第2部 地域開発とは

最終更新日:1999年12月19日


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第3章 第三次総合開発計画

1. 三全総策定の背景

第三次全国総合開発計画は1977(昭和52)年11月4日に閣議決定された。新全総が閣議決定されたのが1969(昭和44)年であるから、両計画の間にはおよそ8年間の時間があったことになる。この間の状況の変化を通じて三全総がなぜ策定されるに至ったのかということについて、迫ってみることとする。


三全総について述べる場合、以前の全総及び新全総と比べてもっとも留意せねばならない点は、経済状況の変化である。すなわち、石油危機による高度経済成長時代の終焉は、新全総に数多く述べられた大規模プロジェクトの推進による国土利用の偏在の是正という文言を実体のないものとさせ、1970(昭和45)年に8.1%であった実質経済成長率は1974(昭和49)年にはマイナスに転じ-0.2%まで落ち込んだ。また前項の大規模プロジェクトの推進による高速道路の建設、新幹線鉄道網の拡大等、高度経済成長に伴う開発が環境悪化、地価の高騰、大都市への人口集中等を招いたため1974年には開発規制、地価抑制の目的で国土利用計画法が制定された。これは前記の目標を達成するため一定以上の土地取引に関しては知事の認可を必要とすること、知事が取引を規制できる規制区域を指定できることなどを規定したもので、事実上新全総の開発方式における弊害を自認したものであった。この時点において新全総の計画と現実的状況との乖離は決定的であった。

1973(昭和48)年から順次発表された新全総総点検の中間報告はこのような状況の中で行われ、また1974年6月の国土庁発足とともにその作業自体も経済企画庁から国土庁に移管された。1975(昭和50)年4月21日に行われた第71回国土総合開発審議会においては前記の状況を受けて政府から

  1. 新全総の策定以後、過疎過密問題、土地問題、環境問題の深刻化に伴い 計画の総点検を行ってきていること。
  2. エネルギー問題、食糧問題等に関連して、計画の見直しが必要となっていること。 また新しい経済政策との調整の必要性が高まっていること。
  3. 超長期の展望の元に安定した均衡ある国土の利用を確保する必要があること。

などを理由に三全総策定の必要性があるとの説明がなされ、了承された。

2. 三全総の内容

前記の決定により三全総の策定作業が正式に開始され、数回の審議会における諮問、答申、閣議報告、及び関係行政機関との調整、都道府県知事及び政令指定都市市長からの意見の摂取などの結果を踏まえて「第三次全国総合開発計画」の原案がとりまとめられ、1977(昭和52)年11月4日に閣議決定された。その概要を表2-3-1に示す。

その構想において、もっとも注目すべき点は、開発形式に定住(圏)構想を掲げたことである。定住構想とは、都市、及び農山漁村を一体とした基本的な生活の圏域を一つの定住圏と設定して、それに地域開発の基礎を置くと共に「その適切な運営を図ることにより、住民一人一人の創造的な活動によって、安定した国土の上に総合的居住環境を形成することが可能となる」というものであった。これは全総、及び新全総がそれぞれ「拠点開発方式」、「大規模プロジェクト構想」など点から線への開発方式へと展開されたのに対して、面的な開発方式を採用しているところにその特色が求められる。また、それまでのいわゆるハードウェア的な開発指向から多少なりとも脱却して初めて「暮らしやすさ」「住み良さ」などの要素を取り入れたことにも着目できよう。この定住圏構想は、新全総に田中角栄の影響力が決定的であったように、当時の大平正芳首相が描いていた「田園都市構想」の影響を受けていると言われている。無論、その構想の下敷きにE.ハワード(Ebenezer Haward)の田園都市があったことは言うまでもない。

また、この開発方式はその主体をこれまでの国から市町村に移した点においても、それまでの全総と趣を異にするものであった。良くも悪くも、高度経済成長の終焉がその開発戦略を大きく変更せざるを得なくしたのである。

3. 三全総の結果

このようにそれまでの箱物的な路線から脱却して「暮らしやすさ」「住み良さ」等の概念的なものを求めて出発した三全総ではあったが、大平首相が総理室で「でも(自民)党に(計画を)持っていったら、(モデル地区の)『指定』と(公共施設等の)『建設』にされてしまうだろうな」(括弧内筆者)とぼやいたと言われているように、その物理的側面における手法は従来と変わらず主に就労対策などが重点的に行われた。具体的に例をあげるならば、雇用拡大のための工場の誘致、産業構造転換(第一次産業から第二次・第三次産業への重点のスライド化)のための補助金政策、前記の目標を達成するための道路や港湾、上下水道等社会資本の整備ということになる。新全総ほどの巨大プロジェクトはさすがに鳴りを潜めたものの、その性質は依然として国庫補助金に頼った地域開発志向が根強いものであった。しかしながら1970年代後半になると国は慢性的に財政危機を抱え、結果として財政再建の名の下に公共事業等の高率補助金(50%以上を国が負担)が打ち切られたと同時に、三全総において地域の主体性と独立性をうたったのも前記の理由によるものであったから、これはある意味矛盾することであった。三全総以後、地方はその地域開発において自助努力を強いられることになったが、未だに財政力の弱い自治体では中央からの補助金に頼らざるを得ない面があり、そのようなところでは得てして従来型の箱物づくりにならざるを得ない。「三割自治」(注1)とよく批判される地方自治の地位を高めるためには、地方財政の充実化は欠かせない要件であろう。


表2-3-1 三全総の概要(『現代行政全集第18巻 国土』より)
計画期間 1975年を基準年次とし、2000年を展望しつつ1985年または 1990年を目標年次として作業
基本的目標 人間居住の総合的環境の整備
1. 限られた国土資源を前提とする
2. 地域特性、歴史的伝統的文化を尊重する
3. 人間と自然との調和を目指す
開発形式及び主要計画課題 ■定住構想
大都市への人口・産業の集中を抑制し、一方、地方を振興し、過密過疎問題に対処しながら、 全国土の利用の均衡を図りつつ人間居住の総合的環境の形成を図る
■主要計画課題
1. 国土の保全、開発、管理をすすめる
2. 住宅、食糧、エネルギーを確保する
3. 大都市、地方都市及び農山漁村における総合的環境を整備する
4. 教育、文化、医療施設の配置、ネットワークの整備など国土利用の均衡のための 基盤整備を図る

(注1)三割自治
憲法上の地方自治の減速にも関わらず、中央政府が権限と財源を保持したままであるため 地方政府は三割しか固有の仕事をせず、残りは中央政府の下請けをしているに 過ぎないということ。

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