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ここに一枚の写真がある。はっきり言っておくが私は阪神ファンではない。もしアンチ阪神ファンと言う言葉があるならそれに相当すると思う。虎キチの部下が虎す(扇子)、虎巻(鉢巻)、虎帽、虎ホン(メガホン)など虎グッズ7点セットを購入してきて、私の歓迎飲み会で嫌がる私に無理やり虎ッピ(法被)を着せて写したものだ。
私は1983年2月より1987年1月までの4年間、大阪で単身生活した。39歳から43歳まで男の厄年の前後を大阪で過ごしたことになる。住まいは新大阪駅前の単身生活者専用ワンルーム・マンションである。ホテルのシングル・ルームよりちょっとだけ広い。
仕事は半導体製造装置営業の関西責任者であった。営業の守備範囲は北は新潟、東は浜松、以西は九州鹿児島までである。半導体に関係する電気メーカーのある府県は全て訪問した。
大阪での標準的な生活パターンは朝7時出発、新大阪構内にて朝食、7時半出社。仕事を20時ごろ終え退社、部下と居酒屋でおだをあげ、その後北新地に繰り出し、深夜のご帰還が通常であった。朝は徒歩10分、夜はタクシーを使った遠回りの通勤径路だ。
でも大阪での宿泊は月に10日ほどしかない。出張先が10日、東京本社での会議出席、工場での打ち合わせ後の自宅宿泊が10日と綺麗に3分割された生活であった。息子が小児ぜんそくを患っていたが、大阪赴任を機会に治癒した。私の喫煙が原因と判明した。以来ずっと私はホタル族。自宅での喫煙場所はベランダか台所のレンジフードの下である。禁煙の意思は今のところ持ち合わせていない。
大阪での1年目、神戸山口組と大阪一和会との抗争が勃発した。神戸ナンバーの黒塗り大型乗用車、岸和田ナンバーの乗用車には近づかないよう、社内に回覧が回った。走行中の自動車が銃撃されたなどのニュースも流れた。私の運転免許証はそれ以来ペーパーのみの優良ゴールド免許となってしまい、本人確認用身分証明書に機能落ちした。
大阪での営業活動は精力的であった。月・火は長崎往復、水・木は熊本往復、金・土は大分往復、毎日飛行機に乗ったこともある。また大阪より夜行寝台列車で新潟へ、午後帰阪、その夜、夜行フェリーで西条へなどもあった。列車、フェリーの中では乗務員に注意されるほど遅くまで良く飲んだ。
話を写真に戻そう。阪神タイガースは例年5月、6月ごろまでが調子良く、7月に入るとさっぱりとなり最下位に定着するのが毎年恒例であった。しかし1985年は違った。夏になっても勢いは止まらず、掛布、バース、岡田バックスクリーンへの3連発など絶好調。
20年振りの優勝に向かって驀進中。町もざわざわしてどこか落ち着かない。
北新地も例年の夏とは違った。馴染みのスナックのママさんは熱狂的な虎キチで、阪神勝利の瞬間から六甲おろしが鳴り止まず、私にとって耳障り極まりない。虎キチ共の合唱は喧しいことこの上なく、カウンターの隅でしばらく飲んで早々に退散する羽目となった。
馴染みのスナックは2階だが、1階のうどん屋の親父が阪神が勝つと機嫌が悪くなることを知った。スナックに出向く時は、うどん屋の親父に結果を聞くことにした。結果を知って顔を出し「今日どやった」とわざととぼけて「あかん、負けてもうた」などと言わしめた。ゆっくり機嫌よく静かに飲めたことは言うまでもない。この馴染みのスナックより、18年振りの優勝を決めた2003年に閉店の挨拶状が届いた。
たった1枚の阪神の法被を着た写真だが大阪での単身生活の思い出が凝縮されている。
今眺めても20年前の若き良き日がさながら昨日のように思い出されるから不思議だ。
当時80キロあった体重が今は67キロとなっただけが違いかもしれない。
アンチ阪神ファンだが「大阪有難う」「ありがとう私の恋の町大阪」「阪神ありがとう」
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