如水会々報
2014年2月号 NO.998
橋畔随想、
元英語の先生のお名前
山崎
同期の一組、鈴木貞夫君(16学後)が面白い本を読んだと電話をかけてきて、
青木富貴子著『占領史追跡』 (新潮文庫)を紹介してくれた。
この本は
日本生まれで日本贔屓であったニューズウィーク東京支局長パケナム (イギリス人) の諜報日記をもとに書かれた
ノンフィクションである。
パケナム記者は、戦後天皇陛下と日本の多くの重鎮にインタビューし、知られざる戦後日本の真相を暴いた。
GHQに睨まれ、呼び出されたこと、
そしてまたどういう訳か外交局将校から帝国ホテルでランチをしようという誘いがあったこと、
その将校のお名前が「スピンクス」博士であったことなどが書かれている。
話がここまでくると、我々十二月クラブ*のメンバーは「へ〜」と理解できるのだ。
早速国際部の執行一平君(四組)、大野晴里君(六組)にも連絡した。
いやはや懐かしい話だと大喜びであった。
一九三六年のことだから七十八年も前の話になるが、
我々にとっては誠に身近な話なのである。
私ども十二月クラブメンバー 七組のうち
一〜六組は、昭和十一年三月に東京商科大学予科の入学試験に合格した者(筆者は五組)、
七組は昭和十四年に高等商業、専門部、教員養成所から大学本科入試に合格した者である。
予科からの学友は六年間一緒なので特に友情が厚い。
今でも大事に保管してある受験證票は母が古い手箱の中に入れて取っておいてくれたものである。
試験は国語、漢文、化学、数学、英語、口頭試問および身体検査で、
英語の部には「昭和十一年三月十九日午前九時ヨリ正午マデ (解釈、作文、書取)、
携帯品(ペン、インキ、鉛筆、ナイフ、消ゴム)」と書かれている。
書取は英語の「ディクテーション」のことで、外国人の英語教師に
「スウイッツアランドイズ…」と途端に大声で読みあげられて、
特に田舎から出てきた受験生は度肝を抜かれたと後々までの語り草であった。
蛇足だが、受験證票の封筒に書かれた大学の住所は、
東京府北多摩郡谷保村国立駅南、電話は国立五七である。
当時、英語の外国人教師は三人おられた。
陰気な感じのスコットランド人のタイスリッジ先生、
ハンサムなオ一ストラリア人のラツソウ先生、
細身長身のスマートでパイプがよく似合うアメリカ人のスピンクス先生であった。
ここが不思議なところだが、
時を同じくして昨年十二月号の橋畔随想に掲載された鈴木明郎君(30商)の遺稿
「二度の一橋講堂返還」clickを読ませて頂いた。
昔を思い出させるに充分面白い随想で、
その中に「事前調査で本学の元英語の先生が一等書記官でGHQにおられることが分かった」、
「長身でスマートな方だったように記憶している」、
「お世話になつた肝心の一等書記官のお名前を今、思い出せず…何方か御存じであろうか」と書かれている。
ここで十二月クラブのメンバーならば、懐かしい先生のお名前を全員声をそろえて「スピンクス先生!」と言うだろう。
先生のフルネームはチャールス・ネルソン・スピンクス。
これで鈴木明郎君がすっきりされたら幸いである。
遺稿を投稿された彼の親友、天野順一君(30経)にも答えをお伝えした。
鈴木君が随想に書いている四大学英語劇大会は、
昭和十六年公演の後、
同年末の日米開戦、第二次世界大戦突入に伴い中断され、
戦後四年を経て昭和二十四年に再開されている。
その頃は学内でも学部、予科、専門部の語学部合同での英語劇大会が盛んであった。
英語が大好きであった鈴木明郎君のご冥福を祈る。
(元三菱商事葛ホ務)
*「十二月クラブ」とは、昭和十六年学部後期卒業生の年度会です。
十二月二十七日に繰り上げ卒業され兵役に服させられました。
同期は三百五十二名おられますが、三十五名が戦死されました。
昭和二十八年以前卒業の年度会で唯一HPを開設しております。
(事務局)
如水会々報 Feb2014