[橋問叢書 第五号]     一橋の学問を考える会

  一橋の財政学について   一橋大学名誉教授 木村元一
     ― 井藤半彌教授を中心として ―

   井藤先生と国際財政学会

 こういうところで話をさせていただくということは光栄です。
 きょうまでにこの会の趣旨やいままでの講演の様子などは伺っておりました。
 また、きょう山田雄三さんの講演の要旨を拝見いたしました。
 みなさん非常に準備をしておられて、ことに板垣与一さんあるいは高橋長太郎さんのお話はむずかしいことが載っております。一体だれが聞いたんだろうと思って (笑) いたのであります。わかる人がいたのだろうかと思ったりもしたのですが、こうしてみますとわからなそうな方もずいぶんおられそうですね。(笑)それで安心もしたのですが、準備不足だけは償いようがございません。
 弁解じみますけれども、私は井藤半弥先生の弟子でして、財政学を勉強してまいりました。これから話しますことは井藤半弥先生と関係が深いものですから、弁解をかねて二、三申し上げたいと思います。

 さる九月七日から十一日にかけて東京で国際財政学会を開きました。
 予定しておりました人数は外国から百五十名、日本の国内から百五十名、あわせて三百人の学者を集めて会議を開こうという計画であったのです。残念ながら外国から来る人は百二十五名程度で、少し期待していたより減りました。何分にも東京というところはヨーロッパの方から見ますと大変遠く、日本は極東でございまして、地図の上でも一番端っこに載っています。日本へ来た学者を私の家へ連れてきまして、日本製の世界地図を見せますと、日本が真ん中になっているのにびっくりしましたらしく、ヨーロッパとアメリカの東部が端になっている地図を不思議そうに見ておりました。けれども先方から見ると日本は何分遠いところです。東京で開くこと自体もなかなかおいそれと承認が得られませんで、開催まで前後約五年かかり、ようやく機運が熟し日本で開くことができたのであります。

 この国際財政学会というのは、いままでに三十数回開いておりヨーロッパが中心でございまして、せいぜいマドリッド、バルセロナでやったとか、あるいはイスタンブールでやったとか、昨年はエルサレムでやるとか、その程度の広がりはあったのですが、七、八年前にニューヨークで開かれました。これがさしずめヨーロッパから外へ出た最初でありまして、今度は一足飛びに極東まで持ってくることになったのです。
 こういうことが東京でできたのは、何と言っても日本経済が非常な躍進を遂げ、日本に対する興味が皆さんの間でも非常に強くなったためでございます。ヨーロッパ、アメリカでは失業とインフレのきずなでがんじ絡めになっているのに、なぜ日本だけが高い成長を遂げているかということに対する関心が大きくなってきたためです。しかしそれだけではありません。

 もう一つ大切なことは、一九五五年に私の先生でありました井藤半禰先生が、学術会議の方から国際財政学会に派遣されましたときに、わざわざ先方に出向かれて、日本の財政学会の事情を説明し、団体として国際財政学会の会員にしてもらいました。先生自身はそのときからずっと理事を委嘱されて、国際財政学会の発展に対して貢献をしてこられたという実績がございました。これは古いことでございますけれども記録に載っていますし、歴代の会長もドクター井藤と言えばよく知っております。きょうここへ文献目録を持ってまいりましたけれども、井藤先生の書かれたものはドイツ語のものもあり、英語のものもあり、また英語で書かれたものがスペイン語に翻訳されるとか、しかも発表する場所がHandbuch der
Finanzwissenschat というような非常に権威のあるものに寄稿もしているので、大変高く評価されておりました。
 
 また井藤先生の勉強の仕方は、私と違って非常に丹念でございまして、非常によく文献を渉猟されて、その精髄をまとめられました。私ども、いまでもだれかの本を参考にしようと思うとき、原文を読むのか面倒なときは、井藤先生がレジメにしたものをそのまま引用して、もしそれが間違っていたらこれはしょうがない。井藤先生が間違えるくらいならしようがない。われわれはそんな面倒なことをやらんでも、井藤先生がこう書いていれば、その本にそう書いてあるに違いないという確信が持てるくらいに丁寧にやっておられた方でございます。ドイツの学者が、井藤という先生は一体どうしてこんなにドイツの文献をよく知っているんだろうかと、私に尋ねたことがあるくらいでございます。井藤先生はベルリンに留学中、ゾンバルトとかへルクナーとか、当時のドイツの学会の長老的な教授のもとで孜々として勉強されました。まことにいまにしても敬服にたえないのでありますが、そういう先生の実績があって日本で開くことが可能になったのです。
 
 先生が亡くなられてから既に八年ぐらいになりますが、東京女子医大病院に入院しておられるとき、ちょうど私も同じような病気で入院しておりました。毎日一回は先生にお目にかかっていたのですが、何かの拍子にふと漏らされたことは、日本でも国際財政学会を君がいるうちに開かなくちゃな、ということを申されました。非常に気にかかっていて申されたのか、ふっと思い出して申されたのか知りませんけれども、私には何かそれが遺言のような感じを持ちました。というのは、先生はがんでございましたので、病状はよろしくなかったのです。私もがんだったのですが、私の方はどういうものか手当が早かったせいか八年ばかり生き延びているのです。医者に言わせると、これもどうなるかわからない。目が離せないんです。五年たつと完全治癒というのですけれども、これは統計的に五年たったものを一応治ったということにするわけでございます。そういう病気でございましたので、何か私はそれを先生の遺言のように受け取ったわけであります。それが、ようやくこの九月にまあまあ成功裡に終りました。
 
 それに関連いたしますけれども、その開催のためにお金が六千万円かかったのでありますが、これを集めるのに苦心しました。日本財政学会のメンバー、あるいは理事が一丸となってやらなければできないということで大分苦労いたしました。
 
 内輪の話でございますが、東大の方は官庁方面になかなか強うございまして、文化勲章をもらった有沢広巳先生に頼んで通産省に一声かけてもらいました。通産省が自転車振興会の資金(競輪の上がり)を配分する担当になっておる。主として機械産業振興のために使うという目的でできておるのですが、財政学と機械産業とどういう関係があるかということで、どうもなかなかスムーズにはいかないような事情があったのです。けれども有沢先生の一声で大枚一千六百五十五万円の補助金をつけてもらえるという話になりました。それから万国博覧会基金。これも国際交流関係に使うというお金を、これは東大関係の方ばかりではなしに、何といっても関西に本部があるものですから皆さんで手を回し、そこからも五百万円出してもらえるということで、二千一百五十五万円だけはわれわれが走り回らなくてももらえるというお金でした。ただしこれは半額補助でございます。従って、寄付金の方は、足を棒にして回らなければならないということでございました。
 
 東大の方では、おれの方では二千万円近いものを用意した、あと指定寄付集めで回るのは一橋、慶応だ、どのくらい集めるだろうかと、こういう顔をされまして、わたしどもの大川政三教授をカリカリさせる場面がありました。ここにおいでの皆さん方にも、ずいぶんいろいろお願いに上がったわけでございますが、快く皆さんの協力を得まして、総額六千万円近いお金が使えるようになりました。少しおつりがくるくらいにお金を集めることができたのであります。これはまた井藤先生に直接結びつけてはどうかと思いますが、先生が学長をしておられますときに、一橋ファンドをつくるについて非常に苦労し、如水会の方々にはご迷惑と言えばご迷惑ですが、近藤荒樹さんに連れられて、痔が悪いのに血を流しながらあっちこっち交渉をしてくださいました。そういうつながりも背後にあったのではないかと、私はひそかに考えているわけです。
 
 私がもっとも言いたかったことは、この大会の開催で疲れてしまったということです。五日間カン詰めになりまして英語をしゃべって、レポートもやらされ、挨拶もやらされるというので、もっと英語がよくできればいいんですが、できないのにできるようにやろうとするものですから (笑)、なおさら疲れます。ただきょうのお話を引き受けるに当たりましては、二カ月もたてばもう回復して準備もできるだろうというふうに思っていたのですが、やっぱり歳です。疲れがとれるのにどれ位かかるか目測を誤りまして、いまだにまだちょっとふらふらしています。そこへもってきて、日本財政学会の方でも、横浜国立大学で十一月十四、十五日と二日間にわたって、大会をひらき、そちらの方へも出向いたりしていたものですか、疲れが溜ってなお頭がぼんやりしている始末です。

 このごろ非常に不愉快なことは、私はもうすぐ七十歳ですから、年を取ったと言ってもいいと思うのですけれども、どうも見渡すと私よりも年上の方がずいぶんおられまして、年を取ったなどと言おうものなら、何を言っているんだ、まだ若いくせにと言われるケースが大分あるのです。これは個人差がございますので、(芙)どうぞひとつお許しをいただきたいのであります。つい名前なんかを忘れる度合いが非常に多くなってまいりました。そういうふうに準備が届いておりませんものですから、話がちぐはぐするかもしれませんけれども、どうぞお許しいただきたい。

   財政学の導入期

 さて日本の財政学は明治、大正の初めまではまだ地についたものではございませんで、大体徴税技術、予算技術、あるいは官吏の俸給支払い方法とか、予算、決算のやり方といったような実務的な、しかも大蔵省的な立場、徴税する方の立場でのテクニークを輸入するといいますか、必要に迫られて翻訳をし、それを種にしてまた本が出てくるという状況でした。先だって大渕利雄という日本大学の先生が、明治三十五、六年あたりまでの財政学の受容状況、ヨーロッパの財政学がどういうふうに日本へ入ってきたかということを資料を集めてお出しになりました。その本を見ましても、たくさんの人たちがいろいろな翻訳や、それから正確な翻訳ではないけれども要約したようなものをたくさん日本に紹介しております。

 それがどうやら少しずつ学問的な体系になってきましたのは、明治も終わり、大正へ入ってからであります。当時の財政学の標準的な学者といいますか、だれしも高等文官試験を受けようとするとき勉強するのは、小川郷太郎さんの「財政学」とか、あるいは松崎蔵之助、小林丑三郎、田尻稲次郎などの先生が書かれたものとか、それから少したちましてからは神戸正雄さんという京都大学の先生のものでした。このあたりの書物が非常に権威のあるものとされておりましたけれども、方法論的な反省というようなことは余り行われていないのであります。

   一橋財政学の学風

 これもちょっと申し上げておきたかったのですけれども、今日のテーマの 「一橋の財政学を考える」ということは本当は一橋の人間以外の人がこれを考えてくれないと、私どもは一橋で育っている者ですから、自分の財政学がどんなものであるかということをお話しすることがなかなかできないのです。グルンドリッヒである、美学的である、あるいは福田徳三さんがどうこうと皆さん話しておられます。学風があるに違いないのですが、それを言葉にしてしまうと、それだけではなさそうだという感じもします。人によって、同じ学風の中でも違った色彩が当然出てきています。それをさらにまとめた上で、一橋の学風ということを皆さんおっしゃるのでございましょうけれども、私は残念ながら余りよくその辺はわからないのです。東京大学や京都大学に比べるとわが一橋の財政学は民間的なところがございます。民間的なところがありますけれども、しかしさらばといって慶応義塾大学の学者の方に比べると、ちょっと官学的なところもございます。私もどうもこのごろは大蔵省ぴぃきみたいなところが少しあるのであります。

 早稲田大学には・お偉い先生に阿部賢一さという方がおられましたし、が現在時子山常三郎さんという方がおられますが、官学的と私学的とかいう特徴がはっきりしません。

 話が前後しますが、慶応の財政学では、古くは堀江帰一さん、戦中、戦後は永田清さんという学者がおられ、さらに最近まで高木寿一さんなどがおられたのですが、おふたりは井藤先生と同時代の方です。 東大では大内兵衛という方が財政学をやり、かつ並行講義で―あそこはどうゆうものか財政学の講義は二つございまして、もう一つのほうは土方成美という方がやっておられました。ところが土方成美きんと大内兵衛さんとは、こんなに仲め悪い同士というのはないくらいに喧嘩ばかりしておりまして、この点・東大の偉いところです。同僚とでもあんなふうにけんかができるかと思うくらい。(笑)大内さんという人はちょっと人が悪いですから。(笑)とてもとても土方さんの手には負えなかったろうと思います。赤子の手をねじるようなものです。教科書に土方さんの『財政学原理』をお使いになったのです。普通教科書を使うというときは、それを勉強させるために使うのですけれども、大内さんはそれを批判の材料にする。(笑)こういうへんなことが書いてあるからと学生に講義するためにその書物をお使いになった。私、その講義を聞いたわけではないですから間達っていたら訂正しなければなりませんけれども、そういうことがあった。時代の流れ流れに応じまして、ころっころっとその学風が変わっちゃうのです。戦争中になると、金融の橋爪さんといったようなナチスばかりの人たちが、非常な勢力をふるって、大内さんは牢屋に入ったのでしたか入らなかったのでしたか、とにかく特高に追い回され、検挙された。それが一生の自慢になっておりまして、免罪符を得たようなもので、自分の民主主義の看板にする。そういうところがあります。あのときに牢屋にでもちょっと関係した人は、戦後になるとわれこそは根っからの民主主義であって国策に協力しなかったということを自慢する人がいる。 私は積極的に協力はできなかったけれども、まさか協力しなかったことを自慢するというような教育は、一橋では受けませんでした。

   一橋特有のゼミナール制度


 一橋はその点まとまりがいい。これはゼミナールのせいなのです。東大のゼミナールというのは一年ぽっきりで、とにかく読書会形式のものです。それでもゼミナールはありますけれども、わが一橋のようなゼミナール制度というのは世界的にも少ないし、日本では唯一ではないかと思うのです。よく他で一橋のゼミナール制度を真似しようと視察に見えたり、あるいは導入したりしておりますけれども、根がないところに植物をぽっと移しても変質してしまうか、あるいはだめになってしまう。これはよくあることでございますが、なかなか定着したゼミナール制度は他の大学では育たない。これを育てたということは、福田先生に限りませんけれども、わが一橋の学風がもしあるとすれば、そういうものを培った源はゼミナール制度で、師弟がともどもに勉強する。また、当時の学生は優秀だったし、先生も優秀だった。山田雄三先生はずいぶんよいことを言っておられるのですが、その後のわれわれの段階になると傑出した学者が余り出ないということをしきりに言っております。まことにそのとおりだろうと思うので、私などもその傑出していない方の学者なのですが、同時に学生の悪口を非常に言っております。学生が変わった。打てば響くような反応がないと。それはそうです。腹いっぱい食って、のんびりやって四年間十分遊ぶ時間を与えられるのが、いまの大学教育なのですから、打てば響くような勉強をしていたのでは遊びにも行けないし、女友達をつくる時間もない。

 ー いまは一橋大学の中には女子学生もいるのですよ。それも最初のうちは肩をいからしたような本当にかわいそうみたいな女子学生だったんです。三人か四人入ってくる。女性の便所もないといったようなところに入ってきて、何か言われはしないかというので肩をいからしていたのですが、そのうちにだんだんふえてきました。女というのは図
々しいですから。(笑)―私の話は少し木村節だとか言われたことがあるんですが―(笑)。とにかく、いまの時代は打てば響くような勉強はやらなくても、第一就職がいい。これは皆さん産業界の責任もあります。どんどん採用しますから。みんな採用しなければいいのですが。ゼミナールの教師の推薦状などがなくてもどんどん内定されてくる。今日は私のゼミナールの人たちが少し来ていますけれども、こういう人たちは就職難の時代の卒業生だったのです。私の推薦状でもないと会社がなかなか採用してくれない。(笑)そういう時期に卒業した人は私のことを非常に思ってくれますけれども、自分で内定してしまって、君、どこか決まったのかと言ったら、決まっておりますというようなことで卒業していった学生は、往々にして、全部とは申しませんけれども、かなり冷淡になります。

 話が飛びますが、ことに戦後一橋のゼミナール制度は大分崩れました。これは大学が四学部になりまして、そして経済学部、商学部以外に法学部ができー社会学部ができ、科目の性質上一橋出身者じゃない他の大学から来た人たちがたくさん入ってくるし、また余り一橋で固まるのは決していいことではないということで、制度の上では、それらの人たちがゼミナールの担当教官になりました。ところが、ゼミナールがどういう意味合いを持っているのかを知っているのは、自分が一橋のゼミナールで、私なら私が井藤半弥先生のゼミナールの指導の仕方を身につけた人間であればこそ、その伝統が伝わっていくんです。ところが、他から入ってきた人は、一橋のゼミナールはウェット過ぎて ― ウェット過ぎるというのは、先生の悪口を一っも言わないし、お互いに団結してやっていくというやり方を言う ― 白眼視する人たちも入ってまいります。そういう人たちは、ゼミナール制度みたいなそういうねっとりしたものを壊すことに興味を持つというか、自分の正義感というか、満足感を求める人が大勢になったのです。

 そういう状況で、いまから十四、五年前になりますか、一橋の騒動が起こりまして、教員の方が割れてしまう。学生に同調する人たちがたくさん出まして、学生と一緒になって大学の教授は管理者である、われわれは被管理者であ
るという対立関係が生まれて、学校の講堂が占領される。あのときに器物をぶっ壊したり、東大でもそうですが、安田講堂をあんなにめちゃくちゃにしても、だれ一人責任を負わなかった。私どもは曲がりなりにも講義を続けて卒業生を出し、入学生を受け入れたんですが、東大のごときは入学試験もできなくて一年ブランクができたのです。それでも東大の先生は給料だけはちゃんと全部もらっている。こういうことがまかり通るというような状況は、世界的な風潮でもあるし、だれがどうということは言えませんし、昔はよかったというふうにばかりは申せません。

 というのは、『論語』を読んでも、あるいは王充の 『論衡』を読んでも、『孟子』を読んでも、あるいはプラトンにあったかどうかはともかくとして、「とにかく昔はよかった」という話であります。「このごろは人心が腐敗してだんだん人情紙の如きものになった」と書いてあります。三千年も四千年も前からどんどん悪くなったのが本当なら、いまごろどうなっているかと思うのです。一方、昔はよかったと言う場合、いつの昔かというと、自分が育ったころ、五、六十年前の話を種にしてこのごろ悪くなったと言っておりますが、これは年寄りの繰り言です。と言っても、私の孫を見ていますと(笑)、ぜいたくでこんなことでいいんだろうかと思うのです。けれども、孫は孫でまた後、三十年か四十年たつと、昔は一生懸命やったのにこのごろの子は悪いと、こういうに違いないのです。ですから、いたずらに昔はよかったとは申しません。

 ご承知かどうか加藤由作先生という私の非常に好きな先生がおられました。保険学をやっておられたのです。この先生が述懐されていたのですが、ご自分が助手、助教授のころの教授会というのは、実に上の人と下の人の間に差がございました。福田徳三先生が何か意見を述べられて、賛成する者おるかとにらまれると、途端に加藤先生ハッと手を挙げたというのです。(笑)そういうばかなことは私どものときにはもうなかったのです。私が助手になったときに、私の同期生の吉永栄助君が私に言ったことは、助手の間は物を言うんじゃないよということでした。私は言いたいことがあれば言ってもいいんじゃないかと思って、丁寧には申しましたがしゃべりました。しゃべりましたが、それで別段お叱りもなくて、ああいうふうに丁寧に話すのならよろしいでしょうと、井藤先生も言ってくださいました。そぅいうことは恐らく加藤先生のときには言えなかったのじゃないかと思うのです。同じ意見なら別ですけれども、ちょっと違った意見はなかなか言えなかった。そういう封建的なものが昔は残っていて、その封建的なものの中でゼミナール制度が育ち、それがだんだん展開して今日に至り、また制度の危機を生むというような形になりつつあるのではないかと思うのです。

   井藤財政学の特色

 大分周りの話をしましたけれども、官権的な、技術論的な財政学が風靡していた時期に井藤先生はドイツに学ばれ、福田先生の弟子中の弟子で ― 山田先生は福田先生のお弟子さんといいますけれども、せいぜい一年か二年しかおられなかったはずです ― 中山伊知郎さんと同じように福田先生の薫陶を受けられたのであります。他方、私どもの大学には左右田喜一郎先生という哲学の先生がおられました。この方はむしろドイツで勉強している時期の方が長いくらい、ドイツの学問を身につけて帰られまして、『貨幣の哲学』という書物をお出しになりました。

 情けないですが、日本の学界というのはいまでもそうですが、日本の事情で論争が行われるというより、外国で論争が行われると、その日本版が行われるという傾向がいまだに残っております。当時は新カント派のリッケルトの学説、ドイツ西南学派と言っておりますが、この派の認識論が左右田さんを中心にして日本に入ってまいりました。井藤先生は、それに着目されまして、財政学というのは一体学問としてどういう性格のものであるか、何を研究するものであるか、ということを非常に熱心に研究されました。これは行政学の方で言いますと、蝋山政道さんの『行政学
の任務と対象』という書物もそうです。これは立派な書物でありますが、それと同じような性格の書物を財政学についてお書きになったのが、わが井藤半禰先生であったと思うのです。
 
 普通の経済学以外に財政学というものがなぜ存在しなければならないのか。根本的に原理が違う経済原理がある。その違いをよく認識した上で対象をよく選ばなければいけない。私どもの学生時代には絶えず時計の鎖を回しながら井藤先生はこうおっしゃっていたのですが、「強制獲得経済」ということを非常に強調せられて、耳にたこができるくらい聞かされました。

 それがなければ男でない、そのものは何だというとあれだ、そのあれにあたるものが強制獲得経済である。本当は、うらなりというのもあるし、半陰陽というのもあるんだから、そう一つだけで決めるわけにいかないんじゃないかということを学生時代に私は思ったことがありますが、とにかく認識の対象というものを、自由交換経済的なものではなくて、強制獲得経済的なものにもとめる。それにかかわるものは、すべて財政学の対象になるし、それにかかわらないものは財政学の対象からはずしてよいということを強調せられました。認識の対象を技術論的に、これも必要、あれも必要と百科全集的にひっくるめる財政学を学問的に整理しよう。これはドイツの学会での一大風潮でしたが、それを日本で独自につくり上げられた。したがって、大内さんの財政学というものは余り高く評価されておりませんでしたし、神戸さんのは技術論的なものだということで、混淆的な学問であると考えておられたのです。しかし他方、これは山田雄三さんのレジメの中でも書いてありますけれども、やはり福田先生の弟子でございます。井藤先生は財政学を純粋因果論的に、原因がこうだから結果がこうなるという因果関係をつかまえるというのではなしに、ある目標を立てて、それに対してどういうふうにしたらいいかということを研究するのが財政学であるとされたのでございます。

 私は、これにずいぶん抵抗いたしまして、因果論的な財政学の方がいいんじゃないかというふうに、いまでもそう思うことがございます。しかし最近では、税制調査会などに関係いたしますと、因果論だけ言っていたのではどうに
もならないのです。あなたはどう思いますか、この税金いいですか、悪いですかということに対して、立場上お答えはできませんということは言えなくなりまして、だんだん、自分の意見だということを言って、言うことは言うようになったのです。当時は目的論的財政学ということに私は抵抗を感じておりましたけれども、先生はエンダリッシュという人の目的論的財政学というものを一方に取り入れまして、国家の倫理性ということと、資本主義を前提とした上でないと租税政策 ― 財政政策の中核であります― が成り立たないというので、政策論の根本の条件を明示いたしました。

 当時は何かというと、社会革命をやればよくなる、有産階級から没収すればすべてはよくなるというマルキシストの考え方が非常につよく、大内さん初め労農派、あるいは講座派の人たちの意見が一世を風摩していたときでしたが、敢然として自分の考えを主張せられました。その背景には、オトマール・シュパンの普遍主義というものがあって、先生は自分流に考え直されまして、社会価値説を説かれたのであります。資本主義と国家の倫理性を前提にしなければ租税政策は成り立たないが、税金の善悪は社会価値説によらなければならない。個人的な価値を基準にしてはならないとされた。従来の租税学説を批判して、一つの体系をおつくりになった。一つは認識目的をはっきりして対象を決めたということ。それから、財政学の学問としての性格は目的論的でなければならない、政策の基準としては社会価値説をとるというのが、三つの眼目だったと言えます。

 井藤先生はたまたま、偶然ではなくて、あるいは必然だったかもしれませんけれども、社会政策の講義も持っておられたんです。私はむしろ社会政策を勉強しようと思って井藤先生のゼミナールに入ったのでありますが、どういうものかだんだん経済学の基本問題をやれといわれ、そのうちに財政社会学というものが出てきたら、これをおまえやれと言われて、上手に財政学を勉強する方に持っていかれたような気がするのです。学生時代は税金の研究などばかばかしくて、そんなもの(笑)、と思っていたのですけれども、いつのまにやら誘導されまして、財政社会学から財政
学本来の方にだんだん持っていかれて、いまでは仮に私が死んで新聞に書かれるとなれば、財政学の専攻とか、税金学の権威とかなんとか書かれるんでしょう。(笑)とにかくそういう指導を受けて後継者になったのですけれども、いま申し上げたような三つの点が井藤先生の特徴でございます。
 
 それを申し上げるのは、いま言ったように、一方では、ほかの京都の方の財政学がこうであった、東大の方はこうであった、慶應の方はこうであった、という関連を少しずつお話ししながら特徴をつかまえてみたのであります。

 いま社会政策の話をしましたが、社会政策というのは国家政策総論という形でとらえて、社会価値はどういうふうにして決まってくるのかということは、社会政策論で示しておられると先生はおっしゃるのですけれども、中身はやはり先生の特徴である、学説を丹念に拾われて自分の考えを普遍主義の考えで最後に統括するという行き方をしておられます。

 これは当時一橋には社会政策という講義は二つございまして、井藤先生のはかに山中篤太郎先生の社会政策という講座がございました。山中先生は上田貞次郎先生のお弟子さんで、中小企業問題というところに中心を置いた非常にプラクティカルな問題を論じておられました。それと余り同じでは困るということをお考えになったのではないかと思いますけれども、井藤先生は社会思想史の講義のような、そういう講義をなさっておりました。きょうは、たまたま 『財政学の基本問題』という井藤先生が御退官になられましたときに出した記念論文集をもってまいりました。昭和三十五年の出版ですから、いまから二十年前に出た本です。当時、私ども編さんしておりまして、本の値段を千三百円にするというので、千三百円もしたんじゃ余り売れないし困るなと思っていた時代なのですが、これと同じくらいの厚さのもので 『社会政策の基本問題』という書物が同時に編さん出版されたのであります。ここに寄稿しておられる方というのは、一橋の人間だけではなしに方々の方が寄稿していますけれども、日本の財政学を学問らしい学問に育てあげたという意味では、第一人者といいますか、非常に重要な功績を挙げられた先生だと思うのです。
これを見ますと、お弟子さんもたくさんおられますけれども、非常に広範囲に多くの方が喜んで寄稿してくださって、それも生半可な論文集ではなくて、なかなかみなさん力のこもった、変なものは書けぬという気持を寄稿者すべてが持ったと思うのです。こうして立派な論文集ができたことは、井藤先生の指導力の賜であろうと思うのです。

 それでは、おまえはどうしたのかと言われるでしょう。一橋財政学を考えることになると、私もその端くれにいるのですが、これはしばらくたって私が死んでから私の弟子あたりに、また機会があったら、(笑)話をしてもらうということでいいんじゃないかと思うのです。

   一橋の経済研究所の意義

 ただ一言申し上げたいのは、これは財政学のみならず  ― 財政学関係のものもありますが ― 一橋大学が外国の論争の日本版をやるといったようなパターンを脱却するきっかけとなったのは、一橋経済研究所の仕事によるところが大きいのではないかと思うのです。日本のことを分析し、研究し、理論づけたものが外国で問題になる、という背景には、先ほど外国人が何に注目しているかということをお話ししたとき触れたように、外国人にとっては日本経済はなぜあれだけ成長できるのだろうかとはなはだ奇異に感ずるわけです。そういう意味で、日本についてもう少し研究しなければならないという気風がヨーロッパ、あるいはアメリカの学界に育ってきている。これは、日本の方から幾ら日本的なものだといって押しっけてもだめですし、もともと日本的な経済学とか日本的な学問といったものを確立しようと思って、それをねらい過ぎた研究では碌なものはできないと思うのです。やはり真理を ― 真理という言葉もどこまでが真理かわからないんですけれども ― 学問的に見て恥ずかしくないような手続きを経て研究していく。そ
れを一生懸命にやっているうちに、よそから見ると日本的な学問ができてくるのではないかと思うのです。

 ドイツ人はドイツ的なものをつく打上げようとして哲学をやっていたわけではないけれど ― 中にはそういうのもありますが ー おのずからドイツ哲学ができてくる。経済学になると、根が商業国民であるイギリス、アングロサクソン系統の経済学が一番普遍性を持ってくる。フランスで経済学をやるとどうしても制度論的な、行政論的な経済学しかできてこない。イタリヤでやると、個人主義的な全く理屈を超越したような財政学、あるいは経済論が出てくる。もちろんいいものも出ているのですが、そういう風土的なものが根底に必ずあるのです。何もフランスの経済学者がフランス的ないいものをつくろうということではなしに、自分の信念でやっているものが、よそから見たときに、いつの間にやら行政論的な経済学になってしまう。ホモエコノミカスといいますか、経済人的な考え方で自分たちがまともにそうだと思って研究している人たちは、一番アングロサクソン的な人間に多いのです。どうしても経済学の理論的な分野でイギリスが強くなるのは、これも国民性の占めるところかな、と思うことがあります。 日本の場合に何も日本的なものを特につくるというのではなしに、そういうものを輸入してでも構いませんけれども、真理を追究するという立場から分析を加えていく。こういう仕事がそのまま世界に通用するようになったのは、経済成長のお陰でもあるし、一橋の経済研究所がやっております非常に綿密な統計的な研究、これが世界的に評価されるところまできておるのであります。そういう意味で、今後の国際的な交流を進めていく。外国の文献にも通暁しなければならんし、若い人たちが哲学を忘れて実証研究ばかりやってしょうがないと感じる場合があるのですけれども、しかしそれはそれでまた自らいいものを育てていくことになるかと思います。その意味では、余り一橋の財政学とか、一橋の経済学とか、ということは言わない方がかえっていいのではないか。こうだからこうだというふうに余り伝統を押しっけるのはよくない。私の孫を見ても余り昔のことを言うと反乱を起こしちゃうでしょうから。だから、その子はその子で
、また自分たちの問題を抱えながら時代を背負っていくことになるんだろうと思うのです。いろいろ心配はするけれども、そのときはこっちは、年金か何かもらえればいいといったような状況に置かれてしまうのでありまして、いずれはその人たちに頼らなければならない状況になるかと思うのです。

 はなはだまとまらない話でありますが、井藤先生はお子さんがございませんで、奥様が病身でおられたのですが、いまでもリウマチが悪くて立居振舞が不自由でございます。井藤先生は七十九歳で亡くなられましたけれど、いま奥様は八十二歳になられます。お声だけは大変元気で、電話で話をしますと、これが病人かと思うくらい元気で、いまも吉祥寺の方にお住まいでございます。先だって国際財政学会が無事終了したので、先生の御位牌にご報告に行ってきましたけれども、いまおられて、あれを目の前に見ていただけたらなあと思って、少し涙がこぼれました。

 大変長い間ご清聴ありがとうございました。

   [質疑応答]

 新井 いまゼミナール制度はどんなふうに運営されているのですか。

 木村 形は以前と同じです。二年間です。同じ先生につきまして、論文が必須になっておりますから、論文を書かして卒業させるというシステムはとっているんです。しかし,先生によっては十枚ぐらいの論文でも結構だという人が出てきているわけです。そこが昔と違うのです。

 これはほかの先生もおっしゃられたと思うのですが、ことに私は和歌山の高等商業から一橋に来ましたから、一橋に来たときには何を研究したいという気持ちはある程度かたまっておりました。しかし最近は、高校を出たのが前期部に入ってきます。何を勉強してどうしたらいいかということは、一つも知らないのです。問題意識がまるでないのです。こちらが、あれこれ言えば勉強しますが、自分で図書館へ行ってこういうものを見つけたら、これに対してまた反論がある、自分でやるということは余りやらないのです。何もわれわれの責任ばかりではなくて、高校教育、中学校教育に原因があろうかと思います。言われたことはやります。やるだけの能力を持っている人間が一橋の大学には入ってきていますが。

 速水
 私、木村ゼミの一回だと思います。きょう久し振りにお話を伺ったのですが、先生は大変謙遜なさってご自分の財政学のことを余りおっしゃらなかった。私自身も昭和十九年に学校に入り、予科に進んだときに、木村先生が少壮の助教授でゼミナリステンを取り始めたばかりでございました。そこで、きょうお集まりの先輩の方々は余り存じておられないのではないかと思いますので、大変僭越でございますけれども、補足させていただきます。

 私もそういうことで、いずれ兵隊へ行くことがわかっているときにゼミを選択するのだから、一番若くて、しかも人間的に魅力がある、軍隊へ行っても人間的に教えてもらえる先生がいいと思って、財政学には全く興味もなかったのですが、木村ゼミを選んだわけです。そのとおりずっと今日になるまで先生にはご指導を受けているわけですが、特に学問ということはどういうものかということを教えていただけたのは大変ありがたかったと思っております。

 学生時代は私は木村ゼミでしたけれども、それから山田雄三さんの計画経済論を学び、日本銀行に入ってからはもっぱら国際金融概論をやっていました。今年の五月に商社に移りまして、いままた商売を勉強しております。先生から教えていただいた財政学については全く勉強もしなかったし、特に当時先生はカメラリスムスの研究というむずかしいことをやっておられまして、何をやっているのか私もわからなかったわけですが、財政学というのは、お話しの
ように社会の変遷とともに変わってくるわけでございます。ただ一つだけ申し上げておきたいことは、先生は、私どもゼミの中から大川政三君、あるいは石弘光君などという優れた後輩といいますか、一橋の学者を育てられました。それぞれ非常に活躍しておられます。そういう意味で、一橋の財政学はますます ― 一橋の財政学と言うなというお言葉がございましたけれども ― 伝統は立派に受け継がれ、発展しているということを、先生に代って申し上げたかったのです。

 榊原 私はボートばかりこいでおりましたものですから、余り財政学の勉強はしなかったのですが、あるとき井藤先生がお話しになったことで、共産主義とか社会主義とかといういろいろな制度の問題は、みんな財政学で解決する。封建制度の問題でも、律令制度の問題でも財政史を見ればわかるのだ。あんな共産主義はそれだけの社会水準がないからなるのだ、ということを伺いました。そのときは東大はマル経の全盛時代でしたので、私はたいへん驚いたのです。そこで,いまは生活水準も上がっておりますから、いつまでも福祉音痴でやっていてもしようがないと思うのです。これからは小さな政府の時代になるのでございましょうか。それとも地方の社会投資とかというような有機的な社会資本を積み上げて調整をしていかなければならない時代になるんでしょうか。

 木村
 社会主義というのは社会主義が実現する前には非常にイメージに富んでおりまして、資本主義の欠陥が社会主義になったら解決できると考えられていました。その意味で、社会主義を大いに主張する風潮があったわけです。しかし、よく言われるように資本主義そのものも変質してきている。

 どういうふうに変質してきたかと言えば、自由競争の範囲でやれる範囲とそうでない範囲というものが二通りあって,労働者階級というか下積みの人たちに対しては国がある程度関与しなければ全体の調和が保てないという状況がどんどん出てきた。自由民主党が保守党だと言いますけれども、共産党が言ったり、社会党が言ったことで、革命は別としていろんな方策は、自由民主党の人たちでも、いまではずいぶん受け入れるよう状況に変わってきている。 これが戦前だったらそんなことはありません。片方に軍部がいて、そういうことを言うだけで危険思想にされるというよう状況でした。その点、いまの自由民主党というのは昔の保守党とは性格が違う。違うというのは、自分が好んでなったというよりは、反対党の意見を入れなければ選挙に当選できないという状況になってきたからやむを得ないからかもしれません。

 そういうふうに資本主義国が変わってきたことは事実だと思いますし、それから、現実に社会主義が成立した国はどの国をとってもマルクスの言ったようには進んでおりません。マルクスは、生産力が非常に発達したところで社会主義になると言っていたのですが、これを変えたのがレーニンで、世界経済全体を見渡して一番資本主義の輪の弱いところに革命が起こる ― 弱い国というのは一番後れた国です ― というふうに話を変えたものですから、後れた国が社会主義をやるために、昔以上の独裁的な国になってしまって、その国の飛行場へ降りただけで暗い感じを持つような国ばかりになってしまっております。

 いまのご質問ですけれども、小さい政府、小さい政府と言いますけれども、民間で使っているよりももっと有効に使えるものがあるならば、これは井藤先生の考えなんですけれども、バランスの問題ですから ―私の孫が人形を十も二十も持っているくらいなら、もう少しそれをへらして、四十人学級の方へ持っていってもいいんじゃないかという感じを持ちます。 けれども、税金というのは、無駄を抑さえるように取るということがなかなかできないのです。所得税を取っても、ぜいたくをしたいやつはそっちの方に使って、本の方には余り使わない。何も本がいいというわけではありませんけれども。そこには税金の限界というものもございます。やはりある程度大きな政府にする必要がありましょう。日本は少なくとも西欧並みには大きくなっていく必要があるのではないか。イギリスやスウェーデンは少し行き過ぎているのではないかという感じがします。社会保障料と一緒にしますと税金が所得の五割くらいになっています。累進税がかかってきて、どんなにかせいでも、七割も八割も国に取っていかれるというようなことは、人の気持を非常に押さえてしまうものですから。限界はもちろんあると思います。それにもかかわらず ― 矛盾ですが― 税金を使ってうまいことをやっていくことはむずかしいですけれども、国で使った方がいいものと、民間で使っている方がいいものとのバランスは考える必要がありましょう。もう少し日本では大きくなってもいいんじゃないか。行政改革一本やりには反対です。いまの行政改革というのは、ただむやみに政府を小さくすればいいというものではないと思います。

 韮沢 ただいまのお話に関連いたしまして、最近アメリカの南カリフォルニア大学のラッファーたちが言い出しているサプライサイドエコノミックス(供給重視の経済学)では、いまのアメリカでは税金が高過ぎるので減税をしなければならないし、減税すれば、その分が貯蓄に回り、それが投資に回って生産力の拡大につながって、供給がふえるから結局インフレが納まるという理論のようです。ケインズ理論では減税をすればインフレを刺激するわけですが、これについては先生の理論ではどういうふうになりますでしょうか。

 木村
 私は、サプライサイドの理論も何も特に研究したわけではないし、ケインズについても本当の専門家ではございませんので、非常に常識的なお話しかできません。仮に現在、アメリカの政府支出が三割国民所得の中にあるとします。日本は二割ちょっとなんですが。それで減税をやるといってその三割分を全部減税にするならば、国民経済に対して非常に大きな影響を与えるでしょうが、その代わり公債をそれだけ募集しなければなりませんから、その消化には非常に困ると思うのです。せいぜいやれることは、三割のうちの所得税を三年間にわたって一五%くらい減らすと言っているんですけれども、そんなことで供給がふえるようならば先にふえていなければいけないんで、効果の方は量的に見ても非常に薄いです。ちょうど、風が吹くと桶屋が儲かるという議論です。それは確かに桶屋がもうかるでしょう。けれども、そこまで行き着く間に、風が吹いたということの影響力は薄め、薄められてどれだけ効果があるのか。要するにあれは、現在福祉関係その他で所得を得ている、レーガンが言う怠け者と思われている人たちの収入を減らして、中産階級というか、税金を納めて苦しくてしょうがないという人間を少し助けようという階級間の分配を少し変えようとい意味はあると思うのです。しかし、それが回り回って生産力の拡充につながるというのは、風と桶屋の理論じゃないかと思います。

 茂木 お話を伺ってわからないところがあるんです。ゼミナールが一橋の学問というか、もっとも教育的なものだと思うのです。私どもはゼミナールで学問を教わりましたけれども、それよりも教育を受けたということの方が強いのです。それだけ、ゼミナールには意味があったと思うのです。

 いま、あなたのお話を伺って、経済研究所が非常に重要な存在だということでした。内容が非常に立派なものだということを聞いて、実はびっくりしたのです。しょっちゅう刊行物等をいただいているんですが、そうすると、一橋の特徴としてはゼミナール、経済研究所が二つの大きな柱だと理解してよろしいのですか。

 木村 ちょっと言い足りませんでした。経済研究所の仕事と申しましたけれども、経済学部の先生方は経済研究所と非常に関係が深うございまして、ただ理屈をやっているというだけの人は別ですけれども、そうでないと研究所に頼んで、こういうデータでこういう資料をまとめてくれないか、グラフにしてくれないかとお互に助け合っています。大学院では経済研究所の方も教官として来てくださいまして、ゼミナールを持っていただいているのです。ですから、私は経済学畑の者ですから、どうしても経済研究所ということを非常に強く言ったんです。けれどもご案内のとおり法律研究室というものもつくってあるし,商学部の方では産業経営研究所というのができています。社会学部の方が文部省の方の関係もあって研究所ができておりませんけれども、学問の中心が、制度的に言いますとゼミナールといっても、アンダーの、つまり四年で卒業していく学生の上に、二年間のマスターコースがあり、さらに三年間のドクターコースがありまして、私の感じでは、昔の大学本科を出た人たちは、現在のマスター以上の力を持っていたんじゃないかと思うのです。 それが薄められまして、高等学校の教育が薄められた。それはなぜかというと、義務教育で三年制の中学校ができまして、小学校で教えてもいいんだけれども、それでは中学で教えることがなくなるからというので、小学校で教えないで中学校で教える。中学校を卒業すると、今度は高等学校へ入って、そこで三年しかありませんから、一年半ぐらいたつと受験勉強に行ってしまうということで、制度的には非常に無駄をしていると思います。

 昔のわれわれ本科生の学問水準から言うと、われわれはマスターコースぐらいの力を持っていた。そこのところに、いまはいわゆる学問の方の中心が移っている。そこへは経済研究所の方も来て、一緒になって教えている。そういうチームワークをつくっているわけです。ですから、研究所だと申し上げたのは少し語弊がありまして、一緒になったものだというふうにお考えいただいていいです。

 韮沢 いまのお話に関連いたしまして、経済研究所の教授は学部のゼミナールを持てないわけですね。

 木村 学部は持ちません。

 韮沢 経済研究所の教授と学部のゼミナールを持つ教授との交流はあるのですか。

 木村 交流は原則としてございません。

 韮沢 それはよくないと思うのですけれどね。(笑)経済研究所の教授でも学部の講義はお持ちなんですか。

 木村 学部の授業は特別の場合だけです。

 韮沢
 イギリスの大学で言えば、リーダーになるわけですね。

 木村
 しかし大学院の方では、講義とゼミナールを両方持ちます。

 韮沢
 学生は、研究所の教授で世間的に有名な方の講義を聞かれないわけですね。

 木村
 講義はありませんからね

 韮沢
 よくないですね

 茂木
 ゼミナールというのはどこの真似をしたんでしょうか。高商のオリジナリティではないんでしょうね。

 木村
 じゃないと思います。東京高商のモデルはベルギーの商業学校にあると言っておりますが、その辺でゼミナール制度があったのかもしれません。しかし、ドイツではセミナーという制度が大学にありますから、そこで勉強された方が導入されたんじゃないでしょうか。どこの大学でもセミナーはあるんです。ちゃんと一年間ゼミで勉強しています。 しかし、卒業論文をそこでつくるという制度にしたのはだれが始めたんでしょうか。ただ一緒に一年間小さなクラスで勉強するというのだったらどこの大学でもあります。論文をみんな書庫へ入れて、皆さんの論文も調べれば出てきます。皆さんの論文が残っているという制度にしたのは、一橋だけじゃないでしょうか。

 茂木 あれは大学昇格になったときだそうですね。

 木村 
専攻部ができたときですね。                  (五十六年十一月十七日収録)


  ○

 木村 元一  明治四十五年生れ。
           昭和九年東京商科大学卒業。助手、助教授を経て、十七年一橋大学教授に昇任。             三十二年同大学評議員、四十年同大学経済学部長、四十四年経済学部長に再任。
           五十年名誉教授。
           外務公務員採用上級試験委員、司法試験考査委員、税調査会委員、地方制度調査会           委員を歴任。

 主要著書   「財政学−その問題領域の発展」(春秋社)
           「近代財政学総論」(春秋社)

 翻  訳    「租税国家の危機」(シュンペーター著、勁草書房)     
          「景気と財政政策」(コルム著、弘文堂)
  
  ○
 
         井藤半弥先生肖像写真 並びに 「講義の印象
           (十二月クラブ・ホームページ「卒業アルバム」の項より)
           井藤半弥先生ゼミナール
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