トップペ−ジ写真の一番手前の冊子は東京商科大学予科入学時の記念写真アルバムである。
戦後 大学予科は廃止されてしまった。現在の学生諸君にはそれがどうゆうものであったか、理解できないだろう。
戦前の学校制度を説明しよう。
満6歳 当時は数え年で7つから尋常小学校に入学。6年間(その上の尋常高等小学校に2年間行く人もいた)は義務教育で、卒業後は13歳で社会に出て職業につく人も多かった。
子供は登校には洋服を着ていたが、中には着物を着ている子もいた。私どもでは大正14年(1925年)から昭和6年(1931年)頃の事である。
中学生まではまだ未成年者であり、一人前とは認められず、後見人がこの人の行動の責任を持たねばならなかった。
小学校では祝祭日には式があって、登校して其の祝祭日に相応しい唱歌を歌い、国旗を掲揚し(だからその日を旗日と言った)、国歌を斉唱、校長先生の教育勅語朗読を謹聴した。(今にして考えてみると宗教で賛美歌を歌い、聖書を読むに似ていた。)
儒教道徳を基調としていたから、禁欲的で自己を戒め、慎み深いものであった。現在の様に放埓ではなかった。未成年の間は束縛が厳しかった。社会人に必要な読み書き算盤(以上知育)と修身(徳育)ならびに体操(体育)の3つの教育を受けた。
標語は「良く学び 良く遊べ」であった。
未成年者は、することが禽獣にも劣ってはならぬと教えられ、先生は訓導であって教え導いた。子供は、悪い事をすれば牢屋に入れられる。人殺しなどすれば死刑だと思っていた。
スポ−ツといえば、体操であり、柔剣道であった。
徳育は、論語、孟子(儒教)で漢文を白文帖に返り点などをつけない白文で墨書させられ、素読させられた。
漢籍で学ぶべき模範的なもの、国文学も基礎教養として知っておくべきもの、たとえば、平家物語、太平記、方丈記、徒然草などの、さわりを読まされた。
私の年代の年寄りは 字を良く知っていて 「生き字引」といわれる人が多くいる。
予科では算盤の授業もあったから 今の人のようにすぐ計算機を取り出さなくても 暗算が出来る。
今でも予科入学試験のことは語り草となるのだが。
マルバツ、ではなかった。英国人教師の読み上げる英語のデイクテイションは、地方出身の学生には苦手だったらしい。
作文があって、筆で、しかも文語体で書かされた。
数学は、答えを間違えても、解の途中まで出来ていれば何パ-セントか点を呉れたのではないか?
毎年暗記科目が一つあって昭和11年(1936年)は化学だった。
昭和11年(1936年)2月26日には、2・26事件が起きた。この年我々は大学予科に入学することとなった。
中学校は5年で、18歳又は17歳、4年修了で入試に合格して上級学校に進学する人もいた。現在は3年である。
私どもでは昭和6年(1931年)から昭和11年(1936年)頃の事である。
上級学校は、高等学校(高等商業、高等工業)もしくは大学予科で、3年18歳から21歳である。昭和11年(1936年)から昭和14年(1939年)。
大学は3年21歳から24歳。昭和14年(1939年)から昭和17年(1942年)までの筈が昭和16年(1941年)12月27日卒業となった。
総ての人に兵役の義務と言う憲法上の国民の義務があって、20歳になると徴兵検査を受け身体の強健の度合いに従がって、甲種合格、第1乙種合格、第2乙種合格、丙種不合格(もっとも 戦時末期には丙種合格となった)と等級をつけられて、兵役に服さねばならなかった。
但し大学に進学した人には 徴兵延期と言う特典があった。
私達は、徴兵延期の恩典に浴して大学に進学していたわけだが 其の年1942年3月卒業予定の所、徴兵延期が3ヶ月短縮され、3ヶ月繰上げ卒業させられることとなった。1941年12月27日卒業である。
軍は兵力、特に下級将校を必要としていた。
小学校・中学校の束縛が厳しかっただけに、大学予科合格は、いよいよ(予科2/3年には)成人の日を迎えて、自由と自治の新しい世界に羽ばたくことになるのだとばかり、心弾ませた。
束縛を体験せねば、自由の貴さは解らない。
寮歌に「野に讃春の歌高く」とあるように、「シュトルム ウント ドランク」の青春を謳歌するのだが、一方、人生に目覚めて「デカンショデカンショで半年や暮す」と哲学を学び、人生観・世界観を考え、天下国家を論じた。身も心も一人前になりつつあった。
大学予科入学記念写真帖には、そのような紅顔の少年達が、毬栗頭・制服に身を固め、神妙な顔をして、4段の雛壇に1段約10名づつ、合計約40名、各クラス1葉ごとに、6クラス6葉に写されている。
6クラスの内、1組から4組までは第2外国語・ドイツ語の組で、5組6組はフランス語の組であった。
予科入学記念写真
写真帖表紙 1組(嘯風會) 2組(梧友會) 3組(尚友會)
4組(七星會) 5組(亦楽會) 6組(流芳會)
7組(望嶽會)…卒業記念アルバムより
下線をクリックしてください。
大学本科には、大学入学試験に合格した商大専門部、各高商出身者、ほかに数は少ないが旧制高校出身者、海軍経理部からの委託学生などが約100名参加した。12月クラブ 7組の方々である。
現在の大学の呼称は”一橋大学”だけれども、当時は”ヒトツバシ”が俗称で1875年商法講習所発足以来、紆余曲折があって1920年に”東京商科大学”に昇格した。(この間の詳細な歴史はトップ頁の写真手前より2つ目の卒業記念アルバムに収録されている。)
戦前の母校は東京商科大学であり、予科3年・本科3年で、ほかに専門部(地方の高等商業に匹敵する)及び教員養成所3年があった。
「簿記の筆とる若人に 誠の男 君や見ん」などという歌があったが、概して簿記などはクラ−クの扱う技術であって、”キャプテン オブ インダストリ-”の本気で取り組むべきものではない、というごとき気風はあったと思う。
学長は、我々が大学在学中にお亡くなりになった上田貞次郎先生(1879〜1940)であった。大学卒業時は、後に文部大臣になられた高瀬荘太郎先生である。
上貞さん(我々は尊敬と親愛の気持ちをこめてウエテ-サンとお呼びした)には、「英国産業革命史論」という名著があり、そのなかに"T.Carlyle,
Past and Present, 1843"の「キャプテン オブ インダストリ-」が紹介されている。
上貞さんの胸像は、今も大学校庭に仰ぎ見ることが出来る。之は上貞さんを慕った和田一雄君や故間宮健一郎君等、12月クラブの学生の熱意に感動された彫刻家・朝倉文夫氏の作品である。朝倉氏は後に1948年文化勲章を受賞された。お嬢さんが摂さんである。
故間宮君の卒業40周年記念文集「波涛」(トップペ−ジ写真ご参照)「上田先生胸像の建設と朝倉先生の思い出」の文章に詳述されている。
先述の卒業記念アルバムには、90名余の先生方の肖像写真が収録されているので、拝見していると思い出が次から次へと湧いてくる。
一ツ橋には立派な先生方が大勢おられて、其の声咳に接するだけで、すでにこちらが上等な人物になってゆくような気分にさせられた。予科入学の際の学長は三浦新七先生で、文明史のご専門であったが、学園混乱の時機に収拾にあたられた。銀髪で高貴に感ぜられた。
先生方が選ばれる教材と言えば、ヘロドタスのヒストリ-、HGウエルスのトノバンゲイ、ゴ-ルズワ−ジ−のアップルトウリ−とか、極めて立派なものであり、最高の人格形成の意図が感じられるものであった。
漢籍の授業もあり。杉山令吉先生による書道、「王義之の蘭亭帖」を手本とする習字などは最高級なものであった。
次に掲げるのは杉山先生の卒業記念アルバムのために書いて下さった揮毫、ならびに5組亦楽会のために書いて下さった「亦楽」の二字である。
亦楽の二字は論語、学而編 「学而時習之、不亦説乎。有朋自遠方來、不亦楽乎。人不知而不チ、不亦君子乎。」から来ている。
大学予科は、この年、昭和11年(1936年)開寮となり、私どもが第1回生である。
全寮制で、少なくとも1年生は寮に入った。例えば「北寮13号」と言うような、同室で生活をともにした友人には特別の親近感がある。寮では所謂スト−ム等と言う物もかかったし、青春に飛び込んでゆく感じだった。クラス対抗の運動競技会があり、「クラスチャン」と呼んで、あらゆる団体競技を体験した。ラグビ-、ホッケ−、サッカ−、バスケ(ツトボ−ル)、バレ−、ボ−ト、野球、に優勝を争った。
春秋には例の学園祭”一橋祭”があって、クラスごとに、団体の踊りや演劇を披露して其の優劣を競った。
所謂「部活」があって、入学早々、各部への勧誘は激しかった。部活には団結が必要で、長期にわたって苦楽をともにしたから愛部精神が強く、人に「ご出身は?」と聞かれれば「東京商大ボ−ト部」と答える程のものであった。
当時、東大教授・河合栄治郎先生(社会政策ご専門)が「学生生活」と言う本を書かれて学生に指針を示されていたが、必読書として多数の書物を上げておられた。ツルゲ−ネフの「初恋」を初めとして、ドストエフスキ−、 トルストイなどのロシヤ文学を米川正夫氏訳の岩波文庫で(印刷インキの香りが懐かしい)、ゲ−テ、ニ−チエ、フランス文学、英文学、漱石、鴎外、藤村、倉田百三、阿部次郎などなど 片端から濫読した。
以上はもっぱら教養を磨く話に終始している様だが 「良く遊び良く学べ」と子供の時から言われたように 「良く遊んだ」
授業も良くサボったので、出席時間不足で落第するような夢を卒業してからも見たものだが、よほどサボった様だ。
サボって何をしているかと言えば、映画をよく見た。今にして思えば教養になっているのだが、これは別項に詳述したい。
名曲喫茶とかジャズ喫茶へもよく行って音楽に親しんだ。
小平も国立も今のように住宅はなくて、くぬぎの林が多く、武蔵野の名にふさわしかった。予科の東のくぬぎ林の小道を分け入ると、小さなブル−ベルという喫茶店があって、娘さんが二人いた。小説「アルトハイデルベルヒ」を連想させた。
国立には駅のすぐそばにエピキュウルという喫茶店があったが、今はない。ブル−ベルもない。
実はより大切な 学問の事をもっと書かねばなるまい。
試験前に徹夜で集中的に吸収したり、科目を分担してゼミナ−ル方式で試験を乗り越えたりしたものだが、ゼミナリステンが優をとって、講師の方が良だったりしたこともあった。いずれにせよ世の中に出てから役に立つような勉強はしていた様だ。
大学予科は本科へ進むための基礎的学問を習得すべきであると考えられたものだろう。物を考える際の論理・方法論など哲学に関しては、何の事かよくは解らぬまま、太田可夫先生のお話を伺った。
ギリシャ哲学に関して、その世界観や人生観を藤井義夫先生の講義で教えられたが、本科へ行ってから山内得立先生のギリシャ哲学の講義を伺い、ギリシャ哲学は文学的だなと感じた。
しかし抽象論理よりは、やはり”生きた”人間を知りたいと考えて文学書を盛んに読んだし、逐次 歴史に興味を持つようになった。
上田辰之助先生の独仏語と英語の関係の話や、村松恒一郎先生のメヂチ家の話には興味をそそられた。
法律は、原論を刑法の牧野英一氏に学んだ。法は倫理の最低限度を破った犯罪者に対して、その刑罰は応報刑か教育刑か、など示唆に富むものであった。
本科へいってからの憲法は、「天皇機関説」の美濃部先生の一番弟子で敬虔なクリスチャンであられた田上譲二先生が居られたが、田上先生は行政法の講義をもたれ、憲法は”まるで神道の祝詞のような講義”を筧克彦先生から伺った。
倫理は、「風土」「古寺巡礼」等名著のある和辻哲郎氏の「人間の学としての倫理学」の著書に教えられた。
まあ 何の事はない。中山伊知郎先生が卒業アルバムでゼミナリステンに与えられた言葉「人間は独りで生きているのではない。----------」という事である。
経済原論は中山伊知郎先生の講義であった。
ケネ−の経済表から始まってアダム・スミスの国富論、道徳情操論それからオ−ストリヤ学派の話などを伺った。
本科生活の一こま (長閑な校庭の語らい)
実業の社会に出てから之が経済のイロハだと思ったのは限界効用学説で、何の事はない、需要と供給のバランスの問題で、供給が多すぎれば価格は下が、物価は原価で決まるのではなくて需給バランスで決まる、という、ごく当たり前のことであった。成る程 清水寺の大西老師のお説教に「大好きなお饅頭でも、もう食べきれなくなっても、もっと食べろと出される饅頭はもう要らないものなのだ。」と。
省力、最小の労力で最大の効果、分業、相互依存関係、など現在の経済社会を見るにつけ留意せねばならぬことばかり教えられた。
通貨金融とか為替は難しかった。資本主義経済の根本ではないか。難しいはずだ。最近でも、この問題で世界経済が混乱する。
投機は教えられなかったし、うまく出来るとは思えないので、やらない。
12月クラブ残存メンバ−150名。各自、その生い立ち環境の違いに応じて、150の学生生活時代の回想があるわけだが、おいおいメンバ−各位からも回想録が寄せられると思う。
いずれにせよ各自研鑚切磋琢磨してよりよき世界を作りたい願いを持っていた。