追悼: 韮澤 嘉雄君
5組 亦楽会 山崎 坦
昭和11年(1936年)4月1日
韮澤君は長野県上田中学4年終了で東京商科大学(現一橋大学)予科入学試験に合格しました。
中学5年卒業での進学が普通コースでした。
[東京商科大学豫科入学受験證票 について]クリック
高競争倍率の難関を突破して同年合格したのは約240名
約40名ずつ6組に編成され1〜4組第2外国語ドイツ語クラス
5〜6組フランス語クラスでした。
5組41名入学記念写真2列目左より二人目が韮澤君です。
当時まだ未成年17歳で、毬栗頭制服の少年です。
写真 5組(亦楽會)クリック
論語の劈頭に、
[子日、学而時習之、不亦説乎
有朋自遠方來、不亦楽乎
人不知而不慍、不亦君子乎]
とあります。
二行目<亦楽>をクラスの会名としました。
予科は現在の小平国際キャンパスのところで
(戦後学制改革で小平分校と呼ばれた頃の写真)クリック
私共が新設の寮の最初の寮生です。
一高や三高と同じように寮歌を高吟 青春を謳歌しました。
中学までの校則束縛から開放されて、
「自由の砦自治の城」「自由は死もて守るべし」と歌いました。
韮澤君がOBになってからも寮歌祭・一橋総隊長として元気に歌い続ける生涯のstartでした。
如水会公式サイト - ニュース (2005年1月11日の勇姿)クリック
デカンショ (デカルト、カント、ショペンハウエル)デカンショで
半年や暮らし、後の半年や寝て暮らす。
卒業記念アルバムの最初が予科時代です。アルバムクリック
ボート慢漕の写真・後ろ最左・韮澤君もいかにも楽しげに笑っています。
本科では米谷ゼミナールクリック に入りました。
戦後米谷先生のお陰で 大平総理 との接点が出来ました。
部活は陸上競技部で、それからの生涯、マラソンを続けていました。
如意團で座禅などもしました。
卒業記念写真 亦樂會 クリック
昭和16年(1941)12月3ヶ月繰り上げ卒業となりました。
17年2月我々の殆ど全員が兵役に服しました。
韮澤君は輜重隊で馬の世話をしたようですが,出征はせず。余り語りたがらない4年ほどです。
この間同期の学友達35名が戦死しました。
戦没学友名簿 クリック
その後の韮澤君の履歴は大平総理のことを書いた同君の次の文章に書かれています。
大平さんの講演と英語 韮澤嘉雄 クリック
韮澤君は十二月クラブ卒業周年文集に二三投稿しています。
<名簿(な(に)ねの)クリックから韮澤君の文をだして読んでください。>
私共には「人不知而不慍、不亦君子乎」と感ずるところがあるのですが、
韮澤君の場合、之が出来るのも能力のうちとか、自画自賛が出来ました。
そして成る程、かれはそれだけの事を成し遂げておりました。
<十二月クラブ通信 (第105号 平成12年8月)より>
韮沢君 如水会より表彰される クリック
<世界経済評論 8月号(2006)より>
世界経済研究協会の韮澤専務理事、上島重二会長より表彰状を授与さる。クリック
武蔵野市周辺の十二月クラブ会員6家族夫妻の親睦会「むさしの会」は昨年100回を越えました。
(2005年9月17日(土) むさしの会 第100回) クリック
2006年5月20日(土)第102回予定のところ
当番幹事の新井君(1組)と韮澤君が肺炎に罹ったということで休会となりました。
第103回は韮澤君の当番でした。
韮澤君はここ一二年は体調があまりよくありませんでした。
卒業六十周年記念文集に、120才を目指して「自己流健康法」クリック の一文を寄稿していますが、
膝も痛め、肺炎にかかって、肺線維症になり、酸素を補給し続けねばならなくなりました。
酸素を補給しながら街を行く人もあり、電話での応対もいつもと変わらず元気だと思っていました。
医師の話では、肺線維症で終焉を迎えるのでは極めて苦しいのだそうですが、
韮澤君の場合はその前に、
平成18年(2006)10月29日(日)午後5時30分頃
心不全で倒れたのです。安らかな顔をしていたそうです。
令夫人の話です。
救急車を呼んで杏林大学病院に入院、一時心臓も回復したのですが、
翌30日(月)午前10時45分お亡くなりになりました。
マスコミの代表と見做して、木鐸たるべきマスコミの様子がおかしい、と詰め寄ると。
そんなことを言われても、マスコミ全体を動かしているわけではないし、と、
困ったような顔をしていたのを懐かしく思い出します。
安らかにお休み下さい。ご冥福を祈ります。
平成18年(2006)10月30日午前10時45分昇天。
予科入学から70年・齢87歳2ヶ月・米寿でした。
合掌