如水観世会

「一橋観世会」の歴史

  


調査の結果、以下の事項判明( 佐藤佑治氏(S43社)レポートより )
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「一橋観世会」の発足
「一橋観世会」の発足については、1930年(昭和5年)と思われる。
  確定できないのは、1938年(昭和13年)の卒業アルバムに「昭和の始め」とあり、 1941年(昭和16年)卒業アルバム(3月)には「本年度(1940年度)は当会創立十周年に当り」とあり、 同じ1941年(昭和16年)のもう一つの卒業アルバム(12月)には「創立以来十二周年」とあるからである。 前者は、年数を「満」で数え、後者は「数え」で数えているものと思われる。 さらに、ややこしいことに、1941年(昭和16年)は、「戦時臨時措置法」実施により、3月及び12月(3カ月年次短縮)の2回の卒業式があった。
 会の名称が「商大観世会」でなく「一橋観世会」なのは、構成員(学生)が  本科生(学部生)だけでなく、 予科生や付属商学専門部生・付属商業教員養成所生も含んでいたからかと思われる。      



観世流謡曲クラブの発足      
観世流謡曲クラブの発足は、明治末年にさかのぼるようである。
『如水会報』昭和35年12月号掲載の勝屋利明「一橋護持会の話」によれば、 「明治の末期に一橋に護持会という謡会のあった」とあり、 観世流の謡会があったことがわかった。
護持会の名の由来は、校地のあった一橋門外は、江戸時代享保の大火後以降明治初年にかけて 「護持院が原」(享保大火以前「護持院」にあった「護持院」は大塚に移転、跡地は火除け地となった)と 呼ばれていたことによるのではといわれている。
 1902年(明治35年)に「一橋会」が発足し、「研究・編集・英語・端艇・庭球・撃剣・柔道・弓術の八部が設置」とあり、 当時のいわゆる公認クラブの陣容が判明する。卒業アルバムにも1904年に、まず庭球・端艇、1910年には上記八部が全部掲載されるようになる。 「護持会」が卒業アルバムに登場するのは、1917年(大正6年)である。 この段階で公認クラブに昇格したかは今のところ確認できていないが、いずれにせよ明治末年に謡会があったことが分かった。 ちなみに宝生会は明治末年に発足している。

戦後の「一橋観世会」      
戦後の「一橋観世会」は、これまで1953年(昭和28年)発足とされていたが
1年早い1952年(昭和27年)であることが判明した。
 1953年は一期生の卒業した年であり、再出発はその一期生の卒業アルバムによれば「一橋観世会は生まれてまだ七ヶ月」と あることあり、1962年発行『一橋観世』二号冒頭の藤井保紀幹事の「ごあいさつ」に 「 創立以来十年」とあることから裏付けられる。