当時は音楽映画が多くて、映画「別れの曲」でショパンに、「オーケストラの少女」では、チャイコフスキー(悲愴)や リスト(ハンガリア舞曲)、バッハ(トッカータとフーゲ)、椿姫などの名曲を知りました。
小林君は幼児からバイオリンをやっていましたから、大学の音楽部でオーケストラとコーラスに所属していました。
私も音楽は好きでしたからコーラスに参加しました。
現在のN響、当時は日本交響楽団、当時は楽団は他にはなかったのではないでしょうか、演奏会場も日比谷公会堂だけだったと思います。
当時は5月5日公演でした。ローゼンシュトック指揮のベートーヴェンの第九のコーラスに参加して鳥肌だった経験があります。国立音校のメンバーに入れていただいたのでした。
予科入学後、じきに、クラスチャン、クラス対抗スポーツ大会が催されました。
文武両道といわれた時代です。文系体育系併せ持つように指導されたのでしょう。
私たちは多くの競技に参加して勝利に努力しました。スポーツマンだったといえましょう。
小林君は総てに器用で、各種に参加していました。
ボートもこいでいて、明るいお姉さんの応援が印象的でした。この記事の上につけた「アルバム」を見てください。
小林君は野球部に所属、同好の仲間は、バスケット部の高橋勝君を中心に、よくバスケをプレーしました。
暑中休暇には軽井沢にこもって上記3人に東大の大塚さんのバスが加わってコーラスに明け暮れました。あるいは
高原アパートの余興に劇を演じたりしました。このことは(3)の井上君の項に詳述しました。
冬休みには山スキーに出かけ、野沢、志賀高原、熊の湯、など方々にツアーしました。
そんな事をしている内に戦運は急を告げ、同期生は全員徴兵延期が停止されました。
昭和17年3月卒業予定のところ昭和16年12月卒業となりました。
私共が繰り上げ卒業の最初で最初に出征させられた学生なのですが、
戦況不利になり始めた昭和十八年の卒業生が学徒出陣と歌われて華々しく兵役に服したと報道されています。
卒業前に卒業後の就職が決まりました。悦生君は三菱商事の水産部でした。
昭和17年の1月の1ヶ月だけの会社勤務で入営しました。
小林君は初年兵として歩兵第三連隊に入隊したと思いますが、やがて甲種幹部候補生として前橋陸軍予備士官学校で将校教育を受けました。
昭和18年には大陸経由でビルマに送られました。奇しくも次の席次のクラスメート小池真登君も隣の隊でビルマえ出征したのです。彼等の輸送途中の支那大陸で私はすれ違う彼等と会っています。
ビルマの戦況は悲惨でした。小池君は戦死しました。
小林君は辛酸をなめて帰還、復員できたのです。25人に一人の割りで生還できたのです。
昭和21年でした。
三菱商事水産部で小林君の海外勤務地は(アメリカ)サモワから始まったようです。
サマセットモームに「雨」という小説がありますが、この島を舞台としています。
しかし小説の話とは違って、土着の人は食うに困らない楽園という話でした。
マグロの缶詰工場があって、日本の漁船の取ってきたマグロを集荷していたのです。
中米のグアテマラなどの勤務を経て米国三菱のロスアンジェルス支店にいました。
卒業30周年記念文集に「舞踏会の手帖」山崎坦(クリック)
イタリヤ三菱の社長となりミラノ在勤となった悦生君を訪問したときの思い出です。
その後、三菱商事本店に帰ってからアジア監督をやり、リビー・ジャパンを見たりしたようですが、その後は悠々自適、ゴルフ三昧の生活に入りました。
クラスメイト・亦楽会のメンバーとも度々ゴルフを楽しみました。
大洗、箱根、宮崎フェニックス、桜ヶ丘、長竹、小金井、茅ヶ崎と数えだすと切りもなく懐かしい思い出が出てきます。
十二月クラブのゴルフ会では夫人ともども度々入賞しています。
十二月クラブの海外旅行ではカナダのヴァンフでもプレイしたそうです。
ミラノ時代には国境を越えてわけなくスイスのゴルフ場え度々プレイに出かけたそうです。
アルプス(クリック)
晩年は長竹をホームコースとして夏は河口湖の冨士桜、冬は千葉鴨川で、
またハワイやバリ島えもでかけました。バリ島はお気に入りで再訪しています。
海外勤務が長かったから、どうしても脂肪分の摂取が多すぎたようです。
あまつさえ、てんぷらなどが好きで、自分でもてんぷら調理を試みて、連日てんぷらを試食した、などといっていましたから、身体に良いことではなかったと思います。糖尿病だったことも、減量で克服したと言っていましたが、脳梗塞で倒れ、検査の結果、頚動脈にコレステロールが詰まっているということで、頚動脈をお掃除するという極めて危険な
手術をすることになったのです。手術当日の朝、彼からこれから手術を受けるという電話がありました。
手術は、途中続行すべきか中止すべきかの難しい局面になりましたが、義兄の医師の助言で、アメリカ帰りの熟練の脳外科医が手術を成功させました。けれども頚部を通っている多数の神経にふれて、食物の嚥下が出来ないとか、言語障害が出るということがありました。人間の身体は良く出来ているもので、それらの障害も徐々に除かれていったと話していました。それでも多少神経が病んでいたのではないかと思いました。
亦楽会は5組だから、以前から毎月5の日に如水会館一橋クラブに集合ということになっていた。
昭和10年卒業の先輩方ともよく同じ日にお会いすることがあった。
はじめは十数人だったメンバーも逐次減少、一橋に行くのが大変になった。地下鉄から息を切らせて上がってくる人は誰かと思えば君だった、という具合です。
「今年(2007)1月3日 亦楽 5組 山崎 坦 」を見てください。
「近況報告」の亦楽会を見てください。一橋から吉祥寺に集合場所が変わってから、はじめは7/8人だったメンバーがいまでは3人です。
平成9年3月21日(金)例の通り吉祥寺集合。
家内から会場に電話があって小林君が吉祥寺に向かう途中に歩けなくなったから行かれないとのこと。
最初に見てもらった女医さんは心筋梗塞だから一刻を争って入院せねばならぬとのことで、
翌日病院に見舞ったときが最後でした。普通に話が出来たのですが。
検査の結果冠動脈3本総て閉塞、バルーン治療も出来ず、切開手術バイパスの方法も、総ての血管が閉塞しているということで、敵わず。
5月19日永眠されました。本人は死ぬとは思っていなかったでしょうとは夫人の言われたことです。
小林悦生君の一生はその名の通り人生を楽しんだというのが衆目の一致した意見です。
広い天国で皆で一緒に思いっきりのびのびとゴルフをしたいと思います。