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 亦楽 この人を見よ (3)

5組 山崎 坦

井上一造君は親友でした。悲しいことに戦後、昭和32年(’57)急逝されました。
従って残念なことに遺稿がないのです。
<●妻・裕子 断想
横浜一中出身の秀才でした。横浜市中区にご両親と共に住んでおられました。
お宅え遊びに行って中華街の聘珍楼でご馳走になりました。
中華饅頭の皮をむいて中だけ食べるんだそうで、贅沢だと思いました。

井上君は濱育ちで見るからに洗練された都会っ子でした。
ボードレールや萩原朔太郎の作品を好んで読んでおりました。

運動は一緒によくやりました。
特にバスケット部の高橋勝君のところで、亦楽会メンバーで、しょっちゅうプレーしていました。

冬はスキーに出かけました。野沢。志賀高原、熊の湯などでツアーも楽しみました。

夏休みの軽井沢の生活は懐かしい。
井上君はテノール、小林君、私はバリトン、大塚さん(東大生)がバスでコーラスをしました。
101songsを歌いました。場所はグリーンホテルのロビーなど。
井上君が岩波文庫メリメ「のエトルリアの壷」に併せ乗っていた「マテオファルコネ」を脚本して、
劇を上演しました。
野球もやりました。
読書もしました。

まだ20歳になっていなかったのかな。
中学から毬栗頭で入ってきた連中が髪を伸ばし始めました。
井上君はりージェント・スタイルでした。
タバコもお酒も練習し始めました。
青春の喜びも悩みも知り始めたでしょうか。

学校の温室の外は、戦争でした。
「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」、旧憲法兵役の義務によって、徴兵延期の特例停止により、
大学は3ヶ月繰り上げ卒業となった。昭和16年(1941年)12月卒業

卒業アルバムえの井上君の献辞
良き師、先輩、親しき友、快き學舍に惠まれた一橋六ケ年の生活はまことに意義深く樂しきもの であつた。
私はこの憶ひ出を永久に持ち、一橋人たるの自覺と誇りの下に人生を歩んで行きたい。
( 井上 一造)

実質学徒出陣の第一陣だったのだけれども、まだ戦況敗色は見えなかったから、出陣式などは行われなかった。
敗色色濃くなった昭和18年、学徒出陣式が行われ、士気の鼓舞を行わねば、ということになったのだ。

井上君は海軍に合格、短期で海軍主計中尉となった。

陸軍に入った連中は6ヶ月初年兵教育を受けていた。この間、井上君は陸軍のクラスメートを次々に訪問してくれた。
陸軍の古兵達が井上中尉に敬礼した。

井上君はやがてラバウル勤務となり、そこで終戦を迎えたと思う。

復員後 彼は旧職場に戻った。卒業アルバムにあるように就職先は日本化成となっているが、
日本化成は三菱化成、旭硝子、三菱レイヨンに分社した。
彼の職場は三菱レイヨンの大竹工場であった。

和田篤君の卒業30周年文集に 井上一造君のこと という一文がある。
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