四七 大木司法卿の造語造字案
法は国民意識の表現であるという位であるから、一国の法を他国に継受することは、決して容易の事ではなく、多くの心労と、多くの歳月とをもって漸《ようや》くその民情に適し、その時要《じよう》に応ずるだけを継受することが出来るものである。しかるに、我明治維新当時の大政治家連中は、過去には回天の事業を仕遂げた経験があり、現在にはかつて夢想だもせざりし泰西の文化を観《み》、将来には条約改正の必要があったので、一挙して能く彼の文物制度を我邦に移植することが出来るものと信じていたようである。かの江藤司法卿がフランス民法を翻訳して我民法としようとした如きは、就中《なかんずく》最も大胆なものであるが、その後ち大木司法卿もまた泰西の法律を我国に輸入するには、訳語を作るの困難があるのみならず、その作った訳語は、素《も》と彼にあって我にない事物を指すのであるから、どうせ我国民に取っては新語である。[#以下傍点]故に彼の語の発音をそのままに我に取る方が彼我相通じてよいから、いっそ新字を製して直ちにこれに原音を発せしめて、原語と同視せしめる方がよいと考えられた[#傍点終わり]。そこで省内に委員を置き、当時支那音に通じたる鄭永寧氏等をして法律語の新字を作らしめることとなったが、委員の案は明治十二年になり、その結果は同十六年に「法律語彙[#「法律語彙」に白丸傍点]」と題して出版せられることとなった。同書は実に一千百七十余頁の大冊で、法律語をabcの順に並べ、これに訳語または新語、新字を附し、本義、釈解、参照をも添えてあって、実に本邦法律史上無類の奇書である。この書に載せてある新法律語およびその新字を作った標準については、「音釈字例」と題して鄭永寧氏が巻頭に記されたものの中に左の如く説明してある。
[#以下引用文、行頭の「一」は2字下げ、他の行は3字下げ]
一、茲《ここ》[#原文は玄を左右に並べた字だが、別字]ニ堂諭ヲ奉シ、支那字ヲ用テ、法国律語ノ音ヲ釈ス、其旨趣《しいしゅ》ハ、凡《およそ》原語ノ訳シ難キ者、及ビ之ヲ訳スルモ、竟《つい》ニ其義ヲ尽シ得ザル者ハ、皆仮リニ意訳ヲ下シ、別ニ漢字ヲ以テ、原字ノ音ヲ照綴《しょうてい》シ、更ニ之ヲ約併シテ、二字或ハ一字ニ帰納シ、其漢音ニ吻合《ふんごう》スルヲ以テ、洋音ヲ発シ、看者ノ之ヲ視ル、猶《なお》原語ヲ視ル如クナラシム、其漸次ニ約併セルハ、簡捷ヲ尚《とうと》ブ所以ナリ。
一、一字卜為セシ者、皆新様ニ似タレドモ、敢テ古人製字ノ法ヲ倣フニ非ズ、其旁画、動《やや》モスレバ疑似ニ渉ルヲ以テ、※[#※は口冠]※[#※は口偏]等ノ片爿ヲ加ヘ、故《ことさ》ラニ字形ヲ乱シ、以テ真字ト分別アルヲ示ス、且此字ニ音無ク義無シ、即原語ノ音ヲ縮メテ、此字ノ音卜為ス者ナリ。
一、新字ノ頭ニ、※[#※は口冠]アル者ハ、亜《ア》頭ノ語ナリ、他ノエ、イ、※[#※は口偏]、ユ、モ埃《エ》伊《イ》阿《オ》兪《ユ》頭ノ語ニシテ、‖アル者ハ、匐《べ》以下ノ単字頭ト知ルベシ。
[#引用文終わり]
今、一例を挙げて見ると、「a」頭の語から作った新字には、皆「※[#※は口冠]」冠が附けてある。例えば、
[#以下引用文]
Acte 亜克土《アクト》 行為、証書、 ※[#※は口冠に軋]《アツ》
Action 亜克孫《アクシ[#「シ」の右上に小さな四角あり]オン》、 株権、訴権、 ※[#※は口冠に温]《オン》
Adoption 亜陀不孫《アドプシ[#「シ」の右上に小さな四角あり]オン》、遏噴《アプオン》、 養子、 ※[#※は口冠に恩]《アオン》
[#引用文終わり]
また「e」頭の語から作った新字には「※[#※は工偏に似た字]」の篇が附けてある。
[#以下引用文]
Expropriation 埃※[#※は「尅」の寸を土に変えたもの]不※[#※は「羅」に口偏をつけたもの]不略孫《エクスプロプリアシ[#「シ」の右上に小さな四角あり]オン》、渥礬《ウーパン》、 引揚 ※[#※は工偏に遠]《エアン》
Epave 埃叭附《エパヴ》、 紛失物、 ※[#※は、偏は工、旁は「奥」の下に土を置いたもの]《アウ》
Exception 埃※[#※は「尅」の寸を土に変えたもの]色不孫《エクゼプシ[#「シ」の右上に小さな四角あり]オン》、易損《エクスオン》、 例外、 ※[#※は、偏は工、旁は竹冠の下に「均」を置いたもの]《イウン》
[#引用文終わり]
また「i」頭の字は皆「イ」篇が附けてある。例えば、
[#以下引用文]
Indivisibilite[#「e」はアクサン(´)付き] 因地微逝皮重太《インデイヴイジビリテ》 、維誓《ウエイヅエイ》、 不可分、 ※[#※は、偏は人、旁は貰の右横に力を置いたもの]《イー》
[#引用文終わり]
などのようである。「u」頭の字は「ユ」冠が附けてある。例えば、
[#以下引用文]
Unilateral[#「e」はアクサン(´)付き] 愈尼剌太喇立《ユニラテラ°ル》、揶他《ヤーター》、 偏単了、 ※[#※は、「ユ」冠の下に「鴉」を置いたもの]《ユアー》
[#引用文終わり]
などのようである。その他は悉《ことごと》く「※[#※は口偏]」篇が附けてある。例えば、
[#以下引用文]
Bail 友揖《バイ》、 賃貸、 ※[#※は口偏に敗]《バイ》
Donation 陀納孫《ドナシ[#「シ」の右上に小さな四角あり]オン》、 贈与、 ※[#※は、偏は口、旁は草冠の下に屯(上に突き出ない字体)を置いたもの]《ドアン》
[#引用文終わり]
などのようである。当時このような事が実行せられようと思うて、数年間多大の労力と費用とを費して、[#以下傍点]大きな餅を画いた[#傍点終わり]のは、余程面白い現象といわねばならぬ。
---入力者による注意書き・その他---
底本:
岩波文庫「法窓夜話」 穂積 陳重 著 1980年1月16日第一刷発行
入力・校正・ファイル作成者:
法の美濃紙
公開日:
1999年10月1日
底本との異同:
底本にあった内容がいくらか抜け落ちている。以下に箇条書きする。
1.頁数の数字(ノンブル)
2.一部(節のタイトルなど)の漢数字がゴシック体であること
3.ページの上部に横書きされていた節の題名
4.挿画・写真
5.外国語の日本語訳(著作権保護期間外のものを除く)
6.文庫編集に当たって付されたと推測される注釈
7.解説文
4.、5.、6.、7.については著作権保護の立場より省略した。
ただし、ルビについては知的営為による産物ではあるものの、読者の便宜を考え、これを採用した。
また、底本では傍点、白丸傍点としているところは、それぞれ下線、青字に下線とした。
「青空文庫」の入力方法との異同:
入力者注の書式は青空文庫での慣用表現よりも簡略化した。
「|」は、ルビのかかる範囲が容易に判断できる場合には省略した。
漢文の返り点は「レ一二」でなく、「レ−=」で示した。
ドイツ語のウムラウト(¨)は入力者注で示さず、a、u、oの後ろにeをつけた。
著作権法による保護・非保護に関する注意書き:
このファイルは著作権保護期間を経過した文書を電子ファイルに置き換えることにより作成した。ファイルの作成にあたって、補充的に当該文書に付け加えたり、変更を加えたりした部分があるが、これら従たる部分は、それ以外の主たる部分と同様に、著作権法による保護を受けない。