5組 亦楽会 クリック(卒業記念アルバム・リンク)
卒業 30周年 記念文集 |
40周年 記念文集 波濤 |
50周年 記念文集 波濤2 |
60周年 記念文集 |
卒業アルバム 始末記 |
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和田一雄 寄稿文 |
三宅駿一君 を偲ぶ |
二一世紀 対策委の 同志募集 |
二十一世紀の 孫達への メッセージ |
丸の内と倶に |
故 天谷幸和君 追悼の記 |
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君あしたにさりぬ。
ゆうべの心千々に何ぞ遥かなる。
君を思うて岡の辺に行きつ遊ぶ。
岡の辺なんぞかくかなしき。
蕪村
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●追悼 和田 一雄 君 5組 山崎 坦
亦楽会をクリックしてみてください。そして東京商科大学予科入学記念写真をクリックしてください。
毬栗頭41名の少年の集合写真です。
三列目の一番左端が和田君です。
甲子園で活躍している高校3年生と同じ年頃でした。小平の寮の第1回生です。
予科時代、生涯最良の青春時代の写真が何枚も入っています。
このころのこの少年達は総じて誠に真面目で純情でした。
[卒業アルバム始末記]
後に和田君が軍隊に入ってから、シンガポール捕虜収容所長の副官になったのですが、終戦後戦犯に指名されることはありませんでした。
このことは私共の誇りです。
[故天谷幸和君追悼の記] はシンガポール時代の話であり、悲しくもロマンチックな話で、劇団四季の’南十字星’劇に彷彿と似ています。
山中ゼミナール をクリックしてみてください。
井上君、高橋君の次に和田君の写真があります。出身は湘南中学とあります。
和田君の父君順顕氏は高名の建築家であり、金沢ご出身、住居は麹町一番町にあったけれど、洋館の別荘が大磯西小磯にあったから湘南中学に行ったのだろうか。
父君の事務所が丸ビルにあったことを卒業記念文集に書いています。
[丸の内と倶に]
彼は浪人して入学したから他のクラスメートより年上で、兄貴分と認めてあだ名もジーサンでした。つねにリーダーであったことは寄稿文を見ても察せられます。
[二一世紀対策委の同志募集]
[二十一世紀の孫達へのメッセージ]
一橋会の理事をやり、間宮君と上田貞次郎学長胸像建設にも貢献しています。
(上田先生胸像の建設と朝倉先生の思い出)
就職は山下汽船で復員すると会社え戻ったけれど戦後の海運は絶望的で、その間の事情を文集に書いています。[三宅駿一君を偲ぶ]に詳しく。
その後は財閥解体で出来た小会社に属し、やがて合併で出来上がった三菱商事・化学品部で活躍しました。
老後は同窓会5組の亦楽会で方々にゴルフに出かけました。箱根、大洗、宮崎、小金井等など、一番楽しい会合でした。彼は聖跡桜ヶ丘カントリークラブのメンバーで、エンジョイしていたとおもいます。
[亦楽会 写真集(1)]
加齢と共に身体に故障が出ることは誠に致し方ない。
片方の腎臓摘出、動脈瘤発見に対して血圧は130を超えない努力がなされていましたが、やがて食事中に睡魔が襲ってくるのは如何なるわけか。
従来入退院を繰り返していましたが、1月25日の入院で検査の結果、脳幹両側に出血があることが解りました。やがて之が命取りで2月24日に安らかに永眠されました。九十三才。89歳でなくなられた父君と同じように安らかな最後でした。
ご冥福をお祈りいたします。 合掌