私の手許に、下記写真の通り満身創痍の、論文集があります。

この論文集に関しては1組 大内 孝 君が十二月クラブの卒業50周年記念文集・波濤第2に「2冊の本」と題して言及しています。リンクを張ってあるので下線をクリックしてお読みください。

この論文集は私共が4月に予科え入学した年の昭和11年(1936年)12月12日発行されたもので、その内容は
当時未熟な私たちには難しかった。
その頃、学園の外では、二・二六事件があり、軍部の勢力が日に日に強くなってゆく騒然たる時代でありながら、
学内は沈滞していたようである。
その間の事情が下記に収録した巻頭の「論文集の刊行に際して」の一文で明瞭に説明されている。
今も 大学のあり方 が盛んに論じられているが。常に変わらぬ問題のようで、感慨深い。

この巻頭文は「生きた学問の振興、最高学府確立に努力しよう」という檄文といえよう。(以上5組山崎坦)



   論文集の刊行に際Lて
 
昨秋一橋は六十の誕辰を迎へた。
回顧すれば、商法講習所の昔より単科大学としての今日となるまでは−申西・寵域両事件は申すまでもなく、
実に先輩のの血と涙との奮励の結晶である。その間、幾多の俊秀を実際界に或はまた学界に送り、邦国の進運に貢献したるもの鮮少でない。           
斯る輝かしい過去を追憶し、新しい明日への躍進のよすがにもと、一橋還暦の祝典を昨秋盛大に挙行する豫定
であつた。数々の華しいプランの下に著々と準備を進めてゐたのである
                        
然るに、図らずも、ここ十数年来、次第に沈滞の淵に沈みつゝあつた一橋は、積弊終に極つて、所謂白票問題
を惹起するに至つた。茲に、我等は敢然粛園振学め為に蹶起したのである。兄弟牆にぐ下剋上等の醜悪なる′
世評も、狂瀾を既倒に回して以て、最愛の一橋を真に学問の道場たらしめむとする我等には、全く馬耳東風であ
った。大道の為に、涙を呑んで、小節を捨てたのである。
                                             
遂に、我等の尽力は芽ばへ、新学長を迎へて、学内和衷協同大いに粛園振学に邁進する事となつた。
茲に於いて、我等は、一橋の中に斯る宿痾が存在してゐた事、その為に社会を騒がすに至つた事、社会から一橋
の鼎の軽重を問はるゝに至った事、更に又、大道の為とは云へ小節に悖った事等に対して、只管謹慎する事とな
つた。

従つて、六十周年記念事業も本年度に延期する事としたのである。
然るに、本年二月、叉々、学園の和合は完全に破壊された。積弊は余りに深く、昨秋の傷は癒えなんとして癒
え得なかつたのである。   
二・二六事件等の為、問題め解決は遷延された。然し不撓不屈の力行は報いられずには措かない。我等め要望
は貫徹され、六月三日、全一橋学生大会の名に於て、左の声明を発し、運動を打切つたのである。、

                                           
 「紛擾茲に解決。
 一橋の更生は、学園に集ふものゝ双肩に課せられたる責務であり、同人の不断の努力に待たねばならね。
 吾人は、爾今、小我を捨て大我に就き・廣く且つ深く時代の趨勢を察知し、近来一般的に転落せんとする大
 学の覚醒を促し、真に其の称呼に値する最高学府の確立に向ひ、全幅の努力を捧げんことを期す。」

 これと同時に、我等は前途と全く同様の意味に於て、謹慎する事にした。今、尚ほ、謹慎中である。
茲に於て、六十周年記念事業としてのお祭り騒ぎは取止め、右声明に表明した我等の決意達成の一端ともなす
べく、本記念論文集を刊行する事とした。 

 学内多事且つ日子僅少の為、十全の精力を傾注し得なかつた事は甚だ遺憾であるが、これは正に全一橋の労作であり、全一橋が協力一致振学に進むべき首途をなすものである。

 斯くて、本書は一括の先輩、教職員、学生の執筆せる論文二十七篇を集む。

実社会の第一線に立つ先輩を比較的多く煩わし得た事は、生きた学問の振興を期する我等の喜びである。
学生の論文は、特に募集した商業・経済・法律に関する懸賞論文中首席当選のもの、及び振学の重責を負って生誕せる一橋学会各研究室の労作である。
 終わりに臨み、執筆者各位、並びに編纂に當り、種々助言を惜しまれなかった中山助教授、終始熱心にその労をとられた学生井口政一君に深甚の謝意を表す。
                                                           
      昭和十一年十月二十八日

                                  東京商科大学
                                       一橋会理事会