第2部 地域開発とは

最終更新日:1999年5月18日


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第1章 全国総合開発計画

1. 全国総合開発計画に至るまでの時代背景

1950年代前半を振り返ると日本はまだ戦後の余韻を残していた。国の開発に関する仕事は戦後復興であり、次の三つに限定できる。まずは米づくりであり、それは国民に食糧を安定して供給するために水田を開発し、農業用水を引くことであった。次が政府予算の傾斜配分で始まった電力開発であり、それはダムの建設を進めることであった。もう一つが、戦争中の乱伐で洪水が絶えなかったため、治山治水対策を進めることであった。1950(昭和25)年に国土総合開発法が制定され、国土開発の全国的総合計画を作成するよう方向づけられたが、戦後復興に忙殺されていた当時、計画作成担当者に将来目指すべきヴィジョンが見えるはずもなく、正式に決定しうる計画が作れる状況ではなかった。一方、地方自治体に目を向けると、すでに開発に動き出していた。それぞれ工業開発をしなければ自分たちの地域が潤わず、全国に立ち後れてしまうという気持ちを早くから抱いて、東京湾や瀬戸内海では埋め立て計画が進み、一部では着工すらしていた。

1950年代後半になると日本経済は神武景気、岩戸景気といった好景気を迎えた。1956年〜1960年の平均成長率は8.5%であった。1956年の経済白書では「もはや戦後ではない」と述べられている。開発面では、太平洋ベルト地帯で臨海工業地域が形成され始めた。また都市問題に目をむけると、三大都市圏への人口流入によって、都市の過密化と、僻地の過疎化が進行し始めた。結局それら諸問題解決を含めた全国的計画の完成は、1960年代を待つことになる。

2. 全国総合開発計画

(1)全国総合開発計画の登場

1960年代、国民所得倍増政策の展開に伴って地域開発がクローズアップされた。その要因は二つ考えられる。第一は、企業が新たな工業立地を求めて行動を開始したことである。この時代の好景気を背景に企業は技術革新を進めており、それを実現するために新工場の建設が必要になったのである。第二は、各府県、地方自治体が地域間所得格差の縮小のため、工業誘致競争に走ったことである。

所得倍増計画は産業立地政策として「太平洋ベルト地帯」の構想を生み出した。この構想は、既成の四大工業地帯である、京浜・阪神・中京・北九州への工業集中を制限し、太平洋ベルト地帯の新しい地域で産業基盤強化の投資をして工業を誘致しようとしたものだが、太平洋ベルト以外の後進地域からの不満が増大し、利害対立は避けられず、実行に移されなかった。このため、政府は後進地域の開発を配慮した「全国総合開発計画」の策定を急ぎ、1962(昭和37)年10月に閣議決定した。政府は「この計画は工業化を開発の軸に据えているが、同時に地域の均衡ある発展をはかるため、拠点開発方式を採用した」としている。拠点地域とは、立地が容易で投資効率が高く、波及効果の大きいという条件を備えた地域であり、広域経済圏の中心となるべきところである。一全総は、全国を過密地域・整備地域・開発地域に分け、過密地域については産業の集積を抑制し、残る二地域を拠点開発方式によって開発を進めることとした。すでに1961(昭和36)年に制定された「低開発地域工業開発促進法」と「産炭地域振興臨時措置法」は、この一全総の路線に沿っていたことも見落とされてはならない。総合開発計画の制定によって、全国で44もの地方自治体が工業化の拠点指定のために激しい陳情合戦を行った。その結果、全国で13の新産業都市と、6つの工業整備特別地区の指定がなされた。政治がらみで予定の10地区より多い指定となったが、1960年代後半以降の新規立地が実現したのは、ほとんどこれらの地域であったこともまた事実である。このように、1960年代においては、地域開発とは工業開発と同義語であったといえる。

(2)結果と新計画への反省

この総合開発計画の推進によって、地域開発ブームがエスカレートし、地域社会を根底から揺り動かすことになった。工業の地方分散を唱えた一全総だが、実際企業は集積の利益を求めて立地するという動きが活発で、環境問題や社会的費用負担についての配慮がなかった。そのため過疎・過密は進展し、都市における渋滞と混雑の激化、公害による環境悪化、地価高騰と、高度成長の負の部分は1960年代が深まるに連れて急速に拡大していった。そして、公害問題の深刻化によって、各地で工業立地反対運動が盛り上がっていった。一全総は日本経済が計画の想定をはるかに上回るスピードで成長したために、計画と現実との乖離は無視し得ないものとなった。その最たる例は自動車の台数の増加である。予想以上に増加したため道路や駐車場の整備が追いつかなくなった。それについては専門家の間で、1960年代後半からインフラ、すなわち道路・鉄道・港湾など産業基盤の社会資本をどう考えるかが課題となった。それは高度成長期までのインフラの大部分が明治期に作られたものなので、その構造に限界がきていたからである。そのため長期的視野に立って、経済成長に回す資源配分を長期のインフラに回すべきだとする見解が出た。それは、コンビナートに力を注ぐより日本の交通や河川を基本的に見直そうという見解である。その見解は土地問題や公害問題によってその時点では立ち消えとなるが、次の新しい全国総合開発計画への課題となっていく。


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