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昭和42年一橋寮ゴルフ会

開催日 : 平成27年11月11日
場 所 : 熊谷ゴルフクラブ
参加者 : A篠田、B前嶋、H猪木、I檀上、I羽山、J楢原

本会は昭和38年小平の一橋寮で青春のひと時を一緒に過ごした仲間が、年に2度春と秋にゴルフと会食を楽しむ集まりで、還暦を迎えたことを契機に、平成15年秋に始まり、今回が第22回目。熊谷市に住む町の名士前嶋君がゴルフ場の手配から二次会の手配まですべてやってくれている。先日のペルー人殺人事件で、同じ町内のご夫婦が殺害されたことで何かと大変だったにも拘らず、今回もいつものとおりしっかり手配を済ませてくれた。 あらためて前嶋君に感謝。
いつもは3組9〜10名でのプレーなのだが、今回は風邪をひいた、腰の具合が悪いなど、歳相応の理由で欠席者が多く、総勢6名という少人数でのゴルフ会となった。そのうえ雨が降ったりやんだりの天気予報で、何となく盛り上がりに欠けるスタートとなった。
しかし結果としては、17番ホールの途中から18番ホールにかけて本降りに近い雨にあったものの、それまでのプレーの最中は時折パラりと小雨を感じる場面があった程度で、全体的にはいいコンディションの中で和気藹藹と楽しいゴルフができた。新ぺリアでのプレー結果は全員がネット70台というハイレベルの争いの中で、スイング改造中ながらベストグロス83を出した檀上がかろうじて僅差で優勝を手にした。また、楢原君が4つのうち3つのニアピンを獲得し、アイアンショットの精度の高さを見せつけた。
二次会は、熊谷駅近くにあるピザが美味しいと評判のイタリアンレストラン「GAPPOLINI」(ガッポリ―二)での食事会となり、何故かピザはついに出ることがなかったが、最高に美味しいイタリア料理とワインを存分に堪能した。食事をしながらこの歳の定番ともいえる健康に関する話題に花が咲き、酒量が進むにつれNHK連続ドラマの話題に端を発して近現代の歴史や昨今の政治情勢など、多岐に亘って話が盛り上がった。その流れで恒例のカラオケスナック「花束」へ行って、帰りの新幹線の時間ぎりぎりまでここでまた一段と盛り上がった。
次回は平成28年2月に猪木君のアレンジで夫人同伴の食事会を予定している。      

(檀上記)

   
「松本正義君の如水会理事長退任慰労会」開催報告

1.開催日:平成27年9月16日(水)午後6時半より
2.開催場所:如水会館14階記念室西
3.出席者:主賓 松本正義                 
 (1)陸上部  A青木、C吉田(良)、G吉田(輝)、H水野、K山崎(隆)    
 (2)Eクラス 小河、小野、小原、喜連、栗又、澤田、下村、杉本、鈴木(成) 、服部、浜田、山口   
 (3)吉永ゼミ C庵原、F横山、    
 (4)学年会  A小杉、尾崎、伊藤(修)、C永井(孝)、D月崎、津田、福島、 G永井(邦)、I羽山、K川村

(以上30名;敬称略)

本年6月15日開催の総会をもって如水会理事長を退任した松本君の退任慰労会を関係3グループ(陸上部、Eクラス、吉永ゼミ)、並びに学年会有志の合同で開催した。冒頭、尾崎幹事長の司会で発起人代表の小杉世話人会代表より同君の5年間の理事長在任と、副理事長も含む7年の長きに亘る如水会リーダーとしての功績を紹介すると共に、前世話人会の尽力もあって如水会創立100周年記念事業の募金活動において応募者数では全学年中第2位、寄付金額では堂々の第1位であったことを報告し、同君の陣頭指揮を称える謝辞があった。 続いて松本君より、本学で学んだアカデミアがその後社会に出て様々の場面で役に立ったこと、また如水会の強い結束力と昭和38年入学同期会の熱い友情と強固な支援に対し、心から感謝したい旨のお礼の言葉が述べられた。
陸上部元キャプテンの青木君の乾杯の音頭で懇親会を開催。連日の公私に亘る激務で疲れがあるはずの松本君もクラブやゼミの仲間、或いはクラスの仲間たちと談笑し、求めに応じて記念撮影に応じる等、大忙しであった。美味しい料理とお酒に舌鼓を打ち、和やかに歓談したが定刻となりEクラス幹事の栗又君の中締めで一旦〆て全員で記念撮影。
慰労会は散会としたが話の尽きない面々は場所を一橋クラブに移し、同君を囲んで話の花を咲かせ相互の懇親を更に深めあった。        

(文責 小杉)

   
石化産業人を囲むゴルフ会(第4回)

さる、8月25日に石化業界経験者とその友人の懇親ゴルフ会が、名匠井上誠一氏設計の難コース湘南カントリー倶楽部にて開催されました。真夏の大会は今回で第4回目となり 石化産業人6名、友人7名の計13名の参加でした。
当日は曇天微風、時折小雨の交る、酷暑の続いた8月にしては快適な天候に恵まれました。競技は新ぺリア方式を採用し、和気あいあいのうちにも熱戦が繰りひろげられました。 結果は13人中11人がネット70台でしかも5打差の中に並ぶという大接戦となり、 籤運に恵まれた大森、岡田、梅原君が上位入賞となりました。プレイ後の懇親会では川村君の鮎釣り初体験談も披露され、70歳を超えてますます盛んの集りでした。
その後、有志6名は北村君の本拠地である大船の居酒屋「いちぜん」に乗り込み、相模湾の地魚と学年会を肴に一人3合半ずつ飲み干して、再会を期し解散しました。
なお、添付のさわやかな写真はプレイ前の顔であることを付け加えます。

参加者:梅原敏正、小田なおみ、大森輝夫、岡田健志、川村忠太郎、北村光一、檀上正泰、
     津田正道、月崎博章、永井邦雄、西田昌弘、服部達、羽山章一

   
昭和42年一橋寮ゴルフ会

開催日:平成27年7月7日、
場 所:熊谷ゴルフクラブ
参加者:石井、滝澤、檀上、楢原、羽山、前嶋、猪木

  平成15年秋に始まったこの会は今回が21回目。熊谷市在住の前嶋君にゴルフから二次会まで全てアレンジしていただいている。
 梅雨の最中であったが、幸いなことに前日まで続いた雨は止み、程良い曇り空となった。ケヤキ、スダジイ、ヒマラヤ杉、サクラ等50種類ともいう木々の深い緑に囲まれ、心洗われる1日となった。深いラフに手こずり、堅く締まったバンカーで数打叩き、飛距離が落ちたなーと嘆息しながらも全員元気にラウンド。新ぺリアで猪木が優勝。ベスグロは檀上君と羽山君の92。参加者の平均スコアは5年前が97、今回は100と着実に右肩下がりである。

 二次会は市内の和食"安心院(あじむ)"。繊細な日本料理と安心院ワイン、黒龍純米酒を堪能した。大分県宇佐市にワイナリーがある安心院ワイン(白)について、ワイン通の石井君は「ふくよかさのなかにきりっと締まった味わいで、とても良い」と高く評価していた。黒龍も和料理にピッタリ。寮生時代は、腹が減ればインスタントラーメン、たまの酒はトリスかレッドだったこと、一橋寮祭で出した模擬店に3人の津田塾生が手伝ってくれたこと、熊谷市に住む俳人金子兜太氏の話から趣味の俳句談義等々、時を忘れて談笑した。

 この会は一橋寮同期の仲間が還暦を迎えたことを契機に始まり、春秋2回のゴルフと年1回の夫人同伴の懇親を続けている。今や古希を過ぎ、お互いにアチコチ不具合が生じているが、これからも気力・体力が続く限り、ゴルフと美酒と歓談を楽しもうと励ましあっている。

 次回は、秋深まる11月10日を予定。 

(猪木記)

   
前世話人会シチリア旅行記

1、日程
 平成26年3月25日(火)〜4月1日(火)の8日間

2、参加者
 月崎(D)、津田(D)夫妻、羽山(I)夫妻、杉本(E)計6名

3、日程
 25日(火) 成田→ローマ→パレルモ(パレルモ泊)
 26日(水) パレルモ(パレルモ泊)
 27日(木) モンレアーレ→パレルモ(パレルモ泊)
 28日(金) パレルモ→エリチェ→トラーパニ→アグリジェント(アグリジェント泊)
 29日(土) アグリジェント→ピアッサ・アルメリーナ→カルタジローネ→ シラクーサ(シラクーサ泊)
 30日(日) シラクーサ→タオルミーナ(タオルミーナ泊)
 31日(月) タオルミーナ→カターニャ発ローマ経由(機中泊)
  1日(火) 成田着

4、計画と準備
 我々4人は平成20年から23年までの4年間、昭和42年学年会の世話人を経験した仲間である。実際には、前任の田所君たち諸兄から引継いだ時は新事務局長が決まらず、高原君が後任者が決まるまで続投してくれるという好意のもとでスタートした。
平成21年4月、月崎君と同じDクラスの津田君が事務局長を引き受けてくれることになり、やっと新たな世話人体制が整った。
 4年間の任期の終了が近づいた頃、次の小杉君たち諸兄に世話人のバトンタッチが終わったら、打上げの旅行をしようかという話が持ち上がった。酒も入っていたせいか、話も大きくなり、どうせなら海外に、それもヨーロッパへという方向に固まった。程なく、中世ヨーロッパ史の渡辺(金)ゼミテンだった羽山君から「シチリアが面白そうだ、行き先としてどうか?」との提案が出され、まだ誰も行っていない地であり、東西文明の十字路というロマンも手伝って全員一致で行き先が決まった。
 それから間もなく、平成23年3月の東日本大震災が発生、シチリア旅行の話は中断せざるを得なくなった。そして、社会情勢が東北支援のありかたの一つとして、東北への旅行が勧められていたことから、この年の12月に打上げ会として、4人で仙台近郊の秋保温泉に1泊旅行をして、お互いの労をねぎらった。
 その後、昭和42年会の定例会の後の2次会などで集まったときに、4人でシチリア旅行を実現しようという方針を再確認し、時期を平成26年の3月下旬〜4月上旬、期間は8日間程度とすることを決めた。また、夫婦で参加も検討し、羽山君、津田君が可能性が高まり、参加人数は6人予定に固まった。
 ツアー会社は羽山君が調べてくれた候補先が我々の条件に合いそうだった。大手の   旅行会社ではないが、イタリア旅行専門の会社で、旅行案内を見るとシチリアのみで8日間コースが複数あり、出発日は毎日出発可能、費用もこの時期なら安上がりという嬉しい情報が入った。
 そこで、一度4人でこの会社を訪問して詳細条件を確認し、よければここに申し込みすることで一致、平成25年10月初旬に実際に訪問した。条件を確認したところ、 6人で参加なら全行程を皆さんだけの専用車で回れるようにするとの好条件も提示されたこともあり、その場で申込書も記入提出して、いよいよ本決まりの気持になった。
  加えて、この日の夜は月崎君が知り合いのシチリア料理店を予約してくれていたので、2年越しの夢がいよいよ実現するという嬉しい記念日となった。店ではシチリアの郷土料理とワインを堪能し、夜遅くまで歓談した。
 この日以降から、各自が本格的なシチリア情報の収集に着手し、メールで互いに情報交換して旅行準備が始まった。羽山君からは高山弘著「中世シチリア王国」講談社現代新書がコンパクトでシチリアの歴史が理解しやすいと推奨、津田君からは塩野七生著「フリードリッヒ二世の生涯」新潮社刊で、この皇帝の偉大さの源泉がシチリア育ちの環境にあることを紹介してくれて一読を推奨、シチリアへの関心を大いに高めてくれた。また、BSなどのTV番組でシチリアが登場する番組を見つけたときは、互いに連絡し合って出来るだけ視聴するようにした。なかでも、津田君が紹介してくれたNHK放送大学の「地中海世界の歴史」講座は正にタイムリーな予習ができたことでありがたかった。全部で15回以上のシリーズであったが、そのうちの3回でシチリアが登場した。講師は前述の高山弘東大大学院教授で、自分がシチリアで撮ったビデオも使用しながらの授業は私たちのシチリアへの関心を大いに高めてくれたのである。
 また、我々昭和42年同期生の平澤和夫君(Iクラス)が平成17年に「新時代のへの文明的理解」を著作し、この中で、文明には「ダム文明」と称する大型の国際文明と、「ブリッジ文明」と名付ける小型の長寿文明が存在するという持論を展開している。シチリアは1つの地域で、平澤君の定義する「ダム文明」の古代ローマ、中世イスラム、近代ヨーロッパと、「ブリッジ文明」の古代ギリシャ、ビザンチン等と関わった稀有の地と言えるのではないか。後者のブリッジ文明が前者のダム文明を創るという平澤君の仮説が、文明の十字路といわれるシチリアで感じ取れたらとの興味もあった。
  ここで、私たちが知り得たシチリアの歴史をごく簡単に触れてみようと思う。
  シチリアは地中海のほぼ中央に位置し、面積は約2.5万平方km、人口は約500万人で日本の四国の面積、人口の約1.4倍である。安定した農耕社会が出来上がっていたシチリアに、紀元前11世紀頃に遠洋航海に長け、有能な商人であったフェニキア人がこの島に着目して、パレルモなどの都市を建設したのがシチリアの発展の先駆けとなった。
  紀元前8世紀頃にはギリシャの植民都市として、アグリジェントやシラクーサなどの都市が建設され、一時はアテネと覇を争うほどに繁栄した。その後はローマ帝国の支配下に入ったが、帝国の東西分裂の後は東ローマ帝国、やがてビザンツ帝国と呼ばれる帝国の支配下に入った。しかし、10世紀の初めにはシチリアはイスラム教徒が征服することとなり、その支配下に入った。このように、シチリアはラテン・カトリック文化圏、ギリシャ・ビザンツ文化圏、アラブ・イスラム文化圏という3つの異なる文化圏が相互に接触しながら、影響し合うという特殊な文化圏であった。
 中世の時代に入ると、ラテン・カトリック文化圏では、聖地イエルサレムへの巡礼熱の高まりと十字軍の遠征が開始され、地中海の真ん中に位置するシチリアが注目されるに至った。また、当時、北フランスに定住していたノルマン人が新天地を求めて、シチリアやイタリア半島南部の傭兵熱に呼応する形で移住が始まり、やがて大きな勢力に成長。ついに、1130年、ノルマン人によるシチリア王国が誕生した。王国はフリードリッヒ二世の没する1250年まで存続したが、この間の120年がシチリアの最も輝いた時代と言われ、今でもその歴史遺産が現存しており、今回の旅行の楽しみであった。彼の死後、東西、南北の世界を結びつける要としてのシチリアの役割は、ヨーロッパ全体のなかで希薄なものとなっていき、各王家の野心の的となった。そのなかで結局、スペインのアラゴン家が領有権を握り、約400年存続した。この時期の建造物の特徴がシチリア・バロック様式で、曲線を多用した華やかな雰囲気が特徴で、町全体がバロック建築の華で溢れ、今日でもその遺産が数多く残っていて、訪れる我々を迎えてくれる。18〜19世紀にかけては、シチリアの支配者はサヴォイア家、ハプスブルグ家、ブルボン家と次々に変ったが、1860年イタリア王国に併合されるに至った。
 このような歴史を辿ったシチリアを今回、我々は訪ねることとなった次第であるが、   歴史遺産のほかにも、うまいワイン、海の幸、パスタ、フルーツなどの食の楽しみ、空と海と山に囲まれた自然遺産にも触れられる楽しみもあった。
 出発も近くなった3月5日の昭和42年会定例会の日に4人が出席した際、出発の直前にもう一度集まろうという話になり、3月15日夜、月崎君が探してくれた新しいシチリア料理店に集合し、前夜祭までして期待に胸を膨らませた。

5、旅日記

  1. 1日目(3月25日<火>)・・・晴れ時々曇り
     成田空港第1ターミナルに12時までに、6人全員が首尾よく集合。14:10成田発アリタリア航空AZ785便にてローマに向け出発、現地時間19:00にローマに到着。入国審査が窓口によって遅延差が大きく、結局我々もバラバラで国内線出発口に向かうことになってしまった。国内線はターミナル1(T1)から出発であったが、これが分かりずらくて閉口した。観光立国イタリアの玄関口なのだから、もうすこし「おもてなし」の配慮をと言いたくなった。
     [ハプニング1]国内線のパレルモ行きの出発案内モニターはチケットの表示通り搭乗口はB10になっていたので、全員安心してB10付近で搭乗開始を待っていた。もうそろそろ搭乗開始かと、ふと掲示を見るとこれが何とトリノ行きに変更されていた。大慌てで搭乗口を移動して間一髪でパレルモ行きにセーフとなり冷や汗ものであった。思い込みは危ないと思い知らされた。ローマを21:30便で出発、目指すパレルモに22:40到着。空港ロビーで旅行社の運転手と無事合流でき、約40分で市内のホテルに到着、長い1日がやっと終わった。ホテルは新市街にあって、正面に1874年完成というポリテアーマ劇場と大きな広場になっていた。津田君と羽山君は各々夫妻で1室、月崎君と杉本は2人で1室という組み合わせでパレルモの初夜を迎え、8日間の旅が始まった。
    ホテル前のポリテアーマ劇場

  2. 2日目(3月26日<水>)・・・晴れ時々曇り一時雨
     今日と明日は終日自由行動日。我々だけでパレルモ市内見物である。旅行社からは2階建てのオープントップバスの1日乗車券を配布してくれたので、全員でまずはこれに乗って車上から市内見物ができた。約1時間のコースで、AとBの2コースがあった。3月はまだ観光のシーズンオフで、乗客はまばらであったので、写真を撮るのには好都合であった。バスを降車した後、全員で近くのマッシモ劇場の見学に向かったが、劇場内はガイド付き見学で1時間後と分かり、先に近くのリストランテで昼食をとった。メニューは最初がアンチパスタ(前菜)、続いてプリモピアット(パスタやリゾットなど)、セコンドピアット(魚と肉の2コース)、サラダ、デザートの順で、さらに最初にパンが出てくる。とにかく量が多くて食べきれないと聞いていたので、全員が前菜とプリモだけにしたが、これで十分であった。
     マッシモ劇場は映画「ゴッドファーザー」で、ここの階段で迎えるクライマックスが有名であるが、ネオ・クラシック様式の壮大な規模の劇場で、1897年に完成している。中に入って見ると、その大きさに圧倒された。客席数は3,200もあり、完成当時はヨーロッパでもパリのオペラ座に次ぐ2番目の大きさであったという。なぜ、ローマやミラノでなく、イタリアでも辺境のパレルモにこれ程の劇場ができたのか不思議である。内部は5層の客席が深紅のビロードで埋まり、外界とは別世界であった。今でもオペラなどが上演されており、大きなポスターが貼ってあった。
      このマッシモ劇場見学が終わった後は自由行動にして、三々五々好きなところに向かった。実質的にはこの日が第1日目なので夕食は全員一緒にしようということになり、午後6時にホテルのフロントに集合して近くのレストランに行く予定を立てた。ところが、レストランのオープンは午後8時からと知らされ、空いた時間を活用して、月崎君はかねての願望のコッポラ帽をゲットすべく目当ての店を探すと言う。羽山君も助っ人で同行したが、結局、店は見つからず、疲れた表情でホテルに戻ってきた。8時を過ぎて目指したレストランは店内がブルー系で統一されシャレた雰囲気であった。ここでも、アンチパスタとプリモだけのオーダーで美味しいワインを飲めると期待していた。ところが、最初に出てきたアンチパスタの生ハムが異常の塩辛さでゲンナリしてしまった。プリモのスパゲッティなどの味も今一で、このレストラン選びは失敗であった。早々に店を引き上げ、ホテルに戻り、昨夜は遅い就寝であったので、今日は早めに就寝した。
    市内見物の2階建てバス マッシモ劇場 夜のレストラン

  3. 3日目(3月27日<木>)・・・曇り時々晴れ一時大雨強風
     今日は朝食後、パレルモから8q程郊外のモンレアーレの大聖堂見学に向かった。    ここは、今年の如水会新年会で一橋大学院の大月教授(ビザンツ社会経済史などが専攻)が推薦してくれたところであった。同行ガイドはおらず、市バスを乗り継いでの目的地行きであったが、運よくスムーズに乗り継ぎできてモンレアーレに向かうことができた。ところが、バスの終点は町の中心地で、そこで降ろされてしまった。目指す大聖堂はこの先の山の中腹にあると分かったが、そこまで行くにはタクシーしかなさそうで、激しい雨のなか途方に暮れていた。
     その時、1人の老人が我々に近づいてきて「早く俺の車に乗れ、1人1ユーロで大聖堂まで乗せていくよ。」というような話をしかけてきた。後から考えれば白タクであったが、その時は大雨のなかで天の助けとばかりこの話に乗った。普通の乗用車であったと思うが、押し込められて6人が乗ってしまった。山道を10分位登って大聖堂前に着いた時に運転手から、「帰りも俺が送ってやるからこの場所に何時にくればよいか決めよう」と話しかけてきた。我々にもほかの手段はないので、この話に乗ることにして1時間半後に落ち合うことにし、いよいよ大聖堂の見学に向かった。 外から見れば、こんな田舎町には相応しくない堂々たる建物であった。あいにくこの時間は台風のような強風と大雨で傘も差せない状況なので、一刻も早く入場したい気持ちに皆な駆られていたので、入場料も不要で堂内に入れた時は正直ほっとした。
     ところが入った瞬間、あまりの壮麗さに言葉を失い、しばし茫然としていたのを今でもはっきり覚えている。ベネチアのサン・マルコ大聖堂と同じように、堂内は金色のモザイクで埋め尽くされ、聖堂正面だけでなく、幅40m、長さ100mもある巨大な空間全体が華麗なモザイク画(旧・新約聖書の物語を130のパネルにビザンチン派とヴェネチア派の職人たちが作成。全図像にはギリシャ語とラテン語の題辞が添えられている)が鮮やかに描かれていた。その規模は世界最大級のイスタンブールの聖ソフィア大聖堂に次ぎ、ヴェネチアのサン・マルコ大聖堂を凌ぐものである。添付の写真でその見事さの一端を見ていただければと思う。この大聖堂を寄進すべく聖母マリアの前に跪まづいている姿のウィレルムス二世のモザイク画などに当時のキリスト教と王国の関係が想像できるようだ。今日この大聖堂が「シチリアで最も美しいノルマン建築」、或いは「ビザンチン・イスラム・ノルマン様式の様々な要素が渾然一体化した中世建築の驚異」と評されるのも当然のように思われた。ここを訪ねるよう助言していただいた大月先生には、この感動・感激とお礼を直接お伝えしたい気持ちであった。
     興奮を覚えたままに次に向かおうとしたのは隣接する大聖堂付属修道院のイスラム様式回廊であった。大聖堂横の郵便局などで場所を尋ねたが、結局分からずに断念せざるを得なかった。後で分かったが、その郵便局のすぐ近くにあったのに、地元の人には普通の光景なのか、ガイドの表示もなく残念であった。
     約束の時間に白タクの運転手と合流、来るときに乗った場所までと思っていたが、「どうせパレルモに戻るのだろう。ついでにパレルモまで行ってやるから、1人4ユーロでどうだ?」と話してきた。 ここで[ハプニング2]、羽山君が世話人会当時の幹事長として、学年会の行事などで業者との価格交渉で培った交渉力を俄然発揮した。身振り手振りで交渉の後、羽山君が1人3ユーロだと提示、運転手もしばらく沈黙の後、何とこれでOKと言ってくれた。後で、この羽山君の演技力には皆なで拍手喝采した。しかし、よいことばかりではなかった。月崎君がこの車の中にカメラを落としてきてしまった。白タクなので探しようもなく、あきらめるしかなかったが、これまで撮ってきた写真はすべて水の泡となり残念であった。
     パレルモの王宮近くに戻って、まずは雨宿りと昼食のための店を探し、一番近くにあった公園内のトラットリアに飛び込んだ。店は混んでいたが、若い女性店員が大の日本びいきで優先的に席をとってくれたのには助かった。海外でこういう親切に出会うと嬉しくなってしまう。これが老人ならば、日本はイタリアと共に第2次大戦を戦った友達だからとでも言うのだろうか。昼食の後、王宮見学に向かった。  王宮の中は、当日が州政府の公式行事のため、一般公開が王宮礼拝堂のみに制限されていて残念であった。それでも、この王宮礼拝堂だけでも見応えがあった。モンレアーレ大聖堂よりも規模は小さいけれども、中のモザイク画はビザンツ様式で、礼拝堂の中は窓から差し込む光とランプに照らされて壁面全体が金色に輝き、その金色の中に緑や青で描かれた聖人や聖書の場面が浮かび上がっていた。これらはキリストの宗教画であるが、天井はアラブ様式で作られていた。この礼拝堂が異文化接触が生み出した傑作の一つであるというのが頷けた。
     次には、近くにある大聖堂に向かった。 ここは1184年の創建で、シチリア・ノルマン様式であるが、ノルマン以後の600年にわたる外国支配の中で、様々な建築様式が複合してできており、この町の代表的な建造物であった。ここで午後3時頃となり、この後は自由行動にすることにして、目当ての行き先に向かうことにした。1組はバロックの街並みを散策しながらクアットロ・カンティまでを楽しんだ。他の1組は別の教会などの見学に向かって行った。クアットロ・カンティとは四つ辻の意味で、スペイン統治時代の17世紀に造営され、交差点に面した4つの建物は角を均等に弧を描くように丸く切り取られ、各壁面に3段づつの装飾で飾られている。前日のオープン・トップバスでもこの四つ辻を通ったが、やはり自分の足でそこに立って見ると、その凝った造りに驚かされた。付近には椰子の木を背景に建つ二つの教会も異国情緒に溢れ、迷宮都市と言われるパレルモらしさを味わえる地区であった。
     夕方になって、月崎君が前日に果たせなかったコッポラ帽の店探しに出かけるというので、羽山夫妻と津田夫人が助っ人として同行した。この日も残念ながら目指す店は見つからなかったが、天の助けというか別のコッポラ帽子店に巡り会うことができ、2日間の疲れも吹っ飛んだ。早速、月崎君がお気に入りの帽子を購入、羽山君も夫人の反対を強引に振り切って購入してしまった。羽山君はこれ以後ずっと愛用して旅行中も着帽していたが、月崎君は「型が崩れる」と言って大事にスーツケースにしまいこんでしまった。今後の昭和42年会の定例会には2人がコッポラ帽で出席するのではと楽しみである。なお、「コッポラ」とは英語の「CAP」がシチリア方言に変化した表現で、元々は農民の作業帽だった。それが映画の「ゴッドファーザー」で一躍有名になり、マフィアの象徴となった由。しかも、この映画の監督も偶然「フランシス・F・コッポラ」であったというのも何かの因縁かもと思える。
     この日は夕食も自由行動にしていたので、好みのレストランでパレルモの最後の夜を楽しんだ。
    モンレアーレ大聖堂の内部 王宮礼拝堂の内部 クアットロ・カンティ

  4. 4日目(3月28日<金>)・・・快晴  
     朝8:30ホテルで旅行社の運転手と合流。この日は途中何ヵ所かの見学を入れながら宿泊地のアグリジェントに向かう行程であった。まず最初に訪ねたのはエリチェであった。ここはシチリア島のほぼに西端にあり、標高751mの山上に開けた町で古代から航海の守護神の聖地として名をはせていた。麓の町に着いた時は快晴であったが、登るにつれて霧が濃くなり、山頂付近まで来たら「一寸先は闇」、美しいパノラマのはずが何も見えない状態であった。町は城壁で囲まれているが、建造年代はローマやノルマン時代のものが多いと言う。地理的に重要な土地であったため、、古くはカルタゴとギリシャ、中世ではアラブとノルマンの争奪の的となった。我々は霧のなかでの見学であったが、街並みはよく保存されていた。晴れ渡った日には遥かにアフリカ大陸のチュニジアを遠望することができるというのに残念であった。
     約1時間程で山を下りて、最西端の町トラーパニに入った。ここは今でも海水を囲い込んだ塩田製法が盛んで、ちょっとした観光地になっていた。昼食はワインの町マルサーラに近い、農園の中の一軒家でアグリツーリズモ風のレストランであった。ここは旅行社が指定した店で、どうせ提携先だろうからと、あまり期待していなかったが、客は我々のほかには誰もいなかったので、ゆっくりとクスクス料理などの郷土料理を味わえてよかった。食事中、英語が堪能な両夫人が料理を運んでくれていた若くて上品な感じの女性と親しくなり、話が弾んだ。彼女はこの農園主の娘さんでボローニャ大学の獣医学部卒業の才媛と分かり一同びっくり。ボローニャ大学は1088年創立というヨーロッパで最古の名門大学、現在の学生数は9万人でイタリアでも屈指の規模を誇っている。さらに、この農園は日本との関係も密で、ここで製造されているオリーブ油は最高品質で、すべて日本に輸出していると言う。ブランド名は「Ohhgiu(オッギュー)」でKALDI(カルディ)という店でのみ販売されていると教えてくれた。在庫は1本も残っていないというのが残念であったが、日本に帰ったら買いに行こうと思って急いでメモを取った(後日、実際に行ってみたら確かにあって嬉しくなった)。
     昼食後はワイン工場を見学した後、一路宿泊地のアグリジェントに向かった。夕闇迫る時間、この町に入った時に驚きの光景が現れた。何と、アテネのアクロポリス神殿そっくりの神殿がライトアップされて、車中の我々の目に飛び込んできたのである。この時の感動は言葉では言い表せない大きなもので、まるでギリシャ時代にタイムスリップしていく気持であった。興奮のうちに今夜のホテルに到着、ホテル内のレストランでの夕食付きであったので、丸テーブルを6人で囲んで、初めてアンチパスタからプリモ、セコンドまでの食事を会話とともに楽しんだ。食事の後に、ホテルの庭に出ると、先ほどの車中よりも近い距離でライトアップされた神殿が望めて、明日はここを見学するのだと思うと、期待がますます膨らんできた。午後10時、それぞれの部屋に戻って、眠りについた。
    エリチェ山上の砦にて 昼食の農園レストラン ホテルから見た神殿

  5. 5日目(3月29日<土>)・・・快晴  
     朝食を早めに済ませて、8:15ホテル出発、5分で「神殿の谷」の入口に到着。入場開始の8:30を待った。これから、世界遺産のギリシャ神殿群の見学であるが、運転手が早めに行って並んだ方がよいとの作戦であった。「神殿の谷」とは約2Kmの間にギリシャ神殿が5つも固まっている地区の総称である。谷と言っても小高い丘になっていて、見晴らしは良くて、地中海が2〜3Km先の眼前に広がっている。古代には30万人の人口が住むほど大発展した都市である。現在はギリシャの大遺跡を抱える町として、世界中の観光客を惹きつけている。
     一番乗りで入場して、2時間後に出口の駐車場前に集合をルールにして、各自のペースで神殿見学に向かった。順路に沿って、最初が25本の柱と柱の上の横材が残っているヘラ神殿。そのスケールの大きさに圧倒された。次がコンコルディア神殿。前面の6柱、側面の13柱と前面の屋根の形をほぼ完全な姿で残しており、世界遺産マークのUNESCOを6本の柱に喩えるとこの神殿にそっくりであった。神殿建築のひとつの頂点に立つのではないだろうか。3番目がヘラクレス神殿。天に向かって8本の円柱が伸びていて、柱頭には傘のように円形の皿が残っていた。4番目はジュピター神殿。ここは基礎部分しか残っていないが、神殿を支える柱の一部だったと考えられている8m近い巨大な人像柱が横たわっていた。5番目はディオスクロイ神殿。4本の円柱とその上の屋根部分が残っており、この姿が現在のアグリジェントの市章に使われている。快晴の天気とこれらの遺跡群と南に広がる地中海の風景は今回のシチリア旅行のハイライトとなった。
     感動を覚えつつ、次の訪問地のピアッツア・アルメリーナに向かった。ここには世界遺産の古代ローマの貴族の別荘跡があった。中に入ると、ため息の出るようなゴージャスなモザイク画の床が広がっており、別荘跡というイメージからは想像できない広大さで、ローマ時代の貴族の権力がいかに大きかったかが分かった。画の大部分は人物と動物であるが、ローマ時代の服装などが窺えて興味深い。我々男4人が最も注目したのはビキニ姿の女性のモザイク画であった。当時で既にビキニが流行していたとは驚きであった。等身大の女性9人がそれぞれ違ったポーズで描かれていたが、4人が気に入った女性は何とバラバラに分かれてしまい、それぞれ好みは違うのだとお互い苦笑いの一幕もあった。
     1時間の見学の後、旅行社で指定していた、遺跡近くの古びたレンガ造りの田舎風レストランで昼食となった。ここでも、アンチパスタとプリモで十分であったが、最後に出たデザートが美味しかったのを覚えている。食事が終わって外に出て、ふと振り返ってみたら、何とこの店は2007年から毎年ミシュラン1つ星を獲得しているレストランと分かって見直してしまった。今回の旅行社が選んでくれた昼食の店はどれも最高によかったというのが夫人たちの評価であった。
     昼食後はピアッツア・アルメリーナの旧市街を眺めながら、次のカルタジロ―ネに向かった。この町はイスラム支配の時代から盛んだった陶器作りが今でも受け継がれており、南国らしい鮮やかな色の陶器があちこちの店に溢れていて、バロック建築の建物とよく調和していた。また、旧市街に至るスカーラと呼ばれる142段の階段の蹴上がりにマヨルカ焼のタイルが貼られており、モザイク画のような美しさであった。
     今日は朝から感動の連続の一日であった。予定の行程を順調に回って、夕方この日の宿泊地シラクーサに入った。ここでのホテルは今回では唯一の5つ星で旧市街の海に面した一等地にあって、皆なの期待大であった。この後は各自の自由行動とし、フロントで各自のキーを受け取って部屋に向かったが、[ハプニング3]月崎君と杉本の部屋は何とダブルベッドの部屋になっていた。羽山君と津田君たちはツインの部屋なのに。お互いそういう趣味はないし、2人でフロントに文句を言いに行ったところ、係りの女性にジロジロ見られた挙句に、やっとツインの部屋に変えてくれた。今度の部屋は海に面してベランダもある格上の部屋であったので、いやな気分も消え失せてしまった。
     シラクーサは紀元前8世紀にギリシャの植民都市として建設され発展、、紀元前5世紀には北のアテネ、東のアレクサンドリアと並ぶほどの繁栄を謳歌したという。しかし、紀元前3世紀のポエニ戦争後にローマ帝国領に、以降ビザンチン、アラブ、ノルマン、アラゴン・・・の支配を受け、かつての政治上の重要性は衰退していった。町は本土とオルティ―ジャ島に分かれており、島のほぼ中央にあるドゥオーモ周辺は、1693年の大地震後に建設されたシチリア・ゴシック様式の建物が数多く残っていて独特の雰囲気を醸し出していた。チェックイン後は自由行動にし、羽山君と津田君はそれぞれ夫妻で町の散策に、月崎君と杉本も後を追うように2人で散策に出た。旧市街はライトアップされて、華やかな時代にタイムスリップしたような美しさに感銘を受けた。とくにドゥーモはバロック様式の重厚なファザードが美しい。この場所にはかつてアテネ神殿が建っていて、その時代の円柱が今のドゥーモの側面の壁に組み込まれていたのには、歴史の流れに感傷的にさえなってしまう。小さな島なので、両夫妻とも街中ですれ違ったりしたが、今夜は思い思いの店で夕食を取り、夜の散歩を楽しみながらホテルに戻った。
    ヘラ神殿跡 コンコルディア神殿跡 カルタジロ―ネの階段

  6. 6日目(3月30日<日>)・・・快晴
     今朝はゆっくり目の10時の出発であったので、朝の散歩も楽しめて、昨日の夜の雰囲気とまた違った清々しさを味わうことができた。
     この日の見学は、本土側にあるギリシャ劇場であった。建造は紀元前5世紀にさかのぼると言われ、その後に改修が繰り返されたが、収容人数が15,000人という規模はシチリアでも最大で、観客席の一番上からは、舞台は遥か下の方でそのスケールに驚かされた。現在も古代劇などが上演されているようで、舞台作りが進行中であった。その後は、隣接地にある古代ローマの円形闘技場を見学した。建造は紀元前1世紀頃、楕円形をしていて、ローマのコロッセオの形に似ていた。剣闘士たちの登場口となった通路も残っていて、両時代のシラクーサの繁栄ぶりが偲ばれた。これらの見学に1時間ほどかけて、12時頃に最終宿泊地であるタオルミーナに向かった。  
     この日も運よく快晴で、車窓からはシチリアの最高峰エトナ山(3,323m)を眺めることができた。富士山にそっくりの美しい形の活火山で頂上付近は雪が残っていた。途中通過地であったカターニャでは、1669年の大噴火で町まで達した溶岩が高速道路沿いに黒々と残っていた。約1時間でタオルミーナのホテルに到着、直ちにチェックインした後は、自由行動で昼食、市内見学とした。この町はタウロ山の中腹にあるシチリア屈指の保養地で、地中海とエトナ山を一望できる風光明美な観光地として人気が高い。日本で言えば、軽井沢のイメージに近く、町の規模も同じくらいで徒歩で回れる広さであった。
     歴史的には、紀元前4世紀にはギリシャ植民地として建設が始まり、やがてシラクーサの衛星都市として成長、ビザンチン時代にはシチリア州都として栄えた。その後、10世紀にはアラブ人に征服されたが、ノルマン人の時代には再び繁栄を取り戻している。メイン通りには13世紀に創建のドゥーモがあり、町を見守っている。ここの見どころは何と言ってもギリシャ劇場である。シラクーサに次いで2番目の規模で9,000人を収容できると言う。建設は紀元前3世紀と言われるが、2000年以上を経た今日でも保存状態が大変よく、ギリシャ民族とその輝かしい文明の偉大さを今日でさえ感じ取ることができた。観客席から見ると、劇場の背景に広がる透き通った青色の地中海と古い街並み、雪を被って白い噴煙をあげるエトナ山がすべて見渡せ、立地条件がこれほど揃った場所を選んだギリシャ人の叡智を尊敬した。現在も夏の間には、この美しい風景を背景にオペラや演劇などの催しがあるそうで、一度はその雰囲気を味わってみたいと思った。各自で散策を楽しんだ後、夕食も自由であったが、町中で出会った羽山夫妻と月崎君、杉本は一緒に夕食をすることになり、入ったレストランには日本語メニューがあって、注文に苦労せず大いに助かった。4人の会話では、「旅が今日で終わりなのは残念だよ、もっとシチリアを旅したいなあ。」が共通の思いであった。
    シラクーサのドゥーモ タオルミーナの海岸線 ギリシャ劇場

  7. 7日目(3月31日<月>)・・・快晴
     昨日の午後に続いて、今朝もホテルのバルコニーから地中海とエトナ山の絶景が眺められた。旅の記念にと各自で名残りを惜しむようにカメラに収めた。8時半、運転手   が迎えに到着、カターニャ空港に向かった。予定どおり、約1時間で空港に到着、チェックインも5人がスムーズに終わった。杉本はカターニャに1日延泊の行程であったので、皆なとここで別れ市内に向かい、翌日の同じ時間の便で成田に帰った。
     カターニャ発11:35 AZ便でローマへ12:55着   
     ローマ発15:15 AZ便で成田へ
    ホテルから見たエトナ山 3日目に買ったコッポラ帽子

  8. 8日目(4月1日<火>)
     定刻どおり10:25成田着、解散。 お疲れさま

6、あとがき
 2年越しの夢が実現した思い出多い旅であった。2人の夫人が参加してくれたのも大変よかったと思う。男4人だけであったら、毎日が4人一緒の行動になったであろが、   2組が夫婦で参加のおかげで、基本は個人旅行の形となり、各自の好みで行動・食事とすることで道中の変化も生まれた。また両夫人が英語に堪能で難しい会話には一役も二役もかってくれたのが楽しい旅ができた要因であった。羽山夫人は行く先々で見知らぬ外国人にも気軽に話しかけて親しくなってしまう特技があり、奥手の男4人よりもはるかに社交的であった。また、旅行社のシチリア人運転手とも親しくなり、車内でも会話が弾んでいた。津田夫人は趣味の一つが写真で、今回は重たそうな一眼レフのカメラを持参、フットワーク抜群で朝も早起きして、地元人しかいないような市場にも出かけてシャッターを切っていた。撮った写真は2,000枚以上とのこと、その中からこのHPにも掲載させていただいた。両夫人の参加ありがとう。
 我々は昭和42年会の世話人を経験したおかげで。このような旅ができたことに、今は感謝の気持ちでいっぱいである。昭和42年会は名称は入学年度に変わっても、これからも存続するだろう。多くの同期生が今後の世話人会活動に手を挙げてくることを期待している。

以上

                                          原稿:杉本

監修:月崎、羽山、津田

写真:津田夫妻
   
一橋寮生ゴルフ愛好会第19回コンペ & 懇親会

日時  平成25年4月9日
場所  熊谷ゴルフクラブ
出席  石井、猪木、篠田、新名、滝沢、檀上、楢原、波能、羽山、前嶋

 昭和38年に小平一橋寮に入寮した仲間が、熊谷在住の前嶋君の手配で毎年春秋の2回ゴルフとグルメを楽しんでいるが、入寮50周年の第19回ゴルフコンペは常連石川君の欠席により上記10人での開催となった。
 名物の桜は残念ながらピークを過ぎてしまっていたが、快晴無風の青空の下、名門『熊谷ゴルフクラブ』で行われたゴルフコンペの結果は、グロスで大たたきしながらも新ぺリアのハンディがものをいって檀上が優勝。実力派の羽山君がベストグロスの栄誉に輝いた。
 プレーの最中、随所に特筆すべき面白い場面があった。
 ノー感のパッティングで、グリーン上ではとんでもなく遠くへ打つことができるのに、パター以外のすべてのクラブにおいて飛距離ガタ落ちの檀上。
 ミドルホールで見事なドライバーショットでグリーンにワンオンした楢原君。ただしグリーンはグリーンでも、緑濃い松の木の枝の上。彼はアウトで1回、インで1回チップインを決め、小技も持ち合わせていることを証明してみせた。
 最大でも『3度』打てば脱出できるはずの『サンドバンカー』から何度打っても抜け出せず、文字通り砂を噛む思いを経験した新名君。
 いつものことながら、いい思い・悔しい思いが綯い交ぜのゴルフであった。
 今回は、奥様方にも観光バスを利用して熊谷で観光を楽しんでもらい、夜の会食の部を一緒に楽しむという企画であった。
 女性陣は、映画「のぼうの城」の忍城跡を訪ね、また国宝「妻沼聖天山」、「金錯銘鉄剣」などを拝見、江戸千家の美味しいお茶をいただいて、ゴルフを終えた男性陣と合流し、会場のホテルガーデンパレス熊谷に向かった。
 日本庭園を広く見渡せるホテルの個室で、美味しい和風会席と、お酒とワインで大いに盛り上がり、その後、ホテル内のカラオケルームに場所を移し、存分に楽しんでお開きとなった。
 男性陣のゴルフ、女性陣の観光、そして夜の会食にいたるまで、前嶋君ご夫妻に全面的にお世話になったもので、ここにあらためてお二人に感謝しながら、またいつかこういう機会が持てたらいいなと願っている次第である。(檀上記)

(前嶋記)

 
   
一橋寮生ゴルフ愛好会第18回コンペ & 懇親会

日時 平成24年11月3日(土)
場所 熊谷ゴルフクラブ
出席 羽山、新名、檀上、波能、石井、滝沢、楢原、前嶋 (8名)
 
 快晴の名門「熊谷ゴルフクラブ」にて第18回コンペを開催。昭和38年に小平一橋寮へ入寮した仲間で、毎年春秋2回、ゴルフとグルメ(どちらがメインであるかは不明)を楽しんでいる。今回は常連3名(猪木、篠田、石川)が欠席、また昨年から楢原君(長野市在住)が参加。
コンペの成績は、半年ぶりにクラブを握った前嶋がどういう訳か優勝、ベスグロは羽山君。新名君は震災以来絶不調、石井君がニアピン賞を二つ、滝沢君、波能君は若干不満のスコア。檀上君は本日も親父ギャグが絶好調で準優勝。熊谷GCは、フラットな林間コース(河川敷)なので頑なに乗用カートの導入を拒んでいたが、要望が多くついに今年設置。
 夜の部は、熊谷市内フレンチの店「アコモデ」にて会食。この建物の家主は、熊谷出身の作家森村誠一のご兄弟。コンペ成績発表、近況、政治状況など談論風発しデザートが出るころには、ワイン通の石井の薦めもあってか各国のワインをフルボトルで7本!開けていた。
次回は、来春4月9日、桜の季節に予定。

(前嶋記)

 
石化産業人を囲むゴルフ会

日時  8月28日(火)
場所  湘南カントリークラブ
参加  (C)宮本 (D)津田、小田、北村 (E)服部 (G)徳永、永井
    (H)平井 (I)羽山 (L)大森 (K)西田      計 11名

石油化学産業人ゴルフ会に羽山さんからのお誘いで参加した。総勢11名、内本来のメンバー6名は、ゴルフ界など多分野に革新的原材料を提供し続けてきただけにゴルフへの意欲と技量は抜群。では残る5名の参加資格は?「いいではないですか。皆さん、所属してきた企業で長年、油を売ってきたのですから・・(笑)」ということで、資格審査を終了。

プレーの方は酷暑に悩まされながらも、湘南独特の海風に癒されながら、水平賞、大波・小波賞のみを争うビッグマッチに熱戦を展開、何とも楽しく和気藹藹な一日となりました。

二次会は7名で二駅隣の大船駅前の居酒屋へ。浅草の雑踏を彷彿とさせる下町の雰囲気と湘南の美味に話題はさらに沸騰。

きっとこの会はますます盛会になるでしょう。

(北村 記)

旧一橋寮住人ゴルフ会

 11年目を迎えたこの会、今年は10月29日熊谷で開催。例年は春、秋と年2回行っているが、今年は東日本大震災があり春は中止し、ほぼ1年振りの顔合わせ。
 熊谷在住の前嶋修身君の献身的・絶妙なアレンジで先ず桜・紅葉を楽しめる名門熊谷ゴルフクラブでゴルフを楽しんだ後、毎回厳選された地元の食事処で料理、酒、おしゃべりを満喫し、最後の仕上げは駅の近くの「花束」で新幹線の時間ギリギリまでカラオケを熱唱し、急いで駅に駆けて行くというのが定例スケジュール。

 今回は8名の参加。ゴルフは秋晴れの中、やれ「飛距離が落ちた」「カートに乗り慣れているので全コース歩きは疲れる」等とぼやきながらも駄洒落が続出しキャデイさんを大笑いさせる楽しいゴルフ。(「秋」のゴルフ、サマー(夏)にならずフユ(冬)かい(不愉快)だ。仕事は現役、ゴルフはOB。・・・・・)

 ゴルフ後の食事処に選ばれたのは、名物女将のいる小料理店「菊川」。その昔は芸者置屋で、名横綱「栃錦」の春日野親方が相撲協会理事長時代にも来たことがあるという老舗の座敷で美味しい料理と地元の酒を楽しみながら談論風発。大震災、放射能・原発問題、健康旅行、関野吉晴氏のグレートジャーニー、家庭における奥さんと自分の権力構造(事態は奥さん優位からさらに独裁へと進行中)、学生時代・寮生活の思い出等々いつものように話題は尽きず。
 翌日の予定の関係で少々早目に引き揚げた某参加者が似たバッグを間違えて持ち帰り、気がついた時は新幹線の中というハプニングも発生。

 今回参加者の8名は石井勝博、猪木哲雄、篠田紘明、滝沢義弘、檀上正泰、波能英勇機、羽山章一、前嶋修身、これに今回欠席の石川純祐、新名仁の2名を加えた10名が現有メンバー。
 新しく参加ご希望の方は上記メンバーか、本会の世話役を務めていただいている前嶋修身君(前嶋修身税理士事務所 048-526-0811 fzm52663@biglobe.ne.jp)へコンタクトを。なお、次回の開催予定日は2012年3月31日(土)。

(篠田 記)

<出席者> 石井勝博、猪木哲雄、篠田紘明、滝沢義弘、檀上正泰、波能英勇機、羽山章一、前嶋修身

旧一橋寮住人ゴルフ会

 年2回の恒例行事として10年になる「旧一橋寮住人ゴルフ会」が12月11日熊谷で開催された。熊谷在住の前嶋修身君の献身的・絶妙の良きアレンジを得て、先ず名門“熊谷ゴルフクラブ”でゴルフを楽しんだ後、毎回趣向を変えたレストランや料理屋での食事+談論風発、最後は駅の近くの“花束”なるカラオケでノドを競い22:24分熊谷発最終の上り新幹線に飛び乗って夫々の家路につくという三段仕掛けの伝統行事になっている。

 今回は現有メンバー11名のうち所用や腰を痛めた仲間もいて参加者は6名。好天に恵まれたゴルフは難しいグリーンに悩まされながらも、大半が“年金坂”を超えるドライバーショットを飛ばすなど年齢を感じさせない元気さで乗り切った。賞金授与+反省会+食事+おしゃべり会は「アプランテイ」という料理とワインの素晴らしいフレンチレストラン。こじんまりしているが熊谷にもこんないいフレンチの店があるのか(前嶋君、失礼!)と感嘆させられた味、雰囲気共に申し分のない店。ワインを飲みながら最近の政治情勢に対する怒り、世界遺産80ヶ所訪問などの幅広い旅行談、健康談義などに花が咲いた。“花束”では新幹線の時間ギリギリまで裕次郎シリーズ、ゆかりの(過去の赴任地)ご当地ソングなど順繰りに間髪入れず歌いまくってあわただしく駅まで走った。(駅に着いて見たら、時間間違いで20分ほど待つことになりました。朦朧のせいか耄碌のせいか。お粗末!)

(篠田 記)

<出席者> 石井勝博、猪木哲雄、新名仁、篠田紘明、波能英勇機、前嶋修身

昭和42年会 剣道部ゴルフ会

 日 時 6月2日
  場 所 日本カントリークラブ
  参加者 荻原(A)松下(D)吉宮(D)澤田(E)川村(K)田島(I)

 埼玉県坂戸の日本カントリークラブにかつての剣道部員15名のうち、ゴルフ愛好の6名が集合した。アメリカに定住している荻原君(A)がこのたび一時帰国するとの連絡を受け、早速同君を囲むゴルフ会の話がまとまった。
  天候不順で寒い日が続いていたが、当日は晴れ渡り風もなく、弁解の利かない絶好のゴルフ日和となった。全員新緑を満喫しつつそれなりの実力を発揮し、結果は、オネストで90を宣言した荻原選手が宣言どおり90でかつべスグロであった。かつての青年剣士の迫力をちらりと見せるものもいたが、むしろ60歳代の老練さを感じさせるゴルフが目立った。
  プレー後は、クラブハウスで麒麟麦酒(澤田選手の元職)と地酒「越生梅林」を飲みながら歓談、荻原君のアメリカでの活躍ぶりの紹介があった。同君はキッコーマンに入社以来、ほとんどアメリカに在住、アメリカの地で日本の「醤油」を売り込み、日本の醤油を世界の醤油にした立役者の一人である。
  話はさらに日本剣道の歴史的分析や今後の国際舞台でのあり方、政治情勢の評価等幅広く時間の経つのも忘れ最終のクラブバスで帰途に着いた。電車の中で鳩山、小沢辞任の速報が入り、今日は歴史に残る一日であったと感慨も深く、再会を約して散会した。

(川村記)

第20回一橋寮ゴルフ会

日にち  4月10日(土)
場所   熊谷ゴルフクラブ
参加   A篠田、B石川、前嶋、C新名、F波能、G石井、H猪木、I檀上、L滝沢

 本会は昭和38年入学の同期で小平の一橋寮で寝食を共にした仲間が年2回春と秋にゴルフを楽しむ集まりで、熊谷の住人前嶋君がBクラスながらA級(永久)幹事役としてゴルフ場の手配から19番の懇親会食、20番のカラオケに至るまで種々アレンジしてくれている。
  今回は記念すべき第20回大会で、名門熊谷ゴルフクラブでの開催となった。波能君が初参加してくれたが、常連メンバーのI羽山君が風邪をこじらせ急遽欠席となったため、3組9名のプレーとなった。
  直前の4月7日に仲間のひとりG木下謙一君が急逝され、20回大会は奇しくもは木下君を忍ぶ追悼ゴルフ会ともなり、ゴルフ終了後の懇親会食の場で、故木下君への献杯をし、冥福を祈った。
  ゴルフの結果は、新ペリアのハンディキャップの有利さが効いて檀上がネット74で優勝。猪木君が持てる力を存分に発揮し、実に堅実なプレーで85(45、40)のベストグロス。熊谷の名物でもある桜堤の桜も、ゴルフ場の随所にある桜も満開のピークで、スコアの結果を見ると、余りにも見事に咲き誇る満開の桜に気を取られて、ゴルフに集中できなかった者も何人かいたようである。
  プレー後の19番ホール懇親会はホテルガーデンパレスで、美しい日本庭園を眺めながらの和風会席をおいしいお酒とワインで堪能した。その後恒例の20番ホールカラオケへと繰り出し、木下君が好んだ石原裕次郎の歌を交えて大いに盛り上がった。
  前期高齢者達の集まりとは思えないほど元気に、楽しく、和やかな一日を過ごして、夜遅い新幹線で熊谷を後にした。

(檀上記)

一橋寮42年ゴルフ会・夕食会

日時  : 平成22年2月4日(木) 18時より
場所  : 目黒駅前
参加者 : (A)篠田夫妻 (B)石川、 前嶋夫妻 (C)新名夫妻
       (H)猪木夫妻 (I)檀上夫妻、羽山夫妻

 かつて一橋寮で、夕食をめぐって「ファイティング」というジャンケンの死闘を繰り返した経験をもつ寮生OBの面々が、当時の一橋寮とは全く雰囲気の異なる和食の店に、2月4日(木)の夕刻、家族を伴って集合した。
  今回、上尾の遠方から参加したものの、都合で奥様が参加できなかった石川君から、早めの確定申告で思わぬ大金の入金があり、これを原資にして、近いうちに夫婦で海外旅行に出かけるという、皆が羨む話から懇親会が始まった。和食に舌鼓をうち、日本酒や焼酎でのどを潤しながら、寮時代の旧い話や、これまでのそれぞれのめずらしい経験談や、お互いの健康増進法などを、声を大にして語りあい、又昨今の政治・経済・スポーツ情勢に話題の花を咲かせ、会は大いに盛り上がった。
  次回の春のゴルフ大会は20回目の節目になるので、出来るだけ多くの人に参加してもらえるようにお誘いの声をかけることとした。又日時は、桜の季節を過ぎているかもしれないが、4月10日(土)に熊谷ゴルフで実施することと決め、いつものとおり前嶋君に
19番、20番ホールも含めてアレンジをお願いすることとした。最期に全員で記念撮影をして又の会う日を約束して会を終了した。

(文責:新名)

第19回一橋寮ゴルフ会

 日時   10月24日(土)
 場所   熊谷GC
 参加   A篠田、B前嶋、C新名、G木下、H猪木、I羽山、L滝沢
                             (欠席5名)
                       
  このゴルフ会は昭和38年春に小平の一橋寮に入寮した同期の集まりで、毎年春秋に開催し、熊谷市在住の前嶋君がゴルフ場の予約から19番、20番までフルセットしてくれている。
  今回は珍しく都合の付かない人が多く、2組7名のプレイとなった。
  木々が色付き始め、近くを走る秩父線の蒸気機関車の汽笛やヒヨドリの甲高い鳴き声が時折聞こえる穏やかな秋の一日であった。

 実力者の羽山君がネット72で優勝。滝沢君がドライバーと寄せが終始安定し、43,43
の86でベスグロ。80台2名、90台2名、100台3名で、平均スコアは97。
  五十肩の痛みに悩む前嶋君が5番407Yミドルで見事に2オンのパー。力まずスイングすることがいかに大切かのお手本を示した。新名君は寄せ、パットが絶好調で“ダイヤモンド、金、銀、銅、鉄”を完成した。
 
  会食はしゃれた創作料理店「LIGARE」。時節柄、新政権特に峰崎財務副大臣への期待で盛り上がり、さらに安全保障問題と連立政権の今後や地方の道路事情等の話題から健康管理の基本は歩くことなどなど和気藹藹の2時間となった。
 
  20番はカラオケ大会。珍しく唱歌を歌おうとなり、小学唱歌「故郷」(兎追しかの山・・・・)を全員で合唱(?)、最後は恒例の「地上の星」でお開きとした。
  来春は記念の20回。一橋寮同期の皆さんのご参加をお待ちしています。

(猪木 記)

写真をクリックすると拡大します
第17回一橋寮会ゴルフ

日時:平成20年11月1日(土)
場所:熊谷ゴルフクラブ
出席:A篠田、B石川、前嶋、C新名、G石井、H猪木、林、I檀上、L滝沢

いつものように前嶋君の幹事役で第17回ゴルフ会を熊谷GCで開催した。今回はG木下、I羽山両君が体調を崩して欠席となったが、石井、林両君が初の参加で、3人ずつ3組でのプレーとなった。
グリーンはもちろんフェアウエーもメンテナンスがよく、そのきれいなフェアウエーを傷つけないようにとの配慮もあって、ラフやバンカーで打つことの方が多かったような気はするが、やや風があったものの天候に恵まれ、抜けるような青空のもと、楽しいひと時を過ごすことができた。
成績は接戦で、滝沢がネット74で優勝、2位檀上、3位猪木の順となった。前回は還暦を過ぎてからむしろ若返ったのでは、と思わせるようなショットを繰り広げたつわものもいたように記憶しているが、今回はみな歳相応のゴルフだった。バーディを取ったり、パー3のホールで見事ピンそばにワンオンしたりと、技術的なうまさを見せつける者もいたが、残念なことに後半15番あたりから腰が回らず、ダフったり、トップしたり、今一つ方向性の定まらないショットでスコアを崩す面々が多く、スコアが体力の衰えを証明するかのようであった。
プレー終了後、19番はうなぎ割烹「廣川」でおいしいうなぎ料理とお酒を堪能、続いて20番お馴染みのカラオケバー「花束」に行き、欠席の羽山君に代って彼の持ち歌「地上の星」「天城越え」から恒例の歌合戦を展開した。そしていつも通り最終の新幹線で熊谷から帰京した。
次回は、桜の時期に熊谷GCを予定している。一橋寮在寮経験があり会の趣旨にご賛同いただける方は、いつでも参加を歓迎いたします。幹事役の前嶋さんまでご一報下さい。

(檀上記)

マーキュリー・グリー・クラブイタリア演奏旅行に参加

今夏7月30日(水)から8月9日(土)の11日間、一橋大学OB男声合唱団、マーキュリー・グリー・クラブ(MGC)のイタリア演奏旅行(総勢48名、内同伴15名)に参加した。MGCは、一橋大学男声合唱団コール・メルクールOBを母体に9年前に設立された。藤本団長(S34年卒)以下団員は総勢約55名で、42年同期は阿部(I)、松田次郎(D)、中尾丈夫(E)、藤原尚(F)、下村肇(E)の5名が在籍している。 今回は、フランス・ドイツに続く3回目の海外演奏旅行である。旅先は、ミラノ周辺の北イタリアで、演奏地は、アルプス国境近くのスキーのメッカ、海抜1000mを超えるアッダ・メロ地域の山村の教会2箇所(ヴェッサ・ドーリオとテムー)とパドヴァ近郊(モンテオルトーネ)、ミラノ近郊(ベスナーテ)各1箇所の計4箇所だった。

1回目(8/1)、2回目(8/2)はアッダ・メロ地域の山村の教会では、聴衆が1回目(8/1)250名、2回目(8/2)200名と予想外に多く、万雷の拍手やスタンディング・オベーションで反響が大きかったのに吃驚した。地方では教会を中心とする地域の結束力が強いことを知らされた。
演目は、宗教曲、イタリア歌曲、日本民謡より各5曲の3点セット。特にイタリア歌曲の人気が高かった。アンコール曲は、「アイーダ」・「椿姫」で有名なオペラの作曲家ヴェルディのオペラ「ナブッコ」のコーラス曲「行け我が思いよ、金色の翼に乗って」だったが、彼の活躍した時代のイタリア統一運動を連想させ、イタリア人には国歌並の人気があるため、最も聴衆の反響が大きかった。

3回目(8/6)、4回目(8/7)は、開催地のアルピニスト男声合唱団(8/6ラヴァレド、8/7ペンナ・ネッロ)の協演で、いずれも、宗教曲からポピュラーまでをアカペラでこなす40年の伝統のあるレベルの高い合唱団であった。4回の公演の終了は、全て夜の10時すぎ、地元の美味しい料理とワインで歓待され宿舎に着くのは夜半過ぎとなったが、主催者との心温まる交流が思い出に残った。公演の大成功に加え、北イタリアの観光も心に残り、特に次の2箇所は印象的だった。
・パドヴァの聖アントニオ教会の祭壇のドナッテロの彫刻や説教上手で有名な聖アントニオの舌・顎・棺などの遺品(霊感を感じる)。
・ヴェローナの古代ローマの円形闘技場「アレーナ」(世界屈指のオペラの野外劇場)。 さて、来年3月には、「マーキュリー・グリー・クラブ設立10周年記念定期演奏会」を初台のオペラシティの大ホールで開催予定です。我々の合唱は、指揮者の永井氏(S35年卒)を始め、合唱界の大御所田中信昭先生のご指導で水準が高いとご好評を得ております。皆様是非聴きにおいでください。 また、新規団員を募集中です。合唱経験がなくても歌に関心のある方を歓迎です。興味のある方は、是非下村までご連絡下さい。
連絡先:メール:simo-san@mail.hinocatv.ne.jp            

以上

なお、添付の写真は、池田信彦氏(S43年卒)撮影のものです。

S42年卒業山田欽一ゼミ会

日時 平成20年5月24日(土)
場所 海鮮問屋地魚屋三田店
参加 田沼・槇田・渡辺・下村

昨年11月の山田先生の墓参以来2回目。
槇田邸で彼の得意な中国料理披露の予定だったが、急遽槇田の勤務地の海鮮料理屋に変更となった。
 
今回の話題の中心は40代から外資系会社に勤務した田沼君である。田沼は、2年前から始めた皇居周辺の20KMマラソン(プロのコーチ付)に嵌っており、9月にはハワイのマウイ島でフルマラソンに挑戦する。また、彼は前回に増して昨今の政治・経済の貧困ぶりに悲憤慷慨頻りを露わにした。この勢いでは、選挙に打って出るのだろうかとも思った程である。
 
小生を除く3人の共通の趣味は、愛犬である。子育てを終わって夫婦だけの生活が中心となる中で、愛犬の存在は以前にも増して重要となって来ているという。特に驚いたのは、3人共に愛犬の寿命と自身の余命を重ねて考えていることだ。夫々可愛い愛犬を残しては行けない思いを切々と語った。それ程飼犬への愛情が深い。この心境は、愛犬のいない人には理解できないと思った。

最後の話題は、グルメである。一頻り話すうちに、共に、和洋を問わずかなりの食通でこだわりがあることが判明した。基本的には、下関のふぐを始めとする海鮮料理の話題が中心だったが、次回は趣向を変えて、槇田君絶賛の銀座の焼肉店で10月下旬に再会することとした。今後のグルメの会が楽しみである。

Eクラス、下村(記)

第16回一橋寮会ゴルフ

日時:平成20年4月12日(土)
場所:熊谷ゴルフクラブ
出席:A篠田、B石川、前嶋、C新名、H猪木、I檀上、羽山、L滝沢、(8名)

この会は前嶋君の幹事役で8年ほど前から、S38年〜39年頃に一橋寮に在寮した有志4名で始めた会であるが、最近では参加者も増え、2〜3組のゴルフコンペ(2回/年)として定着した。今回は第16回ゴルフ会を熊谷GCで開催した。今年は桜の開花が早く、生憎ソメイヨシノは葉桜であったが、八重桜が満開で快晴の天気にも恵まれた。

成績は大熱戦の中、羽山がベスグロ優勝(G86、N74)2位石川、3位滝沢の順となった。ベストショットは猪木の最終ホール(アウト9番370ヤード)でティーショットを240ヤード飛ばし、第2打をピン横1.5mにつけ見事バーディを奪ったホールである。還暦を過ぎてから一層若返ったとパートナーは羨望の眼差しであった。また、第1組ではイン13番で2名がバーディ、後の2名がボギーであがった。D君がオールBだとのたまうが、パートナーは何の意味か分からずポカンとし、やっと数秒後、頭文字で表現すれば全て「B」となることが分かった次第である。同伴のS君曰く、「D君と一緒に回ると疲れる。ゴルフ以外に駄洒落などを直ぐ理解しないといけないから」。同じく同伴のH君も「全く同感」。

この会はプレー終了後、20番ホールまで行くのが毎回の慣例となっている。今回は前嶋家で奥様とお弟子さんの茶席で二服いただいた後、19番はフレンチレストラン「サンタムール」でフランス料理に舌鼓を打ち、20番は駅前のお馴染みの店「花束」で自慢の喉を競い合った。最終の新幹線で熊谷から帰京したが、正に至福の一日であった。

次回の第17回は11月15日(土)に決まった。
なお、冒頭に記したような趣旨でこの会は開催していますので、一橋寮在寮経験があり会の趣旨にご賛同いただける方は、いつでも参加を歓迎いたします。幹事役の前嶋さんまでご一報下さい。

羽山(記)

S42年卒山田欽一ゼミの墓参・宴会
日時 平成19年11月20日(火)
場所 多磨霊園墓所、如水会館橋畔亭「国立」
参加者 槙田、田沼、渡辺、下村

  山田欽一先生は、1974年11月25日急逝された。今回の墓参は10数年前に一度ゼミテン一同の墓参を行って以来である。
10月13日の42年会卒業40周年記念会場で槙田君に再会時にこの墓参は決まった。
42年卒のゼミテンは全員で4人。当時流行の数理経済学の勉強の目的に山田欽一先生の下に参集した。教科書は、アレンの数理経済学の英文原書。経済学の基礎知識の勉強不足もあって、数学を多用するゼミナールの報告には悩まされたものだ。
山田先生も、数学がご専門で経済学との関連には余り言及されなかった。
何とか卒業させていただいた我々であるが、卒業以来先生と親しくお会いする機会もないまま急逝されたので、墓前に拝礼しつつ40年前の先生のお姿が彷彿とする錯覚に陥ったのも当然である。クリスチャンのご夫妻のキリスト教式の墓石の前にお線香と献花というスタイルでお参りし、ご冥福を祈った。

  如水会館での先生を偲ぶ会は、40年前の優しい先生にお世話になったことや各自の来し方の回想が話題の中心となった。
三菱重工の元常務に栄進した槙田。新日鉄の部長役だった渡辺。ジャパンラインから外資系コンサルタントに転進した田邉。三井信託で年金業務に携わった下村。と各自多彩な人生だった。仕事に厳しい外資系会社勤めの長い田沼は、終始「昨今の日本の政治の貧困と経営者の器の小ささ」を嘆いていた。大会社の経営陣の一角を占めていた槙田は、静かに田沼の話を聴きながら、『現代版「ノアの箱舟」が出現する時代が来るな』と意味深長な一言をぽつり。解説はなかった。

実務的な話はともかく、墓参の前後と宴会席で最も多かったのは健康の話題。
学生時代から三菱重工時代を通してサッカーの選手で頑健そのものの槙田だが、最近は2年おきに足に痛みが起きる。渡辺は、体脂肪率が2割弱で健康管理良好な筈だが、過度のゴルフの練習から股関節を痛めている。下村は硬式テニスのやりすぎで腰痛・膝痛持ち。田沼だけは、目下健康優良児。健康管理目的にランニングを継続しており筋肉質の精悍な体つきで皆の羨望の的だった。
瞬く間に3時間が経過後、積もる話の残りを来年5月の再会時に残して散会した。
次回は槙田邸で開催し、彼が嵌っている中国料理の腕前を披露することとなった。

Eクラス:下村(記)

荻野和仁さんを偲ぶ会

日時:平成18年8月25日(金)16時半〜19時
場所:妙法寺〜芹生(成城学園駅前)
参加者:荻野仁、山本千里、川目須美、乗附文子、C永井孝彦、F中村恒雄、G河井征治、國武胤清、H佐藤征男、中島亨、I北爪正路、K川村忠太郎、L高原正靖、早川良一、杢本光弘、以上15名

第2代学年会執行部事務局長を務められた荻野和仁君が平成12年1月18日にご逝去されてから早七年が経った。去る7月4日(火)旅行愛好会二次会の席上、ご逝去時の学年会代表・川村君から出された「偲ぶ会を」との提言を河井が受けて、第2代執行部で籍を同じくした佐藤君共々3名で呼びかけたところ、15名の方々が参集された。荻野家からはご三男の仁さん、如水会事務局から当時の事務局長・山本さん、現在も如水会に在籍している川目さん、乗附さんのお三方にご参加いただいた。

まず全員で荻野君が眠る妙法寺のお墓にお参りしたあと、成城学園駅前の「芹生」に移り「偲ぶ会」を開催した。最初に、仁さんがご持参いただいた荻野君の遺影に向かって全員で黙祷を捧げたが、彼のネクタイはラグビー部が周年記念につくった赤と黒のストライプ調のもので、高原、杢本両君も同じネクタイを着用して出席しておられ、山本さんを含め同部の結束の固さに敬服した。なお、川村君、北爪君、河井の3名は、荻野君が喜連君(E、当時三越)らと一緒に作った黄と黒のストライプ調の卒業30周年記念大会用のネクタイを当日着用した。

次いで、川村君が挨拶、佐藤君が献杯、山本さんが偲ぶ言葉をそれぞれ述べられたが、伊藤忠商事時代、卓越した語学力、交渉力を駆使し、東欧を中心に縦横に活躍した彼の姿を彷彿させるとともに、如水会事務局にあって学年会とのパイプ役としてよく機能され、学年会発展に大きく貢献された彼の功績を一同改めて再認識した。

全員での写真撮影、自由懇談のあとH組代表・中島亨君が偲ぶ言葉を述べられたのに続いて、ラグビー部仲間の高原君が「彼が最初入った陸上競技部には、専門の中距離でどうしても勝てないライバルがいるため負けず嫌いの彼は当部に移ってきた。ところがウイングとして確かに足は速いが、直進しかしないためよく相手のタックルに止められていて、緩急をつけて相手のタックルをかわすことはまず無かった」との彼の性格を象徴する秘話を披露してくれた。

最後に仁さんがご挨拶されたが、その中で「父は現在の私の職業である小学校の教師になるのが夢だった」と我々にとっては初耳のお話を披露されるとともに、謝意を述べられた。

それにしても、彼の偲ぶ会はご葬儀、四十九日の法要、一周忌、三回忌、そして今回と5回目であり、しかも7年目にしてこれだけの人を集める彼のご遺徳、類稀な個性はやはり凄い。改めて若くして逝った彼の御霊に合掌!!

記:河井征治(G)

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42年会 フィリピン旅行記

2005年12月マニラの山崎隆一郎大使を訪ねる旅が実現した。参加者は9名。今村俊一夫妻、江口洋夫妻、大塚和彦夫妻、徳永興亜、永井孝彦夫妻。大塚夫妻以外は、三年前にベトナムのハノイに山崎大使夫妻を訪ねた仲間である。

12月7日(水)成田集合。ハプニング発生。幹事の山崎信之輔君の姿がない。奥様の実家で急病人がでたために参加できなくなったという。山崎幹事は航空券を江口君に託してくれていた。無事フィリピン航空に乗り込む。マニラではマカティのシャングリラホテルにチェックイン。テロ警戒が厳重。まず大きな警察犬に荷物をチェックされる。夜はマイクロバスで大使公邸へ。ところが幹事がいないので公邸の住所がわからない。大使館に電話するも答えてくれない。地図にもでていない。日本の山崎君に電話して大体の位置を教えてもらい出発。近い場所なのに渋滞につかまり大遅刻。公邸では椰子の並ぶ庭で歓迎を受ける。公邸に入るとフィリピンの現状や問題点について資料を頂き、大使から詳しく説明をいただいた。あとは大使夫妻に大使のお嬢さんも加わり、ごちそうに舌鼓。さわやかな南国の夜を楽しんだ。

12月8日(木)観光とゴルフの二組に分かれる。観光組はもと住友商事駐在員の大塚君が案内。コレヒドール島への船の予約で一苦労。市内観光に切り替える。まずマニラホテルへ。“I shall return”を果たしたマッカーサーが投宿したことで有名。つぎは世界遺産のカトリック教会のあるスペイン要塞へ。ゴルフ組は徳永君の甥の廣瀬さんの案内でカンルーバンGCへ。ここは若王子さんの誘拐事件で有名になった所。一人に一人のキャディ嬢がついて出発。しかし4ホール目でスコールに遭遇。流れる雨水で遭難しそうになり、泣く泣く中止。夜はスペイン料理。公用で来島していた峰崎君が飛び入り参加。山崎大使も公務のパーティを終えてから駆けつけてくれた。

12月9日(金)大使の紹介状持参で、マラカニアン宮殿を見学。警備が厳しい。スペイン風の白亜の瀟洒な宮殿をくまなく案内される。庭にはプルメリアが植えられ白い花が気品をそえていた。有名なイメルダ夫人の居室も見学。若い頃のイメルダ夫人の写真がかかっている。なんとやせてスマートであったことか。名高い靴箱ものぞかせてもらう。午後は国内線でセブ島に。空港では徳永君のお兄さんが出迎えてくれた。セブ島の電機工場の経営者として25年滞在しておられるという。単身赴任の社宅にお邪魔し、セブの新鮮なマンゴやパイナップルを味わう。夜はフィリピン料理。大きなカニにむしゃぶりつく。宿泊はセブマリオット。クリスマス休暇の帰省客でにぎわっていた。

12月10日(金)早朝からゴルフ。セブCCは熱帯の花盛り、ブーゲンビレア、睡蓮、ハイビスカスが咲き乱れ、マンゴがたわわに実をつけている。キャディは男で一人に一人。みなプロ並みの腕だという。クラブはキャディが決めてくれた。午後はクルージングを楽しむ。白い新しいクルーザーに乗り組む。船員3人を含め12人。マゼランの遭難の浜を横に見ながら、隣の島に向かう。船底で水着に着替える。おじいさんとおばあさんの着替えは恥じらいもない。磯に近い海でシュノーケリングに挑戦。熱帯魚はいるもののやや深いので老眼朦朧の嫌いなきにしもあらず。残念なことに小さなクラゲがいて軽く肌を刺す。しかし我々以外だれもいない海。爽快きわまりなかった。帰路は白い航跡を見ながらの缶ビール。その夜は疲れをいやすべく焼き肉で精をつける。そして最後はカジノへ。クリスマスのイルミネーションが美しい。家族連れが実に多い。島の人は殆どがクリスチャンで12月を心待ちにしているという。4泊5日の旅、皆元気にフィリピン最後の夜、乾杯のブランディの香りは味わい深かった。

Cクラス 永井孝彦(記)
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2005利尻・礼文旅行01
2005利尻・礼文旅行02
2005利尻・礼文旅行02 
大使公邸庭にて マニラ・スペイン料理店にて
2005利尻・礼文旅行01 2005利尻・礼文旅行01
セブでの比国料理後 セブ・カントリーにて 旧マラカニアン宮殿前にて
東京湾大華火祭
8月14日(土)夜「東京湾大華火祭」が東京・晴海埠頭にて開催されました。
Aクラス江口くん(東京ガス豊洲開発社長)のご好意により晴海埠頭の対岸にある豊洲埠頭より美しい夜景をバックに綺麗な花火を鑑賞いたしました。
参加者はS42年会関係では10組25名でした。
Lクラス早川くんの撮影した写真をご覧ください。(記:高原)
報告「42年会田所執行部在京幹事懇親ゴルフ会」
42年会田所執行部在京幹事4人が、会計幹事増山くんの計らいで、12月18日、湘南カントリークラブで懇親ゴルフを楽しんだ。
田所執行部最初の仕事となった12月5日の42年会忘年会に、幹事長の檀上が出席できなかったため、その盛り上がり振りを楽しく聞かせてもらういい機会でもあった。

当日の天気は、これぞ小春日和と呼びたくなるようなすこぶるつきの快晴で、風もなく、動き回るとセーターがいらないくらいの絶好のコンディション。フェアウエーもグリーンも状態は最高。各人が手にしている最新型のウェポンも立派。一緒にまわるパートナーは気心の知れた仲良しの面々。
これ以上望むべくもない好条件の中で、なぜか4人が4人とも悪戦苦闘。
代表幹事 田所くん:
ドライバーショットが、遠くに飛ぼうとする力より、高く飛ぼうとする力が強く働いているようで、上昇志向の強さを感じさせる場面が多かった。距離的には、ドライバーショットよりもフェアウェーウッドのショットのほうが確実に飛んでいた。
事務局長 高原くん:
TVコマーシャルの「三井住友ビザカード」のテンポがうまく取ず、早打ちになってしまうとぼやくことしきり。湘南カントリーは三菱系なのだからカード名を変えればうまくいくはずとの増山くんのアドバイスが利いたのか、上がり3ホールで見事なショットを見せつけてくれた。
会計幹事 増山くん:
飛距離、方向性とも安定、加えて地主の強みもあってアウトは上々の出来。しかしパートナーのレベルに合わせた自動調整の結果か、インでは「らしからぬゴルフ」となり本人も半ば自嘲気味の態であった。
檀上:
帰国後6ヶ月で早くも元の木阿弥となったか、バンコクの地で鍛えたはずの腕前を発揮することなく「こんなはずでは」と首をかしげながらぶつくさ繰り返しているうちに18ホールを終了した。
各人がそれぞれに多くのことを感じ、学んでプレーを終えた次第である。
そこから、これも増山くんのお手配で、大船は駅前の観音食堂に場所を変えて、おいしいさかなと酒をいただきながらの反省会と相成った。
次回は「れば」「たら」抜きで堂々とスコアを開示できるようになりたいものと、上達を誓い合った。
2004年の42年会活動を盛り上げていこうと確認し合って終わった楽しい1日であった。
(文責:檀上)
昭和42年会15年度旅行-北海道
月日:平成15年9月13日(土)〜15日(月)
場所:志笏湖・丸駒温泉〜札幌市内〜上川郡・旭川市内〜富良野
参加者:A江口洋 B前嶋修身 C笹生洵也・早苗 永井孝彦・泰子 宮本皓市・由利子 D斉藤誠一郎 月崎博章 峰崎直樹・生子 森昇 E下村肇 G上田和雄 河井征治 田所保 徳永興亜 H佐藤征男 鈴木象三 I羽山章一・知恵子 J斎藤明 K川村忠太郎 佐野直紀 浜石満・優子 増山晴英 L滝沢義弘 峰崎事務所・佐藤均・石本亮三・玉木裕子、以上32名
 会員相互の懇親を深めるとともに、7月17日「峰水クラブ」が設立されたことを背景に有志により峰崎直樹議員を支援しようとの趣旨で北海旅行を実施。参加者は32名と、前回(平成10年9月)の19名を7割上回る盛況となった。

初日の9月13日(土)は、生憎台風の襲来に見舞われゴルフ会は中止したが、代りに全員で支笏湖と丸駒温泉を存分に楽しんだ。

初日夜は今回最大行事の如水会札幌支部との交流会を開催。支部からは遠藤支部長(29)、小野幹事(40)を始め18名のご参加を頂き、歓迎のご挨拶を頂いたが、当会からは新任の田所学年会代表、江口峰水クラブ代表、峰崎議員の3名がそれぞれご挨拶したあと、5組の夫婦を中心に自己紹介などにより会場を大いに沸かせた。最後に、支部の中村さん(52)がお持ち頂いた「紫紺の闇」のテープをもとに全員で斉唱したあと、二次会へ繰出したが、支部からも若い方中心に9名が参加された。

2日目以降は台風一過すばらしい晴天に恵まれ、ゴルフ組と観光組に分れて北海道の自然と温泉、味覚を存分に楽しんだあと、峰崎氏提案により来年秋、釧路カントリークラブ鶴居コース〜知床半島周遊を約して散会した。

最後に、今回大変お世話になりました札幌支部各位へ厚くお礼申し上げます。(河井記)

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