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| Zクラス モリカン |
91.定年退職始末記論
定年退職したおじさんの話題である。
いったい全体、ミンナはどのようにして暮らしているのか? 頻繁にこの話題になる。
定年前は、定年後の収入=年金が主な話題である。この方は比較的話題性もあり、けっこう正確である。その上、その段階=それで暮す事になってみるとすぐ解る。収入がハッキリ激減するからだ。
問題はそれからのことである。その深刻さはジワジワとやってくる。
はじめのうちは、何故か初々しい。折角の定年だ。海外旅行にでも行けばいい。そう云われる。だから、行った。行ったが1年中、365日行ってる訳には行かない。
朝起きて、行くところがないのだ。
趣味をやればいい。それも云われる。陶芸とか、絵画、ゴルフとか、碁会所通い、盆栽は難しいか、あれもこれも365日はやれない。
「濡れ落ち葉族」というジャンルが流行った。すること・行く処がなく女房のあとをついて回る定年族のことを云う。「わしも」族とも云う。・・・あっ、わしも一緒に(行こう)・・という族のことである。
タチの悪いジョークを連発してみよう。粗大ゴミは分かる。不燃ゴミも連想できるだろうか。――不燃ゴミはヒドイ!――今まではカッカと燃えてきたのに、だ。
ラ・フランスというのがある。「洋梨=用なし」のことである。
諸兄、ここまで云われてガマンできるか。できまい。今日はこれがテーマである。
結論を先に云おう。要は「カネ」である。
上手にやってる話をしよう。――自分ではありません。――まず、自由裁量の資金を確保する。できれば、退職金が入った時点で500〜1000万円を現預金で確保する。――残りを、「老後に備えてオマエにまかすわ。無駄にするなよ」と、ポンと女房に渡すのだ。――これは、いわゆる見せ金(カネ)法である。気が大きくなっている時、相手の心のスキに付け込むのだ。(運悪く、退職金そのものが少ない場合やローンの返済に大部分が行ってしまう場合でも、2〜300万円は必要である)―
次、毎月の行動資金に10万円を確保する。年金は、まず自分の口座に総額を入金させ、10万円を差し引いてから、渡すと尚よい。
――くれぐれも、これは退職前に契約すること。総収入が減額になってから交渉しても相手(女房)は絶対にのってこない。―
次の次、親の遺産が入った場合、女房に渡してはならない。不動産・債券・株券などの場合は、売却しいつでも使えるカネに変えておく。
――オレは「持ってるぞ」などのカラ威張りは、短期間しか効果がない。そのうち誰も相手にしてくれなくなる。―莫大な土地などの場合は別である。地代が入るからである。(無論、この収入は女房には渡さないこと)―
究極の次。わずかでもいいから収入の道を持つ。
友人の会社を、手当なしで手伝うとウソをついて、別口座にコガネを貯める。
――この方法は、かつて女房がパート収入をヘソクッタ実例から思いついたのである。―
では、その貯めた小金(コガネ)をどう使うか。なるべく本能を満足させる方向がいい。
飲み、喰い。色欲、征服欲。虚栄心。これらを優先する。
長生き・延命欲は捨て、なるべく体力・カネのかかる生活をする。
誘ってくれる会員制のナニナニには極力入会し、宴会や旅行会には全部参加する。
最後に、急ぐべき退職生活がある。無論、「愛人」である。年齢だけは待ってくれない。
92.定年退職始末記論―2
おじさんは、定年退職しても「職」に就きたがるのが普通である。
何故か。小遣い(カネ)がないからである。貧乏人になった、と云う意味ではない。不幸にもそういうはめになった御仁もいるだろうが、普通はそうではない。
図式を述べると、こうなる。
年功序列の社会では、定年前は資金的に比較的余裕がある。
子供にかかる支出が、ほとんどなくなっているからだ。マイホームのローンも終わっていれば、この分は大きい。
定年前は、役職定年などという謂われのない減給で可処分所得が減少している例はある。
が、この減少額(減少割合)などは、上記のローンや教育費の金額に比べれば「屁」みたいなものである。
つまり、使える小遣いが(比較的)多いのだ。
ところが、定年になると比較的ふんだんにあった給与が、一変に少なくなる。
どのくらい減るか?――極大値:年間1千万円(減る金額ですぞ) 極小値:5百万円。
もっと脅かそう。
- 60歳で定年になる。次の職はない、とする。
- 年金は厚生年金の部分年金(年間150万円)だけ、だとする。
- 退職金はローンの残りにほとんど支払って、残額は数百万円、だとする。
- 長男は独立したが、40歳の時に生まれた長女が20歳で大学2年生だ、とする。
- 女房が、パートに出ているが年収は100万円程度、だとする。
しかも、パートのため健康保険がない。
さて、これで暮らせるか。計算の弱い諸兄でも、すぐ分かる。
まず、家族の事情から云って退職金は取り崩せない。収入は、年金+パート収入=250万円だけである。つまり、月当たり20万円と少しだけ。これで、3人が1か月、暮さなければならない。(厳密には、退職直後1年間は失業給付などがある)
これでは、亭主の小遣いにまわす資金があるはずがないのだ。
次、小遣い編。
どのくらい減るか。極大値:月当たり20万円(減る金額ですぞ)。 極小値:7万円。
月当たり20万円はあった小遣いが、5万円くらいになる。3万円のヤツもいる。
もっと、ひどい話をしよう。
月に数回あった得意先などとの飲み会が皆無になる。タクシー券もない。全く飲めないヤツはいい。かえってサバサバして快適だ。だが、そういうヤツは少ない。
結局、鬱積するストレスは自腹で支払うことになる。これがデカイ。
「行って来い(イッテコイ)」というヤツで、「入り、が少なく」「出る、が多くなる」のだ。
定年退職後、職がない。
しかたがないのでNHKの放送料集金人をやっているヤツがいる。(ホントです)
・・こんにちは!NHKですが、、・・と、いうヤツだ。
大方、定年後の親父が玄関に出る。(らしい)
・・なんで、そんなものを払わねばならんのだ。第一、うちはNHKは見ていない!・・
こう云われる。(見ていないなどと、ハッキリと嘘をつくらしい)
―しかし、何にもしないで家にいるオヤジが、なんであれほど多いんですかねええ、―
これはエッセイだが、事実である。
無論、統計はない。ないが自信を持っている。諸兄、この国は決して豊かなんかではない。
93.マンガ喫茶
驚くなかれ。マンガ喫茶のオタクである。私の事であります。(ホントです)
マンガ喫茶の発祥地は名古屋です。30年以上の歴史があるらしい。今でも、人口当たりの店舗数は愛知県がダントツになっている。
なぜ、名古屋なのか?
名古屋は喫茶店がめちゃ多い。郊外喫茶店・郊外パチンコの発祥地でもある。朝食は喫茶店でとるのが名古屋の「通(ツウ)」である。
さて、漫画喫茶はその名古屋の喫茶店が、他店との差別化を図るべく漫画を置いたのが始まりである。
次に、インターネット・カフェはご存じか?
発祥はゲーム喫茶である。こちらはゲーム優先方向に発展した。若者むけゲームセンター(ゲーセン)である。
一方、このゲーム機がパソコンになって生き残り、近年復活している商売が生まれた。
これがインターネット・カフェである。キッカケはつなぎ放題のADSLの登場からである。
そのインターネット・カフェと漫画喫茶が合体し、カプセルホテルになりつつある。夜半に入場し朝まで居て10時間2千円である。この間、漫画が読み放題、パソコン(インターネット)使い放題である。当然だが、眠ってよし飲み食いよし。(酒はダメ)
ネットカフェ難民にも触れよう。これは上記のように寝泊りが2千円で可能なところに目をつけたホームレス達の宿舎利用のことである。パソコンはあるし、携帯はあるし、いくつかデバイスを持ち込めば自分の部屋にいるのと変わらなく暮らせる。たいへんな時代になったと思わざるを得ない。
そこで、問題のあるテーマがある。
これらの社会現象の進化には「人間関係がない」ことである。ひたすら、人間関係を希薄にする方向に走っている。人間が、一人で生活が完結できる方向への環境整備である。
それで、いいのかね。――これがテーマである。――いいはずがない。
自分は、冒頭述べたようにマンガ喫茶オタクなので漫画を読みに入る。
“課長島耕作”“黄昏流星群”( 弘兼 憲史)“ゴルゴ13”(さいとう・たかを)“沈黙の艦隊”(かわぐちかいじ)“キャプテン”(ちばあきお)、・・・拾い上げればキリがない。・・・
本来、コーヒーも関係ないしインターネットも不要である。つまり“漫画オタク“というべきだね。
ところが先日、馴染みの満喫(マンキツ)に行ったら、新聞を読んでるヤツがいた。
――新聞ねえ、、! ――核家族を超えて核個人社会になってしまったようだ。――
結論を急ごう。
科学技術や、サービスの多様化を阻止するのは不可能である。需要があるからだ。
需要の源(ミナモト)は何か。人間の欲望である。その欲望が非人間化しているのだ。
人間は生物である。動物であり、雄であり雌である。生きるものであり、死するものである。従い、生存欲があり生殖欲があるべきである。この「本来欲」を消してはならない。
近現代の歴史解釈では、この「本来欲」が原因で人類の不幸=戦争が起きたと解釈している。しかし、その解釈は間違っていないか。
思っても見たまえ。本来欲を忘れて、不毛なカネや権力にとり付かれた時代ほど、諍いは組織=国家間の争いになったはずである。生きる・肉の悦びこそ平和の源泉なのだ。
では、どうするか。本来欲への「人間サービス」がどれほど快感かを知らしめればいい。若者に教えなければなるまい。それとコガネを持った隠居爺たちも協力しよう。
つまり、これだ。―売春防止法を改正し、男女交際促進法を制定する ―マジメですぞ。
94.恋する俵万智
ファンである、私が。
・・おとうさん! 俵万智が好きねえ、、、・・と、云われる。
彼女は1962年12月31日の生まれで、もう45歳になる。父親のいないこども一人(生物的にはありえないが、社会的にはフツウこう云う)。
自分は、短歌がよく分からない。(俳句・川柳だって分からない)
従って、俵万智の短歌がいかに優れているか解らない。でも、好きは好きだった。
初めて「サラダ記念日」を手にとってパラパラ読んだ。女子事務員が持って来たのだ。
・・こりゃあ、、売れるわ。・・間違いなく、そう云った。
間違いなかった。280万部も売れた(そうである)。1200円で売ったとして、280万倍。これが売上。普通はこの10%が印税で著者に入る。・・・・計算せよ!?・・・・
今回のテーマは、この俵万智の「もう、峠を越したのかな」の件である。
こういう歌がある。(俵万智作)
――二十歳とはロングヘヤーをなびかせて 畏れを知らぬ春のヴイーナス ――
これは、与謝野晶子作の一首のパクリである。(みだれ髪の中にある)
――その子二十歳 櫛にながるる黒髪の おごりの春のうつくしきかな ――
この歌は「おごりの春のうつくしきかな」が、技術的なポイントである。美しさを奢っている。若さの特権だねってなもんだ。ひっくり返して云う「おごりの春」がプロの技なのである。
これを、俵万智は「畏れを知らぬ春のヴイーナス」と現代訳している。これも上手い。全く上手い。「畏れを知らぬ、、、」など、筆者など普通なら100年かけても出てこない。
がしかし、「おごりの春」があればワカランゾ。と、アト講釈のヤツガレは思う。
次が問題なのだ。おなじ「みだれ髪」のパクリでこんなのがある。
――やは肌のあつき血汐にふれも見て さびしからずや道を説く君 ――
これは、晶子の代表作の一つである。
で、俵万智はこれを、こう訳している。
――燃える肌を抱くこともなく 人生を語り続けて 寂しくないの ――
正直、ヘボい!と思わないかね。そんな、今時(イマドキ)説明して欲しくないわ、そんな感じかな。
ヤツガレなら、どうパクるか。
・・あのねええ、仕事の話は、いいからさ! こうしておっぱい 触ってみてみたら!・・ドウダ! 松戸あたりのキャバレーで、よくそんな事がありましたよ、諸君。
つまり、俵万智は、もうイッパイいっぱいになったんだね。「ネタ切れ」現象である。
俳句の世界でもあるそうだ。だから、芭蕉は奥の細道に出たのだ、と確信している。
短歌の世界ではどうか。俵万智は、盛んに「恋だ、恋だ」と騒いでいる。・・つまり、私は恋が好きなのだ。・・自分で独白している。
結論を急ごう。
彼女は無理をしている。売れなくなった作家が断末魔の叫びを詠っているようだ。原因(遠因)は、最初の歌集(サラダ記念日)が売れすぎたのである。
ハッキリ、カネが入りすぎたのだ。だから、“暮し“とか、”犠牲“とか”祈り“とか、“愛”(恋ではない!)とかの、高尚な短歌が創れないのである。
・・・いやあ、、悪口ってのはキモチいいねええ、、、。 おわり。
95.秋葉原 無差別殺人事件
東京、秋葉原で「無差別殺人事件」があった。
通り魔殺人である。死亡者7人、怪我人10人、計17人が無差別に襲われた。
殺人者は、トラックで乗りつけ、人ゴミにトラックをぶっつけ、まず数人をぶっ殺したあと、そこらじゅうの通行人をナイフでめった切りにした。
理由は、特にはない(らしい) 殺したいからヤッタ。誰でもよかった、とある。
まず、屁理屈から云ってみよう。
1、殺したいからヤッタ。
分るような気がする。自分もそんな気になることがあるからだ。つまり、男なら、時として「誰かれブッ殺したくなる」ことがあるのだ。
例えば、何らかの立場で周囲からシカトやいじめを受けたとする。この場合、殺したくなるのは「張本人ではなく」、「回りで冷やかに見ている傍観者」の方を殺したくなる。
そして、このような場面は立場の弱い人間、新参者、後ろ盾にない孤独者には日常茶飯事に経験することだ。時として、ブッ殺したくなる。実によく分かる。
しかし、実際はやらない。何故か。それは卑怯だからなのだ。殺すべきは「そのシカトした本人」か、「いじめを実行した張本人、扇動・主導して人物なのだ」
この場合なら、過剰防衛に近いが復讐という意味では、勇気ある人間に近い。
2、次の「誰でもヨカッタ」の項である。
この「誰でもヨカッタ」の説明は、聞き手(警察官)の方が経験未熟である。誰でもよかったのではあるまい。殺しても逆襲されないモノ(例えば、子供、女、老人)を選んだはずである。この意味でも、この殺人魔はどうしょうもなく卑怯でイクジなしである。
3、第3点。何故秋葉原なのか。
秋葉原に土地カンがあったことが予想される。土地カンのある人口密集地帯である。
要は、目立ちたかったのである。目立つ事が、即ち人生の到達点だという本邦教育方針のなれの果てがこのザマなのである。
それならば、目立ちたかった分に見合う社会の目立った復讐をすべきである。例えば、縛り首、磔(ハリツケ)は時代遅れだとしても、社会が忘れないうちに死刑判決をし、その実行を報道すべきである。
これらの点を、裁判官は指摘すべきである。オマエは卑怯である。卑怯なオマエのために犠牲になった善良な死者・けが人とその家族に対し、衷心から謝罪すべきである、と。
さて、次の重要テーマである。
今の今、間に合わないがオジサンたる自分の自信度の高い対策案がある。
1、 義務教育の廃止と常識教育の導入
詳細は省く。どんな場合を想定してもまず利用することはない高度な教育を教え込むのは止めることだ。ただし、読み書きができる範囲と、社会常識を義務にする。
諸兄。今や、分数はおろか掛け算九九もできないようなガキがうようよ居るのをご存じか。そのくせ、そいつらは最低限の公衆道徳・人道的禁止行為も知らない。ましてや、親兄弟・仲間内に対する義理も知らず、弱いものを思いやる人情も解らない。
本邦は、今や先進教育国家ではないのだ。その堕落の出発点はいつか。太平洋戦争後の米国の占領からである。従って、以下が必要である。
2、 日米安全保障条約の破棄、米軍の完全撤退、及び核兵器による再軍備、並びに
憲法改正(断っておこう。これは憲法9条だけの事ではない)
3、 徴兵制の復活
人にみな、3年間は自衛隊に入るべし。そこで、人間としての最低限の躾けを身体で覚えさせることである。この場合、女は志願制にしてもよい。
96.偶然の効用
偶然の効用を考えることがある。
まあ、いわゆる「運」である。運よく上司に恵まれて、、とか。偶然、遺産で引き受けた土地が値上がりして、、とか。
一般に、偶然に何々があることは、高度に発達・管理が行き届いた社会ではこれを排除する傾向にある。何故ならば「人、みな平等である」からである。生まれながら人はみな平等である、とは「平等であるべきである」に繋がる。
しかし、よくよく現実を観察するとこの考え方には無理がある。言はば、ないものネダリに近い。
「機会は、人みな均等=平等に与えるべきである」も、よく云われる。極めて崇高=正しく聞こえる。しかし、これも実は極めて剣のんな話である。
例えば、現代では誰でも「東大に入学できる」はずである。入学試験に合格すれば、である。この「合格すれば」がポイントなのだ。誰でも合格するかね?
途中経過を省こう。「馬鹿に生まれた場合はどうなるのか」である。誰も好きでバカには生まれない。誰も好きで貧乏な家庭に生まれない。アフリカの貧困、低開発地域に生まれたのは本人がスキ好んだ結果ではあり得ない。
つまり、これが問題なのだ。全て事は本人にとって不可抗力的な偶然から始まっている。
それ故、途中でこの不利な偶然を社会が補完すべきなのだという見解もある。
(だんだん、もっともらしくなってきた)
しかし、これも怪しい。
「そしたら、機会均等という措置と矛盾しますよね」となる。
つまり、完璧な機会均等だったら生まれつきバカにとって、これほど過酷な真実はないことなる。途中での補完はないのだから、常識的には東大の入試には絶対合格できない。
では、他の補完があるか。通常では「補完」はない。それでいいのか。
そこで、今回のテーマである。
結論を云おう。
――偶然の不条理に対して、神は幸運の偶然を用意している。――ワカルカナ!――
神が用意している訳だから、人間が作為する必要はない。むしろ、それは不遜である。
人の人生はさまざまである。運不運もさまざまである。
一生幸運に恵まれる人生もあれば、不運の連続で断末魔の中で死に絶える人生もある。
しかも、これに法則性がないのだ。極めてランダムである。
バカはこの「摂理」に対しそれはイヤだ、俺にだけは幸運だけの人生がいい、と云う。
凡人でもこう云う。せめて「人、みな平等な運不運であるべき」だ。
しかしこれが、ないものネダリになるのだ。
――出発点(生まれ)の不平等を、以下にしてその後の対策で補正できるのか。――
この補正の仕方を、神はあらん限りに知恵を絞ったに違いない。
出発点の不運に対して、その後は幸運という補正を必ず用意したとすると、これは機会の不平等になる。これは摂理に反する。人間が努力しなくなるからである。
考えても見よ。どうせそのうち運が回ってくるさとなったらね。アナタ、頑張りますか?
総括。神の用意したもう偶然は、これを人間が排除してはならない。
ところで、人間の歴史は「この神の偶然」を排除する方向にばっかり努力しているように見える。神の意志に反しているのだ。
さて、諸君。諸君は自身の不運を嘆くことはないか? これを読んで、今日からは身を改めることをお薦めする。
97.歯止めの理論
社会的な意味で「歯止めの理屈」は極めて重要である。
最大のポイントは国家間の歯止めである。原始の時代でも「互いに皆殺し」はまずいよね、という歯止めがあった(はずである)。
直近の戦争でも「毒ガス戦」はやらない事になってる。核戦争もヤメだ。互いに皆殺しになってしまうからだ。
ところで、ヤケっぱちになっている個人が(自分も死んでもカマワナイので)、爆弾をまき散らしたらどうなるか。まず、止めようがない。爆弾とはいかない迄も、機関銃の連射などはどうだ。サリン(毒ガス)のまき散らしでもいい。これも止めようがない。
さて、先日。東京は秋葉原で無差別殺人があった。死者7名、怪我人10人。犯人は(たぶん)死刑を覚悟している。その犯人の親も「そうあるべきだろう」と考えているはずだ。あるいは、自分の死で補えるものなら、被害者に詫びたいと思っている。
つまり、歯止めの効かない確信犯なのである。
今回のテーマは、この歯止めの効かない行為に対し「歴史は、いかなる制度を用意し、実行してきたか」である。
1、躾・教育 2、厳罰・復讐 などである。
躾・教育は比較的分かり易い。でも、それで済めばダレも苦労はせんよ、という処か。
厳罰・復讐は、いはば実力行使である。しかし、これも絶対的効果はない。聖戦・自爆テロがいい例である。ましてや、死刑は覚悟の上です、と云われたら止めようがない。
では、どうするか?
ソンナことは思いたくとも思わないように習慣化させることである。参考例がある。
地球の生物である。かれらは「互いに皆殺し」はしない。そういう本能がある。彼らには、暗黙の住み分けがある。命にも代えがたい絶対的決まりである。
言いようによっては、命すら捨ててかかる住み分けである。その習慣化された本能を人間界の言語で表わすと「身分」である。
オスとメスの身分。親と子の身分。身体の大なるものと小なるいものとの身分差。強いものと弱い者との身分差。
これらを粛々として、哲学者のように受け入れている。自暴自棄になったりはしないのだ。
その気になって、歴史上の国家を縦覧してみよう。
地球上に残っている文化材、無形文化を創った国家ほど、実は身分制度が無理なく堅固である。人民がその身分制を受け入れている。
本邦の歴史では、貴族制の平安時代、武家が一切を仕切った江戸時代。
この時代は身分が固定的で暗い時代であったと云う左翼的ムリヤリ史観が一般だが、実はこれらの時代ほど殺し合いはなかったことは歴史的事実なのだ。平安時代などは死刑すら必要なかったほどである。(らしい)
紙数が尽きる。結論を急ごう。
やけっぱちの自爆テロを防ぐ「歯止め」は何か。新たな身分制の導入である。どういう身分制か。上下関係的身分制は時代遅れである。横の身分制である。
つまり、小国家をふんだんに設立する。本邦くらいの国家規模なら百以上に分割する。
すると、その百の国家間のそこらじゅうで紛争がぼっ発するかも知れない。
でも、秋葉原の無差別殺人のようなヤケッパチな事件は起こるまいと思うがどうだろう。
98.隠居の教育論―1
ほとんど隠居である。
毎日の生活の中で、社会の役(会社ではない)にたっていない。その隠居の発言・小言だから社会に対して権利はない。しかし、その代わり責任もない(はずである)。
つまり、例えばアッチの小言とコッチの小言が矛盾していても気にする必要はない。
娘がピアノ講師(自宅で、近所の子供にピアノを教えている)をやってる。その関係で、最近のヤングママやその子供の生態に詳しい。
最近、7歳の女の子から直接電話があった(らしい)。
・・○○チャンから聞いたのですが、ピアノを教えてもらえますか?・・申込である。
普通は、その母親(父親でもいいが)が申し込んでくる。しかも、シッカリ値踏みする。
・・えっ、ソレってお母さんには話したの?・・
・・(・・無言・・)・・数秒後、、・・話してません。(小さい声)・・(その後、途中経過を省く)
感動した。もちろん、即、通って来ている(らしい)。こういう子供もいるのだ。
しかしだ。しかし普通はそうではない。レッスンの時間を変更して欲しいの依頼は頻繁にある。しかも、親からである。無断欠席?は数知れず(らしい)。
―― レッスンは1回いくらなので、休まれた場合は売上ゼロになるバカな方針 ――
で、せっかくヤリクリして時間変更に対応したとする。その後、又連絡がある。
・・やっぱ、子供がいやだって云うからああ、、、元のままでいいです。・・
この“やっぱ”でキレル。―ザケンナヨ!このガキやあ、、―と言いたい。(が、云わない)
そのほかでも、給食費を払わない話、先生にイチャモンをつける話、親の都合で欠席を優先させる話、数えきれない。
総括する。
1、 本邦に義務教育は不要になった。発想を逆転し就学は自由にする。
無論、何歳からの入学でもいい。その代わり、四の五の言うヤツは退学・停学にする。
問題は授業料などだが、中学段階まで無料とし国家が入学時に全額負担する。こうすれば、学校側がバカな生徒・学生を退学させても、学校側に損害はない。
なお、飽食の国家が給食制度などはやめるんだな。
2、 道徳教育を復活する。
こういうと、必ず戦前の国家神道の復活をいうヤカラがいる。自分の主張はそういう意味ではない。単に「子供に躾をする」これだけである。
「躾」とは、単純化すれば生まれて白紙の動物(赤ん坊)を、牛、馬、犬ではなくすることである。だから、理屈ではダメなのだ。叩いて教える。あるいは「理屈が分からない内に教え込む」のである。まずは、自分の子供を叩け!これである。
3、 なるべく早いうちに、自分の能力程度を教える。
現実は、無限に本人の能力程度を教えていない。これが、本邦の教育方針である。
誰でも、天才、指導者、偉人、芸術家、資産家になれると教える。確かに「権利はある」しかし、権利があるという事と可能性がある事とは雲泥の差がある。ましてや、実現性がかなり(50%くらい)ある事とでは天文学的開きがあるだろう。
つまり、本邦の教育理論では、無限に不満足の状態に据え置くことを目指していることになるのだ。平和で健全な国家が出来上がるはずがないではないか。
かように、隠居ジイサンの小言は必ず教育論になる。しかし、本邦ではそのうち隠居ジイサンの人口割合は急増の一途になりますよ。諸兄。その時になって慌てても知らんぞ。
99.おとこ女、と おんな男
もうこの国には、まともに子供は生まれないのではないか。
アタリマエだが、人間界では、子供は男と女の性的行動から生まれる。植物界では受粉という。動物界では交尾、人間だけは交接という。
この中で、人間だけは季節がない。いつでもやりたい放題である。一説には「だから、人間だけが増殖率が高かった」のだという。
生物学に係るテーマではなく、社会学の世界に戻ろう。
人間は、ともかくも適度に、頻繁にセックスをしなければならない。特に若者にとっては、いはば、それは義務である。そうしなければ子供が生まれないからだ。子供が生まれなければ、人類はいつか絶滅する。
これは絶対的真理だ。その絶対的なものが、本邦では崩れつつあると感じる。
かつては、逆だった。あまり頻繁にセックスしてはならん、という暗黙の規制があった。
あるいは、やってもいいが「無節操に子供を産んではイカン」という決まりがあった。この決まりは、法的規制を超えて道徳だったのだ。
ところが今はどうだ。性的行動への規制などはない。むしろ、一夫一婦制の下での性的行動はバカにされつつある。不倫のすすめ、という本まである。(ホントです)
もてないヤツだけがカーチャンとだけやるのだ。軽石ヤロウめ、という悪口雑言を知ってるか。「かかとする」のだそうだ。
つまり、無節操どころか、誰が(男)親か判然としない場合でも、ともかく産めという。少なくとも、道徳的規制はなくなった。
育てるのに自信がない? それなら全体で責任を持とう。そういう時代になったのだ。
何ゆえに、コンナことになったのか。
明白である。男と女がセックスをしないからだ。頻繁にセックスしないからだ。
更に云う、何故か。
男のようなオンナがはびこるからだ。今頃、街でオンナどもの会話を聞いてみたまえ。
ダセー・・おめえ・・何ヤッテンダヨー・・ケリをいれろよ・・よし!・・まっ、いっか!・・
あなたなら、これらの女とヤリタイと思いますか?
誘ってもこう云うよ、間違いなく。・・ナンダヨ、やりてえんか。イイヨ。ホラ、速くやんなよ。カネあんだろな、おっさんよ。・・
今、自分は政府に緊急的な移民政策を提言したい。移民=海外女性の優遇的受け入れである。アジア諸国はおろか、ロシア、中東、ヨーロッパ・・広く世界にあるべき女性文化を求めるべきである。でなければ、本邦男性の「性的行動」はいずれ退化すると予言する。
次にはびこっているのが、「おんな男」である。
まず、野心を持たない。理想がない。ケンカができない、怒らない。罵詈雑言のボキャブラリーが少ない。・・まあ、バカヤロウの一言も云えないんじゃないかな。
・・若者よ。いっぺんでもいいから、「ブッ殺すぞ、コノやろう」と云ってみたまえよ。・・
それともう一つ。今の世に、これだけラブホテルがありながら、若者がほとんど出入りしていない。(ホントです)
今は昔。18歳未満お断りの大人向け映画があった。今なら、どうか。何歳でもいいといっても入るまい。興味がないのだ。恐ろしく異常な社会が現出していると云える。
これらの世相に危機感を覚える読者諸君。もし諸兄が定年世代なら諸兄の出番である。
あらゆる手段を講じて「奥方以外の女との性行動」を実践することだ。無論、ラブホテルを利用する。食事代なども考慮しても、1回1万5千円位で済む。月2回で3万円。年間36万円。10年は可能として360万円。安いぞ、これは。
――終わります。――
100.値上げの季節
ヤキトリの値段が上がっている。(この場合のヤキトリは、タン、シロなどのモツを云う)
最近(H20年5月)の消費者物価指数によれば、生鮮魚類(つまり、刺身)と雑肉類(つまり、ヤキトリ)の値上げ幅が著しい。
これは困る。ミーハー的巷の実感によれば、ヤキトリは20%の値上がりである。1本100円が120円になっている。
たった20円と云うなかれ。他のサシミもつれ高だから、1回3千円の20%が600円、女の分もあったとして、1200円。週2回で2400円。月で約1万円である。
これはデカイ。
更に云う。実は、飲み屋は巧妙で、間違いなくツマミの量を少なくしている。だから、実質的には被害はもっと大きいのだ。
この傾向は、1年半くらい前から始まっている。今年度に入って軒並みなのだ。
ここで、予言しておこう。次はラーメンが上がる。集客に自信のある一部の店では、既に始まっている。うどん、ソバはまだ始まっていない。
そして、その次は家庭の主食材に来る。既に上がっているものに豆腐がある。
酒、米はまだ上がっていないが、時間の問題だろう。
これは、昭和年代の最晩年にバブルの崩壊があってから20年振りである。
バブル時代には不動産が値上がりしたが、これは景気循環の第4コーナーといって最後に現れる価格現象である。
その後、その不動産バブルが崩壊してデフレ時代に突入した。300円の衣類がおお流行りに流行り、100ショップが全盛だった。
中国なら、ビジネススーツだって800円で生産可能だった時代である。
それから20年。ようやく値段が上がり始めた。喜んでいる訳ではない。
歴史は繰り返す、と云われる。確かに「同じ傾向のもの」が必ず復活する。しかし、それは「あるデータ」では同じ傾向を示すのだが、人民に及ぼす影響は必ずしも同じではない。否、むしろ真反対の場合すらあるのだ。
今回の値上がりブームは、その真反対の影響のような気がしてならない。
何故か。給与が上がっていないからだ。たぶん、庶民の平均サラリーは下がってはいないだろうか。つまり、最悪のケースなのだ。
予言の続きを云おう。
そのうち衣類、工業材料が上がってくる。元凶は原油の値段である。サウジが増産を示唆しているが、それの効果は心理的部分だけだろう。
その後、何が起こるか。本邦経済に係わる予想では実に恐ろしい予感を禁じえない。
その1は、外国為替である。諸兄は円高を望むや、はたまた円安を望むや。
多数決では円安と云いそうだが、アナタ、円安とは輸入品が高くなる事ですぞ。円換算の石油が更に上がることですよ。
では、円高はどうか。輸出売上が少なくなり企業収益がガタ減りになることである。
不景気の現況になることである。つまり、今の吾が国にとって為替変動はおそろしい時限爆弾なのだ。
もう一つ、極めつけの爆弾を云おうか。消費税の値上げである。
間違いなく10%にはなるだろう。ヤキトリの20%などは吹っ飛んでしまう。
必須の支出は確実に上がり、一方、収入は増えない。そういう時代が来るのだ。
さて、それで「どうせい!と云うのか」である。
1、道徳の時代をつくれ。そうしなければ時代の精神が保てなくなるからである。
2、食糧(米、麦、雑穀、芋、・・・)を増産すべし。石油は使わないでやる。
3、原子炉を造りまくれ。再軍備もよい。徴兵制ならもっとよい。
まだあるが、今回はこれくらいにしておこう。
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