如水会会報第889号平成16年5月号 (詳細)12月クラブ・ホームページ
橋畔随想より 卒業40周年文集「波濤」
「私と演劇」大串隆作
或る日の兼松講堂 (クリック)
3組 大串 隆作
昭和十六年(一九四一)十一月十七日、国立の兼松講堂は実に忙しい一日であった。
午前の中山伊知郎教授、矢部東大教授の学術講演につづき、
午後一時から「ソーントン・ワイルダーに就いて」と題する西川予科教授(英文学) の講演が行われた。
更に内藤濯教授(仏文学)から劇の説明があったあと、
長岡輝子演出による文学座の『わが町』三幕が上演されたのである。
この日から三週間後、わが国はアメリカとの戦争に突入した。そして文学座はこの日を最後に終戦まで、『わが町』を公演することはなかった。
町中、「鬼畜米英」のビラが氾濫する時代であった。
私にとって 兼松講堂の思い出 は 『わが町』 が上演され、高瀬学長始め大学の先生方も学生達と一緒になって観劇し、夕闇せまる頃、万雷の拍手裡に劇が終了した光景である。
同年十一月二十五日付一橋新聞は「変転の時流をよそに静かに生を反省」の見出しで、この日の講演と演劇について大きく紙面を割いている。今ではこのことを知る人は少なくなったが、今回の兼松講堂改修を機に改めてここに語り継いで置きたいと思う。
昭和十六年七月、文学座が勉強会と称してソーントン・ワイルダー原作『わが町』を長岡輝子演出により国民新劇場で公演することになった。
当時私は大学劇研の責任者で、これは是非観たいと思った。その理由は二つある。
一つは、この『わが町』という劇は舞台装置がなく、小道具もほとんど使用しないというこれまでの商業演劇では考えられない画期的な新しいジャンルであること。
もう一つは、この戯曲がワイルダーの原作であること。彼は一九二七年『サン・ルイス・レイの橋』という小説を書き、アメリカでピユリッツアー賞を受け、日本でも『運命の橋』という題名で翻訳書が出ていた。小説の基底に流れるものはキリスト教精神で、特にその中で 「生者の世界と死者の世界を結ぶものは愛であり、思い出こそが二つの世界の架け橋となる」というテーマが印象的であった。
国民新劇場で観た『わが町』は、私がこれまで観て来た文学座のどの芝居よりも良かった。
劇はアメリカのどこにでもありそうな二つの家庭に起きる子供の成長、恋愛、結婚、葬儀といった日常生活の中で、人間の愛と孤独、生と死を深く考えさせるものである。
一貫して流れるのはピユーリタニズムであった。
舞台装置も小道具も極端に制限し、専ら観客の想像力を刺激し観客の眼に映るもの以上の世界に迫ろうとする手法をとり、原作の良さと文学座の高い演技力が相侯って誠に感動的な舞台であった。
この勉強会のあと、東京公演があった。劇研の仲間を誘ってもう一度観に行った。
かねて、私は舞台装置も小道具も要らず観客に豊かな想像力を要求するこの劇を国立の兼松講堂で観られたら素晴らしいと考えており、理解力の高い学友が観たら必ず満足するという確信があった。
そこでこの考えを劇研の仲間に相談したところ、全員賛成してくれ、是非この企画を文化祭の一環として実現しようと話が纏まった。
ただ、当時の戦時色濃厚な情勢下では計画の取り進めに当って、実に多くの困難に遭遇した。
しかし神保予科教授(劇研部長)、西川教授、内藤教授等の温かい支援と、総務部役員だった 斎藤裕君 (のちの如水会理事長) など友人達の全面協力が得られ、遂にこの企画は実現をみることが出来た。
六十三年近く前の出来事を想い起しながら、今私の心に去来する熱い思いは次の一言に尽きる。
「わが一橋大学は飽くまでも学生を信頼し、自由で独創的な、官学にして私学であった」、と。
如水会編集課(註)‥十二月クラブホームページに詳細掲載。 「大串隆作」で検索して下さい。)
劈頭にもリンクを張っておきました。詳細並びに写真は本HP「卒業40周年文集・波濤」の大串君の寄稿「私と演劇」をご覧下さい。写真3列右から4人目学生服が大串君です。 (クリックしてください。)