第2部 地域開発とは

最終更新日:1999年12月19日


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第6章 全総の総括

1. 日本経済と全国総合開発計画

一全総が決定されたのは、1962(昭和37)年のことであった。この当時日本は岩戸景気の頃であり、設備投資を中軸にした大型景気が続き、積極的な財政・金融政策がこれを強く促進した。その中で一全総では、新産業都市や工業整備特別地域の制定が行われ太平洋ベルト地帯以外の地域での工業化が進められていった。

1969(昭和44)年の新全総では全国的な交通・通信網などのインフラ基盤の整備を目指した。交通網に関しては1964(昭和39)年に開通した東海道新幹線の成功を強く反映したものとなっている。札幌−東京−福岡間2,000kmを結ぶ新幹線の計画が明記されたほか、全国7,200kmに及ぶ新幹線ネットワークの構想が盛り込まれた。これが整備新幹線の原型となった。

新全総までの時代には、日本は高度経済成長のまっただ中にあり、総合開発計画も欧米に追いつくことを目指し、産業基盤や交通・通信基盤の整備を促進したものとして大きな役割を果たした。しかし石油危機以降、高度経済成長が終わり低成長期に入ると、公害問題や、過疎過密問題が露呈してくる。また、1974(昭和49)年に国土庁が発足してから建設省・運輸省・農水省などの官庁の高速道路・新幹線・空港・港湾・治山・治水などの五ヶ年計画が重視されるようになり、全総の主導性が弱まった。従って三全総は総合開発計画のターニングポイントととらえることが可能である。

三全総は高度経済成長期に発生した諸問題を配慮したものとなった。過疎化による地方の荒廃は深刻となっており、地方振興を盛り込んだ定住圏構想を打ち出している。

四全総は世界都市東京の再構築と他の二大都市圏や札幌・仙台・広島・福岡など地方中枢都市の都市機能強化を核とする多極分散型国土の形成を看板としている。また、四全総は成立が1987(昭和62)年と、バブル期にさしかかっていたためか再び大型公共投資が目立つ。

そして、1998(平成10)年3月の閣議で新しい全国総合開発計画(五全総)が正式決定した。五全総は、急速に進んでいる国際化、情報化、高齢化や、環境問題の深刻化、あるいは長期の構造不況という時代背景のなかで登場した。そのもとで太平洋ベルト地帯以外の地域を、新しい国土軸と位置づけ、ここでの都市機能の整備と自然の保全・回復に力点を置いている。

2. 全総の成果

全総では、これまで一貫して太平洋ベルト地帯と、その他の地域の格差を縮小しようとする試みがされてきた。一全総では、新産業都市の整備による、非ベルト地帯の重工業の推進が行われ、新全総では太平洋ベルト地帯に優先的に建設されていた新幹線や高速道路のネットワークを、全国に広める構想が打ち出された。三全総の「定住圏構想」も全国土の利用の均一を目指しており、四全総の「多極分散」は文字通りの意味であり、五全総は太平洋ベルト地帯を含む「西日本国土軸」のほかに4つの国土軸を設定し、「多軸型」国土の形成を目指している。

しかしながら、地方と東海道・山陽地区の格差は縮まっていないのが現状である。その理由として、一つには石油危機により、新全総以前の大規模プロジェクトそのものが挫折したことがあげられる。また、産業構造の変化により、石油化学コンビナートに代表される重厚長大型の産業から半導体のような付加価値型の産業が主流となり、地方に新しくできたコンビナートがうまくいっていないといった現実もある。

そこで、交通の面での格差を埋め、人やモノの活発な交流を起こし、産業の活性化を図ろうとする動きが地方から出てくる。このようにして、高速交通網は「多極分散」型国家(四全総)の形成には不可欠である、あるいは五全総の各国土軸の構想には必要であるというような意見が「地方の論理」として出てくるのである。

3.全総と整備新幹線

新幹線と総合開発計画が深く関わってくるのは新全総からのことである。東海道新幹線は建設時の予想をはるかに超える旅客誘致を起こし、大成功となった。この成功をきっかけに各地方で新幹線建設の気運が盛り上がり、新全総に反映された。そして新全総の構想を受けて1970(昭和45)年に全国新幹線整備法が制定され、東北・上越新幹線をはじめとする新幹線ネットワークの建設の第一歩が踏み出された。このうち東北新幹線(東京−盛岡間)上越新幹線(東京−新潟間)の建設が1972(昭和47)年に始まる。翌年には北海道新幹線、東北新幹線(盛岡−青森間)、北陸新幹線、九州新幹線鹿児島ルート、九州新幹線長崎ルートの5線の整備計画が決定する。しかし石油危機や国鉄の財政悪化の影響で着工は見送られた。

三全総では整備5線について国鉄の財政、経済社会情勢の推移を見極め順次建設することが記されたが、国鉄財政はさらに悪化し、1982(昭和57)年には建設を凍結した。国鉄改革のめどがついたことにより1987(昭和62)年に建設凍結が解除され同年の四全総では、国鉄改革の主旨をも考慮して逐次建設に着手すると記された。

そして、表2-6-1に示したとおり、各線区で建設が始まり、北陸新幹線(高崎−長野間、通称長野新幹線)が現在までに開通している。

以上のように全国総合開発計画は日本の経済成長に、少なからず影響を与えてきた。しかし、経済・社会情勢の変化についていけず、挫折してしまった計画も多い。社会の構造の変化がますます急激になっている今日では、長期的視野に立って将来を予測するのは不可能であろう。

また、地方と中央の意見の食い違いも目立つ。近年は、中央が環境への配慮を主張しているのに対し、地方では道路網整備や整備新幹線建設など開発重視の意見が根強い。

このように様々な問題を抱え、一部マスコミで「全総不要論」が出てくるなど、全総は今後大幅な見直しを迫られるかもしれない。


表2-6-1 新幹線関連年表(「鉄道ジャーナル」1995年8月号をもとに作成)
1959年 東海道新幹線着工
1962年 一全総
1964年 東海道新幹線開通
1967年 山陽新幹線(新大阪−岡山間)着工
1969年 新全総
1970年 全国新幹線整備法制定
山陽新幹線(岡山−博多間)着工
1972年 山陽新幹線岡山開業
東北・上越新幹線着工
1973年 第一次石油危機
5整備新幹線の整備計画決定
1975年 山陽新幹線博多開業
1977年 三全総
1979年 第二次石油危機
1982年 東北新幹線大宮開業
上越新幹線大宮開業
整備新幹線建設を凍結
1985年 東北新幹線上野開業
1987年 四全総
国鉄分割民営化
建設凍結解除
1988年 整備新幹線建設促進委員会を設置
1989年 北陸新幹線(高崎−軽井沢間)着工
1991年 東北新幹線東京開業
東北新幹線(盛岡−青森間)、九州新幹線(八代−西鹿児島間)、北陸新幹線(軽井沢−長野間)着工 
1992年 北陸新幹線(石動−金沢間)着工
1993年 北陸新幹線(糸魚川−魚津間)着工
1997年 北陸新幹線(高崎−長野間)開通
1998年 五全総

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