第3部 合理性と公共性のバランス


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合理性と公共性のバランス

鉄道会社の「合理化」の究極は路線の廃止である。 これは主に地方民鉄で行われているが、周囲に大きな影響をもたらし、「合理化」という言葉への反感を生む最大の要因となっている。 一方、会社にとって赤字の削減が重要なのは当然のことである。 この対立は事業が赤字の時「合理性」と「公共性」が相反することによる。 この2つの問題を双方解決するには赤字でないことが必要条件となる。 つまり、鉄道会社全体が健全経営を行うための方策を実践しなければならない。 では可能性のある健全経営とはどのようなものなのだろうか。

1. 特性を理解している経営−大手民鉄の場合

鉄道事業の特性は2つある。 1つは先行投資が非常に大きいことである。 投資が大きければ利払いも大きい。 その点で鉄道は「高い」乗り物である。 もう1つはその割に鉄道事業自身は利潤が薄いということである。 鉄道事業自体は大手民鉄でさえ黒字を出すのは大変で、値上げしても数年でまた赤字になって値上げを申請するというサイクルをたどっている。 これは鉄道が労働集約産業の側面も持っていて、人件費上昇の影響を受けるためである。 鉄道輸送の特性は輸送密度の高さにあるから、人口も人口密度も大きい大都市で活躍する大手民鉄は、 鉄道の特性を生かして多くの収入を上げているように見えるが、実は採算が苦しい。 地方鉄道では状況は更に深刻である。

したがって、鉄道事業は関連事業を伴うのが普通である。 特に戦後の大手民鉄の場合、経営の柱は「開発利益の吸収」といわれるものであった。 具体的には、何もなかったところに鉄道を引くと同時に生活基盤を作り、沿線人口の増加を助けることで収益源を育てるというものである。 関連事業の黒字はこうして創出される。 当然鉄道がなければ人口も伸びないので、たとえ若干鉄道が赤字でも気にするべきではない。 見方によっては、鉄道の赤字は関連事業が収益をもたらす上での一費用に過ぎない、とも解釈できる。 大手民鉄の多くが自前で開発した住宅地を持っているが、それが一番の例である。 大手民鉄の成功の要点は、開発利益吸収の機会をいかに多く持つかということである。 この理論においては、鉄道会社の潜在能力は、将来有望と思われる未開発地がどれだけあるかにかかっているということである。

現在苦しんでいる地方鉄道はこの点で根本的問題を抱えていると言わざるを得ない。 一般に、私鉄の設立経緯は前述したような部分をまるで無視している。 東急や阪急のような一部の例外を除く多くの場合、私鉄は旅客もしくは貨物輸送の必要性から地方の主要都市と遠くの町村を結ぶ路線として作られた。 その目的は純粋に交通手段を確保することであり、それは社会的要請であった。 開発利益の概念が創業者の頭にあったかどうかは怪しい。 その状況を現在の大手民鉄が転換できたのは、戦後の大都市近郊の住宅需要の増大という、ある意味で外生的な事象が起こったからである。 このことは鉄道会社ならいずれどこでも豊かな開発利益を享受できるというわけではないということを指している。 大都市近郊ではないところの鉄道会社にとっては、沿線には大した開発利益は存在しなかった。 町村には町村の生活基盤がすでに確立されていて、鉄道開通による大規模開発や、外からの事業への新規参入もなかったのである。 したがって地方鉄道は鉄道事業偏重から抜けられず、戦後大都市近郊の民鉄が多角化に本格的に取り組み始めた時も、 地方鉄道はそのようなことを行う環境になかったのである。 その後モータリゼーションの進展と共に本業の鉄道事業は衰退し、それがそのまま組織の危機につながっている。 明らかに地方鉄道は大手民鉄と異なった経過をたどってきたのである。 このような状況下では、大手民鉄を経営のモデルケースとして地方鉄道経営の参考にしても意味がないであろう。

2. JRに見るローカル線の扱い方

地方民鉄と同じような構造を持つ組織として考えられるのがJRである。 もちろん高収益路線を持っていることは否定しない。 しかし関連事業の比率が大手民鉄に比べて低く、地方については路線を有効利用できていないという点では両者は共通している。 JRはローカル線をどうするのか。

そのJRは近い将来廃止手続きに関して国の許可が不要となる。 これにより特にJR西日本が前述のような現実を認識していると見えて、ローカル線の整理に前向きな態度を示している。 このうち本州3社は東証一部上場の企業である。 このことは本州3社が「優秀な大企業」であることを指し、収益構造改善の努力を継続することを期待されているということである。 故に国鉄と違いいかに組織全体が黒字でもローカル線の立場は不安定である。

JRも多角化戦略は重視している。 保有する土地は多く、駅構内の用途についても裁量権を持っているので、これらを使ってマンション・飲食店などの経営を本格化している。 国鉄解体・JRへの移行とは単なる経費削減効果だけではなく、 組織分割により鉄道事業の過度の負担を軽減する代わりに別事業への参入を促進し、収益源を複線化する効果もあったと考えられる。

しかし、ローカル線は多角化の恩恵には余り預かってない。 これらの路線の沿線での多角的経営は収益につながらないと考えられているからだろう。 JRが経営様式の青写真に大手民鉄を想定しているならば、彼らは各路線は関連事業の価値を上げるために存在していると解釈していることになる。 となれば、その意向にかなわない路線は「リストラ」するのが妥当な判断ということになる。

結局従来型の「多角的経営」では地方路線を救えないのである。 地方路線の存続につながる経営は大都市で進んでいる「多角化」とは別物であり、そのことについてはJR・民鉄の違いはないということである。 観光資源の存在など特別な要素を考えない原則においては、地方路線の存在はその路線自体が赤字でないことによってしか保証されないのである。 しかし大手民鉄でさえ大変な鉄道事業の赤字体質からの脱却を地方鉄道において達成できる可能性はあるのだろうか。

3. 地方交通に関する理想論とその現状

大手民鉄が鉄道事業で赤字を記録しているのは厳しい運賃規制によるものである。 鉄道は自然独占になりやすい。特に自前の住宅地を開発した大手民鉄の場合、そこの住民はその民鉄以外に交通手段がない。 企業がそれを利用して高い運賃が設定されれば住民は不利益を被る。 そこで運賃は上限が厳しく制限されている。 鉄道事業法の運賃・料金の認可基準は次の通りである。

  1. 能率的な経営の下における適正な原価を償い、かつ適正な利潤を含むものであること。
  2. 特定の旅客または荷主に対し、不当な差別的取扱をするものではないこと。
  3. 旅客または荷主が当該事業を利用することを困難にする恐れがないものであること。
  4. 他の鉄道運送事業者との間に不当な競争を引き起こすこととなる恐れがないものであること。

これにより、鉄道会社は「能率的経営」を行う義務と「適正な利潤」を得る権利を持つが、地方鉄道では必ずしもそうではない。 地方鉄道は利潤が得られないどころか会社によっては赤字の状態で、結局補助金が出ている。

それでは運賃規制を緩めれば良いのか、というとそうでもない。 鉄道の良い部分を引き出し、鉄道の利用を促進する必要がある。

鉄道が自動車に比べて優れている部分は確かに存在する。 鉄道のバス転換に際してしばしば反対の声が出るのはそのことの表われである。 その中で一番多く言われるのは定時性とスピードである。 日本の鉄道は、世界に類を見ないほど綿密なダイヤでかなり正確に運行されている。 バスは道路を走るため渋滞で遅れが出たり、逆にバス停に乗客がいなければ、予定より少し早くても通過してしまう。 またスピードに関しては、山岳地帯などを別にして一般には鉄道の方が速い。 鉄道は鉄道専用の軌道上を走行するため、信号待ちや渋滞を避けやすいのである。

安全性の高さや気象に対する強さも利点の一つである。 前述の通り鉄道は独自の軌道上を走行するため、歩行者や他の車で混み合う道路を走るバスよりも事故の確率が低い。 また自動車道に比べて気象にも強い。

さらに鉄道の大きな利点として、鉄道がまちづくりに関して大きなステータスとなることがある。 駅は単なる交通ターミナルではなく、商工業・住宅開発などまちづくりの中心となる。 バスはなかなかまちづくりの中心にはなりにくい。

しかし、これだけ利点が考えられるにもかかわらず、地方鉄道は青息吐息である。 確かに鉄道の維持費は大きいのだが、それとは別の問題として、企業側と利用者側の認識のズレがある。 企業は鉄道の利点を生かした分だけ利用者収入が増加することを考える一方、利用者にとってこれらの利点は重要ではあるが、 空気と同様、もともと当然のごとく備わっているものである。 これについてあらためて料金を支払うのは、鉄道をひとつのインフラと見た時に抵抗を感じる人の方が多いだろう。 実際、鉄道が定時性などで優れているからといって、その分多く料金を払うのが当然であるという向きには反対する人が多いはずである。 しかし収益が生まれなければ企業にとっては利点とは言えない。

この一連の展開で考えられることは、結局鉄道の最大の「利点」は他ならぬ運賃の安さであるということである。 したがって、赤字体質克服のためであっても運賃を値上げすることは意味がないのである。 しかし値上げをしないで会社を運営するのは、正に今の状態である。 この時点で、鉄道の利点を伸ばす形で企業の再生を図るという手法は、論理的にいきづまるのである。 加えてバスは路線の改廃がしやすいという部分が存在し、これが地元にとってバスの最大の「欠点」となっている側面も否定できない。 つまり、地方としては実は鉄道を愛すべき積極的要素は初めからなく、あるのは将来完全に交通体系から疎外されるのを防ぐという見方だけなのである。

このように、地方鉄道の自活の可否は、沿線の環境という外的要素に委ねられていて、 企業側の自助努力としては経費節減はできても、抜本的増収策についてはほぼお手上げである。 鉄道は環境にやさしいといった観念的な話は鉄道会社が一番よく知っているわけで、それでも鉄道が廃止の瀬戸際にいることを考えると、 廃線に反対する過程で鉄道の利点を語る相手は鉄道会社ではなくて、むしろ日々の移動に車を使っている人であろう。 その点で地方鉄道のほとんどすべて「合理化」→廃止となっても本当はおかしくなく、 それだけ補助金の存在は重要でなくてはならないものになっているのである。

4. 財政から見る公共交通の在り方

補助金は地方交通の経営の要であることは前述したが、このことは地方鉄道に「赤字体質からの脱却」に代わる新たな問題を提起する。 つまり、補助金を利用しているからにはメリハリのある経営を行わねばならない。 その理由としては国鉄の時のような失敗を繰り返してはならないということに尽きる。 国鉄も多くの不採算路線を抱えながらもその処理が遅れ、赤字体質が治らないまま多くの債務を残すに至ったが、 その過程で路線の廃止に関する問題は政治問題と化した。 しかし、政治問題となったことについて政治家だけに原因を求めるのは適当ではない。 国鉄の深刻な財政状況を理解せず自身の周囲しか見えなかった沿線住民や、それに関する説明が不十分だった行政にも責任の一端はあったはずである。

「共同責任は無責任」という形で赤字が累積した国鉄問題の経過で欠けていたのは、赤字に対する責任区分とそれに対処するためのルールであった。 もちろん各路線にはそれなりの事情があったと思うが、それでもバス転換などが不可能である決定的要素が挙げられない限り、 早急に対応すべきであったのではないだろうか。 国鉄は解体直前に多くのローカル線を廃止したが、廃止できるのであったらなぜもっと早くやらなかったのか。 廃止・縮小に関して統一された基準がなかったために政治の過剰な介入を許し、事態の解決が遅れたのではないのだろうか。

現在の地方鉄道への補助金交付実績はかなりのものである。 もちろんすべてが無駄だとは言えない。 しかし補助金というのは税金であり、財源は一般国民である。 つまり、補助する鉄道会社と無関係な人間が補助金を払っている可能性があるのである。 そうである以上は、それぞれの鉄道会社に補助金を交付している必然性 −比較的費用のかかる鉄道という形態を維持するだけの状況とそれについての責任− について十分に考えねばならない。 「どうせ補助金があるのだから惰性と前例重視で鉄道を残す」という考え方は許されるものではない。 確かに鉄道は多くの利点を持つが、一方で多くの費用がかかる。この時その負担がどのように分担されているのか。 その現実を知って、それでもバス転換といった「合理化」に反対し、鉄道にこだわるだけの筋が通っているか、 ということについて行政・会社のみならず沿線住民も真剣に考えるべきであろう。 責任区分についても法律で明文化し、ある程度の限界を設け、それ以降は鉄道の廃止もしくはバス転換を促すようにするべきではないだろうか。 フランスやドイツの場合、交通における『国の責任』『地域の責任』『事業者の責任』が制度的にも明確にされており、 赤字の補填を受ける際に原価区分が必要にされ、政府や自治体によって補助の計算方式が確立されている。 毎年赤字を出すような状況では本来なら淘汰されるべき存在である。 それを税金で対応しようとするのだから、そのことの重大性についてはしっかり認識するべきであろう。

この問題の根源の一つは、民鉄やJRを国鉄の仲間程度に見る認識の仕方である。 民鉄やJRは独立した企業であり、それぞれに経営戦略を持っているし、持たなければならない。 不採算路線からは撤退する権利がある。国鉄は確かにいたるところへ安く人を運んだように見えるが、 それは見かけだけであり、実際は効率も悪く莫大な債務を残したのである。 このように債務を先送りすることは人口の減りそうな現代日本では禁じ手である。 この現実を無視して民鉄の姿勢を批判しても全く前に進んだことにならない、ということを理解することが問題解決の第一歩であると思われる。

もう一つ考えられるとすれば行政のやり方であろう。 今まで当然のように行われてきたことを変えるためには、個人の能力や裁量では限界がある。 法律を定めて首尾一貫した施策を行わなければ、廃線の処置などについて不満や不信感が当事者間で蔓延し、事態の解決が遅れる。 こうなれば地方鉄道問題は第二の国鉄問題となってしまう。

鉄道事業は公共性の面から特殊な産業であることになっている。 したがって廃線や縮小の際には騒ぎになることが多い。 しかし、現在赤字路線を税金で補填している以上、納税者の立場という広い意味の公共性が問われている。 これを無視することは一種の地域エゴである。 国鉄再建法のような、鉄道事業を安楽死させる法律がないと、国民全体に大きな不利益が降りかかる可能性がある。 そもそも「合理化」とは広く見ればプラスとなるようなことである、ということを忘れるべきではない。

5. 終わりに

今まで持続可能な鉄道経営の在り方について述べてきた。 重要なのは、「公共性」という言葉で認められる範囲を厳密に考えることである。 そうすれば自然と「合理性」の範囲も見えてくる。 極端な話、線路を残そうとすること自身はたやすいことである。 しかし、それが後にどういう影響を与えるかを考えねばならない。 その際には鉄道の現在の意義を考慮することも大切である。

行政の課題も多い。 そもそもかつて地方鉄道が多くできたのは、公営交通の確立が遅れたからである。 迅速な問題解決能力が必要だが、だからといって第3セクター化を進めることがいいというのは短絡的である。 将来とのつながりを考えた上で、鉄道存続かバス転換かの選択を決めるべきであろう。 もちろん最終的に頑張るのは鉄道会社自体である。 日々の経営努力もさることながら、もしも廃線にすることになっても、そのことが比較的周囲の理解を得られるように、 経営に関する情報公開を進めることも考えるべきだろう。 そのことが利用者の意識を変える契機となる可能性もある。

純粋に鉄道会社を私企業と見れば、たとえ他にいくら黒字路線を保有しても赤字路線を残す理由にはなり得ない。 少しでも収益を上げることが企業の命題であるからである。 逆に一種の公企業と見れば、運営において納税者に対して責任を負っており、節度ある税金の使い方が求められる。 この情勢の中で鉄道は弱い立場にいる。 輸送面から見て、鉄道がないと周辺の日常生活に大きな支障をもたらすようなところは大都市ぐらいのものであるし、 鉄道のもたらす外部効果は地方では大きくない。 更に地方では自動車主導にあって「地域独占」「自然独占」という言葉が有名無実になっている。

前にふれた多角的経営についても、確かに地方鉄道でもバス・不動産事業を行っていることがある。 しかしそれは大手民鉄と違い鉄道を会社の主軸にしているというものではない。 社名等の外見上はそう見えるが、実際は鉄道の赤字を埋めようとするだけのものである。 必ずしも鉄道が必要というわけではない、ということは東濃鉄道等の「現在は線路を持たない」交通企業の例を見ればわかることである。 時代の変化は医療・情報通信といった新たな産業を興すが、鉄道がそれらと自然に組み合い、 鉄道路線を残すような力が働くかということについては疑問符がつく。 鉄道の存在が関連事業の助けになるものでないと鉄道の存在意義がない。

今後地方では高齢化が進むだろう。 地方交通の重要性は依然として高い。 そのために補助金を使って会社をつなぎ止めるやり方もある程度は必要であろう。 そうして地方交通を残すのも地域の責任のひとつとも言える。 しかしその補助金が誰によってどのように負担されているかを考えれば、鉄道にこだわり、 線路を残すことばかりが一人歩きして非効率な税金の使われ方がされる事態は避けねばならない。 財政の観点で見れば、必要なのはこれからも残せるような交通機関である。 そのために鉄道だけにとらわれず多くの可能性を探るべきではないだろうか。 大切なのは「公共性」と「合理性」の釣り合いを取ることで、どちらかに加担することではないのである。


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Last modified: 2001.4.7

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