故郷の春
間 宮 健 一 郎
一橋寮々歌故郷の春を作詩した時期は昭和十一年の初夏であった。大正末期以来の文化は爛熟し、大東亜戦の前駆となった日華事変も勃発してはいなかった。
満州事変直後の頽廃と哀愁の漂う誇らかな母校に入学し、小平の予科にこの年から始められた三寮の初めての住人でもあり、新入生でもあった。
まだ傷つけられていなかった独歩調の武蔵野の中で、進学の抱負と新生活の感動とが友情に培われて育って行った。
五月頃であろう、寮歌を募集するという掲示が出た。私的には作詩作歌等、筐底にためていた私であったが応募してみる気になった。
先輩に錚々たる人達がいることを顧慮する前に、初夏の青田を渡って来る蛙の声を聞きながら深夜寮友の枕元で冥想することが、楽しかったからでもあろう。
審査委員には寮監太田可夫先生、寮長杉山雷蔵氏等がなったょうである。
発表になった時は一等に先輩依光さんの”紫紺の閤”
二等 ”故郷の春”
三等 同期長谷川威君の”緋々燦爛”の順であったと思う。
戦災で焼失したが、賞品にマーキュリ−と銀杏のデザインのバックルを貰って、矢張り嬉しかった。
昭和十五年秋、日米間の危機を迎えた頃、突然文部省から社団法人一橋会の解散をせまられた。
会長高瀬学長、小生が総務理事であった。社団法人が自由主義的機構で一橋の名称がリべラリストの代名詞の故であった。
何らかの名分によって、せめて一橋の伝統ある名称と会の母体だけでも温存してゆきたい。これがその時の権力に対してなし得る最善の方策と思われた。
論談の果て、中野城山町の故杉本栄一先生宅で除夜の鐘を聞いたこともあった。
当時私達の理解者又庇護老であった先生、いまは、亡く何等お酬いできないで慙愧に耐えない。
自由の駒に跨りて、
弓手にかざす自治の旗。風雪狂う巌頭に、
裸身鉄鎖につながるる。
プロシアスの勇あれど、噫、戈なきを如何せん。
この歌詞の主題はいみじくも自分の運命を予知していたような結果となり、卒業を前にしてこのような大東亜戦を背景とする風雪と、レジスタンスに直面したわけであった。
その後私も予備将校の一人として自ら運命の壁に戈をとって立ち向い。大東亜戦の深淵に身を投じたのであった。
ついに還ることのなかった優秀な級友達を想う。
〔昭十六年学部卒〕 〔昭和三八年二月一七日〕
卒業記念アルバム(昭和16年1941年)より
間宮健一郎君は詩人であった。
在学中は一橋会で活躍された、そのことは、亡くなる前年の告別の手記「魚影水心の記」「50周年(波涛第二)4組・・・」や「回顧」「卒業記念アルバム」「卒業アルバム始末記 和田一雄君」の手記に記されている。「40周年文集(波涛)」「目次」「4組 七星会 ・・ 青春曼荼羅」は34頁にわたる予科入学から終戦前後までをよんだ長編詩集である。
「同40周年文集」「目次」「4組 七星会・・余白の生(雑記水心抄より)」がある。
「同上」「目次」「4組 七星会・・上田先生胸像の建設と朝倉先生の思い出」は一橋人必読と思う.また30周年文集「回想」には興味深い数々のことがら,貴重な一橋会の苦心談等が記されている.
尚「卒業アルバム」「目次」「7星会」に3行の彼の卒業の辞を読み取れる.嗚呼!
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