5組 亦楽会 クリック(卒業記念アルバム・リンク)
卒業40周年記念文集 波濤 |
卒業50周年記念文集 波濤2 |
記念写真 | |
佐藤敏登君 寄稿文 |
「小平から小平へ」 | 私のゴルフ時代誌 | 2005亦楽会 |
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君あしたにさりぬ。
ゆうべの心千々に何ぞ遥かなる。
君を思うて岡の辺に行きつ遊ぶ。
岡の辺なんぞかくかなしき。
蕪村
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●追悼 佐藤敏登 君 5組 山崎 坦
亦楽会をクリックしてみてください。そして東京商科大学予科入学記念写真をクリックしてください。
毬栗頭41名の少年の集合写真です。
前列左から5人目が佐藤君です。
甲子園で活躍している高校3年生と同じ年頃でした。小平の寮の第1回生です。
予科時代、生涯最良の青春時代の写真が何枚も入っています。
このころのこの少年達は総じて誠に真面目で純真でした。
わけても佐藤君は、自分の行いが堕落ではないかと寧ろ過度に反応して、禅寺に入って座禅反省してくるようなことがあったと思います。立派な人でした。
佐藤君は誠に一橋とは縁の深い家系で、如水会報にも紹介されましたが、弟さん、ご子息二人、お孫さん二人、伯父さん、岳父と先輩後輩に囲まれています。
赤松ゼミナールをクリックしてみてください、大学卒業時のゼミのメンバーの写真の中に彼の写真があります。
説明に、出身中学は三島中学とあります。「田舎の秀才で、東京の商科大学・一橋に入れて嬉しくてたまらなかったのだ、と言っていました。当時封切られた映画「メリーウィドウ」で主演の男優シュバリエが歌う主題歌を、小平の明るい予科の教室で、楽しげに口ずさんでいました。
運動は柔道をやっていたようで、酒に酔うと親友を投げ飛ばしていたようです。家は酒造の旧家で、だから酒が好きなのだと言っていましたが、就職は日本化成(現在の三菱化成)、当時石炭化学で、石炭の商売をするには大酒のみでないと駄目だったようです。
卒論は満州石炭経済論だそうで、在学中在満州の先輩や知人、例えば満鉄の調査部の人を訪ねて、満州旅行をしたようです。
昭和16年12月27日3ヶ月繰り上げ卒業(だから同期会名は十二月クラブ)。
17年2月から兵役に服しました。各人が各人の運命に翻弄されたのですが(同期35名戦死)、佐藤君は終始静岡市旧駿府城址にあった連隊勤務でした。
終戦後会社に復帰してからの生涯は上欄 卒業記念文集に記録された彼の回想録2編を参照してください。 「小平から小平へ」 「私のゴルフ時代誌」
退職してからは同窓会5組の亦楽会で方々にゴルフに出かけました。
箱根、大洗、宮崎、小金井等など、一番楽しい会合でした。
ゴルフといえば佐藤君が尼崎コークス勤務時代、私は大阪支社勤務で、住友化学の古田土君(2組故人)とよく宝塚でプレイしたことを懐かしく思い出します。
80歳代のはじめにはまだゴルフをしていましたが、しなくなってからは、時々、吉祥寺や荻窪で5組亦楽会をやりました。クラス会と申しても何時の間にやら生き残り在京の重松君と佐藤君、山崎の三人だけになってしまっておりました。
遡っては小林君、中村君(伊勢崎に移住健在)。
更に遡れば横山君、和田篤君
更に遡れば森田君、三宅君、高橋君もいました。
さらに、更に、更に・・・・親しかった41名の顔が浮かびます。
亦楽会 写真集(1)
佐藤君は2009年3月29日 あの世の彼等のところえいってしまいました。
亦楽会でこの世に残っているのは6名です。
佐藤君は晩年クリスチャンになり、プロテスタントからカソリックに移っていました。昔一過性の脳梗塞をやり、後年心筋梗塞のバルーン治療で救われたようです。胃腸のポリーブ摘出は何回もやっていました。晩年は朝の早起きに酒量が加速して、「山崎は10時過ぎでないと起きないんだから」と待ちかねて、毎日のように電話で話しをしていました。
老人の腰痛や転倒は致し方なく、体調不良になって桜町病院に入院、その後転院、心不全で永眠されました。満91歳です。
ご冥福を祈ります。合掌。