二・二六事件の日
5組 山崎 坦
その日は雪でした。
昭和11年(1936年)2月26日二・二六事件の日は覚えています。
それは この年に私どもの年次が試験に合格して東京商科大学(一ツ橋)予科に入学を許された年 という 私どもにとって特別な年だったからです。
東京商科大学豫科入学受験證票 について[新論文・随筆2003より]
その日の朝 いつものように 世田谷の家を出て 太子堂から玉電で渋谷乗換 省線(国電山手線のこと)代々木乗換中央線鈍行にて市ヶ谷を目指しましたが、電車は四谷より先えは行きませんでした。
所謂反乱軍が中央を占拠していたわけです。
四谷から歩いて市ヶ谷加賀町の中学校まで登校しました。当時は歩くことは苦になりませんでしたね。
学校では授業はなくて何か行事があったように思いますが、忘れました。早々と帰宅したように思います。
一般人は圏外にいて静かでしたが、永田町首相官邸、赤阪山王ホテル、警視庁、日比谷、朝日新聞周辺が占拠され着剣した小銃を手にした兵が立哨しており、要所に機銃を据えていましたから、一般人は怖がっておりました。
当時はまだTVはありませんでしたから、情報はラジオによっておりました。
やがて 戒厳令が発令され、司令官は香椎中将ということでありました。いろいろの噂の中には、軍艦が横須賀から大砲を東京の要所に向けて照準を合わせているなどというものもありました。
やがて有名な「兵に告ぐ」という声明がラジオから盛んに流されて、反乱軍が静かに帰順したようでした。、その間4日だったようです。
二・二六事件は昭和7年(1932年)の五・一五事件に次いで起こり軍部独裁、戦争拡大の方向に加速していきました。
驚いたことは「文芸春秋」にみる昭和史第一巻の 昭和5年(1930年)のところに直木三十五の 「太平洋戦争」を書く前に という文章を 見つけたことでした。
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私は 同期の学友と同じく 昭和17年(1942年)2月1日 粉雪の舞う寒い日に 赤阪一ッ木 (現在TBSのビル)の歩兵第101連隊(鵄第3062部隊)に入営しました。
前身の歩兵第一連隊は約400名が二二六の反乱軍に参加したため満州孫呉(既定通りともいわれるが)に移転させられて、あとは一〇一連隊が継いだといううわさもありました。
それから私は太平洋戦争終戦後の昭和21(1946年)年1月31日、やはり雪が降って寒い日でしたが、足掛け5年ぶりに上海よりLSTで輸送され鹿児島経由復員帰宅しました。65年前のことです。