第1部 開発・二つの視点

最終更新日:1999年5月6日


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第1章 中央の視点

この章では、整備新幹線に関するさまざまな問題を、中央の視点(つまり国・政府の視点)から見てみようと思う。

1. 整備新幹線計画のあらまし

1970(昭和45)年に全国整備新幹線計画法が成立して、東北(盛岡−青森間)、北海道(青森−札幌間)、北陸(高崎−長野−富山−敦賀−大阪間)、九州(博多−鹿児島、博多−長崎間)の5線が整備計画線として指定された。これが一般に言われている「整備新幹線」と言われているものである。ここで、整備新幹線計画がどのように進められてきたかを見てみよう。

政府は1982(昭和57)年9月の閣議で国鉄(当時)の非常事態宣言を発し、国鉄再建に向けての緊急対策をまとめた。それを受けて、「設備投資は安全確保のための投資を除き原則的に停止し、整備新幹線の計画も当面は見合わせる」との答申がなされた。これによって早期開通が期待されていた計画は一時的に暗礁に乗り上げたが、それから2年後の1984(昭和59)年12月の次年度予算編成に関する政府・自民党の政治折衝の中で、しびれを切らした自民党は「もうこれ以上待てない」として政府と以下のような合意に至った。その合意内容を簡単に言うと、(1)東北(盛岡−青森間)・北陸両新幹線の1985(昭和60)年内着工(2)国からの予算計上<3>並行在来線の廃止の3点となる。これらの決定、特に(3)の内容には大きな問題があると言わざるを得ない。この「並行在来線の廃止」に関しては、自民党が大蔵省や国鉄再建監理委員会を説得するための戦略(つまり、赤字在来線問題を気にかける両者を納得させるための場当たり的措置)や、もっと言えば詐欺的政治手法とも取れ、整備新幹線が計画されている沿線の住民にとってはまさに寝耳に水であった。さらには、計画遂行にあたっての財源はどうするのかということも大きな問題であった。

先に挙げた1984(昭和59)年の政治折衝で政府・自民党は一応の合意は取り付けたが、並行在来線のどこを廃止するのかといったことや財源問題に関しては全く議論の進まないまま時間は過ぎ、東北・北陸新幹線の着工時期が来てしまった。ここで自民党は早期着工を強く求め、政府は準備が整っていないとして着工に難色を示したため両者の対立が発生した。ここでまた双方が歩み寄って一定の合意を得るのであるが、その合意の中の「地域の事情により新幹線駅周辺環境整備事業を行うことができる」という項目が後において大きな意味を持ってくるのである。

駅周辺環境整備事業というのは、駅舎の改良や駅前広場の整備など、整備新幹線の本体(線路)とは直接関係のないところを先に整備してしまうことである。つまりこれは本体がいつ着工されるか分からないのにサブ的なインフラを先に造ってしまう「見切り発車」的なものだ。こうなると本体も着工しないわけにはいかなくなり、周辺環境整備が整備新幹線着工の既成事実的役割となってしまったわけである。これにより沿線住民は新幹線ができると納得し、自民党も何とか面目を保った。これには政府が自民党の顔を立ててやるために配慮したものだとの声もあった。この決定に難色を示したのは大蔵省で、このようななし崩し的な着工は国鉄再建に反するものであり、ひいては国家の財政再建にも大きな問題を残すと表明した。

このころから毎年予算編成の時期になると、整備新幹線の建設を巡って自民党と政府の攻防が激しくなるようになった。そして1985(昭和60)年末の攻防では東北・北陸に加えて九州新幹線の鹿児島ルートにも工事費が付けられた。これには鹿児島県選出の自民党国会議員が猛烈な働きかけをしたために実現したものである。それ以前の段階で工事費が付いていたのが東北・北陸のみだったので九州はやや出遅れた格好になり、1987(昭和62)年4月の国鉄分割・民営化以降になると整備新幹線問題は当分先送りされてしまうのではないかという焦りが彼らにはあったようだ。しかしながら、こちらも本格着工ではなく駅周辺環境整備が先に行われ、東北・北陸同様既成事実の積み上げ、見切り発車となったことは当然である。

また、建設方式や建設優先順位についてもいろいろとつば競り合いがあった。建設方式については、フル規格を要求する自治体に対して、国はミニ新幹線方式やスーパー特急方式を押しつけようとして対立した。建設優先順位も地方としては自分のところが早いほうがいいに決まっている。この辺りでも、その地方出身の議員たちは地元に顔を立てるべく必死になって政府に嘆願した。

このようにして、いままで予算編成や選挙のたびに整備新幹線に関しては建設だの凍結だのといった一進一退が繰り返されてきた。結果として現在のところ東北新幹線は盛岡−八戸間で建設中、八戸−青森間で着工決定、北陸新幹線では糸魚川−魚津・石動−金沢間で建設中、長野−上越間で着工決定(但し高崎−長野間は冬季長野五輪という特殊事情によりすでに開業)、九州新幹線では八代−鹿児島間で建設中、船小屋−八代間で着工決定ということになっている。しかし、当然ながらこれらの決定にはいろいろな問題がからんできており、以下ではその中で最も大きいと思われる財源の問題と並行在来線の廃止について考えてみたい。

2. 整備新幹線建設における諸問題

まずは財源についてだが、言うまでもなく新幹線の建設には莫大な費用がかかる。その金は一体どこから出てくるのか。当初、自民党は整備新幹線を公共事業方式で建設し、財源は建設国債を発行して確保、地元は建設費の10%を負担するといった基本的考えを持っていた。しかし、政府・大蔵省はそれに反発し、財政投融資と国鉄債発行で賄うことを希望した。建設国債で財源を賄おうとした場合、元利償還がふくらんで行財政改革が水泡に帰してしまうというのが政府の言い分である。また、国鉄がJRに変わることを受けて、民間鉄道の新規建設を会社自身が費用を負担しないで国費でやろうというのはそもそも筋が通らないという意見も出始めた。そして紆余曲折の結果、1989(平成元)年1月に整備新幹線の建設費はJR・国・地方自治体が負担することが決まった。比率としてはどの線も基本的にJRが50%を負担することとなった。その際、国の財源には運輸省所管の公共事業に配分されるべき予算の一部を転用して充て、地方の財源には地方債の発行によって充てられることとなった。これはかなり駆け込みで決定した事項で、昭和天皇の大喪の礼に水を差したくなかったり、その年に予定されていた選挙のために「ふるさと創生、均衡ある国土発展」を国民にアピールしたかったという政治的意向が大きく絡んだものであったことは否定できない。

しかも、JRの財源調達の仕組みにも問題がある。簡単に言うと、ある区間で生じた利潤を他の区間の建設費に回すことができるということだ。つまり、例えば北陸新幹線でできた利益を九州新幹線の建設費に回すこともできるわけである。これは旧国鉄時代の内部補助に限りなく近いものであり、だったら何のために国鉄を分割・民営化したのかということになる。苦し紛れに財源を調達しようとすると、必ずどこかでこのような問題が起こってしまう。

次に並行在来線の廃止問題について見てみることにする。これは国鉄時代の合意されたことであるが、国鉄が民間会社のJRになった後、JR各社はいま一度各整備新幹線の採算を予測するとともに、並行在来線の新幹線開通後の採算も併せて予測した。それによると東北本線の沼宮内(岩手県)−八戸(青森県)間、横川(群馬県)−軽井沢(長野県)間の県境部分を走る2区間はどうしても廃止せざるを得ないという結論に至った。九州の一部の区間でも、結論こそでなかったが廃止せざるを得ない区間があるようであった。これは沿線住民にとっては大きな衝撃になったが、JRや国としては整備新幹線のためなら在来線利用者に犠牲になってもらっても仕方がないという考えがあったのは事実である。しかしながら、長野新幹線が開通して実際に廃止された横川−軽井沢間のように、在来線が走らないと何かと不便を強いられる人も数多くいる。採算面ばかりに目を向けるのではなく、地元住民の利便性をも考慮する必要があるだろう。


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