「紫紺の闇」の昔と今

      ちょう  かんきょう
    張  漢卿
     (昭16学後)


「全国寮歌祭」 が日本特有の重要文化財に成りつつある一方、
寮生活経験者が年々減っているのは寂しいものだ。

思い起こせば昭和十一年の春、
難関商大予科の入試に通った我々は、
新築落成の予科寮第一回生になるという幸運に恵まれた。

寮の運営は学生の自治に任されていたが、上級生も下級生も、
ともに寮生活の経験が無かったから、万事が試行錯誤であった。

たとえば他校の寮では、新入生いじめの行事として怖れられていたストームも、
小平の一橋寮では柔道着、剣道着に身を固めた上級生が木剣を構えて、
寝巻き姿の新入生と一緒に歌をうたい、
記念写真までとるという和気藹々たるイベントに終わった。

六人部屋に犇めいてコンパを開いた時も、
「一橋会々歌」、予科の歌、端艇部応援歌などを歌った後は、
ハイネの 「ローレライ」、ゲーテの 「野薔薇」、ミューラーの 「菩提樹」などに陶酔していた。
しかし予科寮自身の歌が無いという一抹の寂しさは払拭できなかった。

自分の寮歌が無くてはとの衆望に応えて募集をし、
当時三年生の依光良馨氏(昭15学)の「紫紺の闇」が数多い秀作を圧倒して選ばれた。
あれから永い年月が経ったが、
今年の 「加水会々報」六月号で、
依光先輩が昔に変わらぬ天衣無縫の筆力を奮って書いた随筆「蝦夷貞任弁を討て」を読み、
懐かしい思い出に耽った。               
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戦前戦後を通じて一橋人に愛唱されたこの寮歌は美しい。
「しず心なく桜(はな)の散る」長堤、
「落ち葉にそそぐ村時雨、野路枯れ果てて色もなく、黙示の姿芙蓉峰」など、
武蔵野の季節が繊細に描かれていて、
絵を見るような感触がある。

とくに冬を描写した「ものみな凍り滅ぶ時」の一節は、
台湾から上京して雪も氷も知らなかった私にとって、
全くやるせない実感であった。

さらに予科寮の理想を「自由の砦自治の城」と序節で定義し、
終節で再び「自由は死もて守るべし」と強調しているのは、
寮歌作詞者の意図するテーマがはっきり出ていて聴く者の心を動かした。

新入生達が聞いた噂によれば、
依光先輩は学術の自由、言論の自由を極めて真面目に考えていた為に、
思わぬ筋から干渉を受け、学校を暫く休んでいたとのことであった。

それにも拘わらず、
復帰後の先輩が自由に対する熱情を失わなかったのを見て、
我々は一段と敬意を強めたものである。

会報七月号の橋畔随想「『一橋のリベラリズムクリックについて」で
葛谷登氏(昭55社・61博社)は、
「たとえ生き残ることが出来なくても守らなければならないものがある。
それが『一橋のリベラリズム』 である」と結論している。

依光先輩と葛谷氏とでは、卒業年度において四十年もの開きがある。
その間、校名も制度も何度か変わり、
学生、学部の数も何倍かに増加している。

しかし「自由は死もて守るべし」と寮歌に歌い込んだ依光先輩の熱情は、
脈々と相継がれて今日に至っている。
これが一橋の伝統かも知れない。

この精神は、
申酉事件、篭城事件の危機を乗り切って学園の存在を守り通した
昔の先輩方の反逆精神にも相繋がるものがある。

(元オンタリオ州政府勤務)