如水会ゝ報 
平成21年(2009)3月 第944号p.2 
[橋畔随想] 


縁に導かれて一橋聖樹社に
  たけし
福 田  武(24門)

 平成十七年十二月号の如水会々報「同好会だより」 に一橋聖樹社短歌会の詠草に続いて、大正七年当時の集合写真が掲載された。
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これは同年卒業の藤沢勇次氏の送別を兼ねての歌会だった。
大変面倒見のよかった先輩の送別会を、
後輩一同が感謝の意を籠めて開催したものだったらしい。
十九名の参会者は当時聖樹社が指導を仰いでいた
若山牧水、
創作社の二名のほか、
大正八〜十年卒の学生同人である。
二月の一橋図書館横での撮影とあって、
学生達は藤沢氏以外、制服制帽にコートを纏っている。
この時牧水は三十三歳、学生達は二十歳前後だった。
 
ここに、もう一枚の写真(=掲載)がある。




前列左から三人目が本田さん、後列右が福田

大正七年から五十年経った昭和四十四年十一月に、
再会の歌会が催された時のものだ。
この様子は昭和四十五年新春号の会報にも
二十二首の詠草とともに掲載され、
「昭和二年発行された聖樹社歌集を読んで若かりし時の話、
牧水師の御人柄、酒ずきの牧水師の話等に歓談つきるところのない一夕」
とある。

この歌会に集った聖樹社の十名は大正十年卒七名、十五年卒三名だが、もう一人、私が写っている。
牧水が没した昭和三年九月当時生後二カ月で、
戦後卒の私の顔がなぜ入っているのか。

それは両方の写真に写っている六人のうちの一人、
本田弘敏さん (大10本、第十六、十七代如水会理事長)
 が関わってのことである。

本田さんとの縁は、私が東京ガス入社試験の折、
担当常務出席面接でお会いした時から始まり、
亡くなられた病院の病室まで続いた。
入社後は会社の加水会懇親会の場で拝眉する程度だったが、
昭和四十年に秘書室転属後は、
公私に亘り誘掖いただく度が深まった。

本田さんは、同席差し支えない会合の席へしばしば随行を求められた。
特に如水会に絡む会合が多く、
そのお陰で明治、大正年代卒業の大先輩方の謦咳に接する
機会に恵まれた。
このことは、その後の私の人間形成に大きな糧となった。
短歌を嗜むわけでもない私を同席させたのも、
本田さんのそのような思いがあってのことだろう。

東京ガスにはもう一人、聖樹社に欠かせない方がおられた。
鈴木忠さん
(21学) で、平成十九年に亡くなられた。
聖樹社にあって歌の指導をされ、
会の幹事を長く務められ、
三冊の歌集も出された。

聖樹社が中断はあったものの、
九十年以上の長きにわたって受け継がれてきたのは、
同氏のような方がいらしたからだと思う。
翌二十年二月号の


会報には偲ぶ歌会の詠草が掲載されている。
私はそれを目にして、
学窓の、そして会社の親炙する先輩の本田さん、鈴木さんご両人の聖樹社歌会への熱い想いが伝わってきた。
歌会を継承されている同人の方々へ感謝の表敬をと思い、
例会に赴いた。

四十年前は、先輩方から「折角の機会だから君の詠草を」と言われても、
歌の巧拙に拘り固辞した私であったが、
この歌会の雰囲気に接している裡に、
次第に心の豊かさを求め、
歌を楽しむ心が大切との気持ちに変わっていった。
加えて如水会文化活動の一端を担ってきた聖樹社の永い歴史の一部
に触れる機会があった私は、
積極的に加わって、会の更なる活性化のお手伝いをせねば、
との思いがしてきた。

表敬の積りで訪ねし聖樹社に
 縁のあるやわれも歌友に


(東京ガス(株)社友)

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