第2部 地域開発とは

最終更新日:1999年5月18日


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第2章 新全国総合開発計画

1. 計画の特色

一全総に見たように1960年代の日本は、過密・過疎、環境破壊の全国的広がり、住民福祉の遅れ、地方経済の疲弊などに対する批判の声が世論となった、政府の高度成長型経済政策と地域開発政策は、根本的な転換を迫られることになった。ところが1969(昭和44)年5月に誕生した「新全国総合開発計画」は、こうした世論とはおよそかけ離れ、1960年代に見た経済大国化を一層強く求める内容を有していた。

新全総の基本理念は「豊かな環境の創造」であり、過密・過疎の解消、人間と社会の調和を目標としている。また計画の特徴として、国や地方自治体と民間企業が共同出資して開発していこうという第三セクター構想などが挙げられる。そのため新全総は特定地域や太平洋ベルト地帯に開発対象を限定せず、開発の基礎条件を整備しながら地域間分業を推進し、国土全体に開発可能性を拡大追求していく構想を有していた。

新全総では、まず全国を中央地帯(三大都市圏と瀬戸内地区を結ぶ一帯)、北東地帯(苫小牧東部、むつ・小川原、秋田湾周辺)、南西地帯(周防灘から宿毛湾、志布志湾に至る)の三地区に区分し、中央地帯には中枢管理機能や文化機能の集積した巨大都市地帯を整備し、北東地帯と南西地帯には大規模工業基地・巨大農業基地・巨大観光基地を配置する構図を描いた。その上で、各地帯間を新幹線・高速道路・航空路・データ通信網など交通通信ネットワークで結び合わせ、地域間に分業関係を構築し、全国を一日行動圏として開発するネットワーク型開発構想を描いていた。また、都道府県を越える広域的開発を円滑に推進するため、自治省では全国に広域市町村圏を設置し、開発体制の整備を図っていった。

2. 新全総の結果

しかし、このような大規模プロジェクト構想は、四大公害裁判による被害住民の全面勝訴などを契機に、公害・環境破壊に対する厳しい世論と生活環境の優先整備を主張する革新自治体の誕生に直面し、見直しを求められていく。更に、田中角栄が主張した「日本列島改造論」をきっかけに、開発を期待した土地投機・地価高騰が全国的に巻き起こり、用地買収が困難になるなど新全総は岐路に立たされることになった。

列島改造ブームが全国を覆った1972(昭和47)年、高度成長指向を貫く新全総は、見直し作業を受けることになった。そして、1977(昭和52)年までに環境保全(公害問題)・巨大都市(三大都市圏の過密、ものの集中)・工業基地(立地など)・農林水産業・土地管理・国土管理など8項目にわたる総点検が行われ、1973(昭和48)年秋の石油危機などにより高度成長が終わったこともあって、新幹線工事が中断されたり、本四連絡橋の着工が先送りされるなど、大規模重化学工業化と全国ネットの産業基盤整備に重点を置いた高度成長指向の地域開発政策は、根本的な見直しをせざるを得ない状況を迎えることとなっていった。


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