1.日程:
平成24年6月4日(月)〜13日(水)の10日間
(オプション:2〜5日のロンドン延泊組あり)
2.参加者:
小杉(A)、原(D)、杉本(E)、徳永(G)、佐藤(H)、羽山(I)、岩下、西村(L)各夫妻<計16名> *原夫妻(D)は初参加
3.行程:
今回のコースはエリザベス女王即位60周年<Diamond Jubilee>に英国中が沸く中、グレートブリテン島をスコットランド北部ハイランドからイングランド南部ロンドンまで、ジグザグに縦断する旅となった。
6/4 成田―ロンドンーインバネス (インバネス泊)
6/5 ハイランド地方 (インバネス泊)
6/6 インバネスーエジンバラ (エジンバラ泊)
6/7 エジンバラ (エジンバラ泊)
6/8 エジンバラー湖水地方 (湖水地方泊)
6/9 湖水地方 (湖水地方泊)
6/10 湖水地方―コッツウオルズ (コッツウオルズ泊)
6/11 コッツウオルズ(バイブリー)
−オックスフォードーロンドン(ロンドン泊)
6/12 ロンドン発 (機中泊)
6/13 成田着
4.旅日記
(1)1日目(6月4日<月>)・・・曇り時々晴れ
10:55成田発(BA006)ロンドンへ。今回の飛行ルートはかなり北寄りで、北極海に出てノルウエーを縦断する形で南下しロンドンに向かった。
15:10(8時間の時差あり)ロンドン・ヒースロー空港着。国内線に乗り換えるためバスでガドウイック空港に移動。19:35発BE7327にてスコットランド北部(ハイランド)のインバネスに向かう。21:15インバネス空港着、外はまだ明るく雄大な虹が我々を出迎えてくれた。
(インバネスは北緯67.5度付近にあり、カラフトよりも北、カムチャッカ半島の付け根部分に位置する。古くからハイランドの都であり人口約6万人、ネス川の河口の町。ネス湖の怪獣ネッシーのおかげで世界的に知名度が高まった。)
そこでブルーバッジの日本人女性ガイドの渥美さんと合流、彼女はインバネスから旅の最終地ロンドンまで添乗してくれた。
(ブルーバッジガイドとは;ガイドの資格としては最高峰のもので、日本を始め世界各国でプロフェショナルとして高く評価されている。スコットランドではスコットランド観光協会が母体となり、ガイドの養成・訓練コース、資格の発行を受け持つ。養成コースは2年間かけてエジンバラ大学にて開講。最終試験に合格すると、晴れてバッジが授与される仕組み。現在スコットランドには約300名がブルーバッジガイドとして登録<内日本人は15名>。)
ホテルに向かう途中の夕焼けが美しかった。スコットランドでは、夕焼けが出ると翌日は好天気、逆に朝焼けが出るとその日は雨、になると言い伝えられている。22時頃シスルホテルに到着(Thistleシスルは「あざみ」の意。あざみはスコットランド国花)。
部屋のテレビで女王即位60周年<Diamond Jubilee>を観る。
(2)2日目(6月5日<火>)・・・晴れ時々曇り
この日は一日ハイランド地方巡り。前日の夕焼けを反映して快晴の天気。
ネス湖畔やハイランドの丘陵地帯をドライブ、シャクナゲ(白〜薄ピンク色)とハリエニシダ(黄色)が一面に咲き誇る道路を専用バスで走る。
グレンコー村に着く。ここは1692年に「グレンコーの大惨劇」が起こったことで有名である。
(グレンコーの大惨劇は、1688年の名誉革命によって王位を得たオランダ出身のオレンジ公ウイリアムを支持するウイリアマイトのクラン<氏族>であるキャンベル家の兵士たちが、名誉革命によって廃位させられたジェームズ2世とスチュアート家を支持するジャコバイトのクランであるマクドナルド家の一族38名を虐殺した事件である。事件は同じハイランドのクランとしてマクドナルド家がクレンコー村に宿泊したキャンベル家の一行を暖かくもてなした晩の翌朝に起こった。300年以上も前に起こったこの事件は今も議論が続く。この大惨劇で犠牲となったマクドナルド一族の子孫の中には、虐殺はキャンベル一族とその兵士たちによる犯罪であったとして今も糾弾し続けている人々がいる。対するキャンベル一族はあの悲劇は当時のイギリス政府による命令に従ったものであり、キャンベル家の犯罪ではないと反論している。)
グレンコー村をハイキング。村の奥にある湖の周囲を散策した(約1.5Hr)。
この後グレンコーの谷の絶景ポイント「三姉妹」に向かう。三つの峰に囲まれたこの美しい渓谷は氷河により浸食されて形成されたもので、スコットランドの英雄ウイリアム・ウオレスの活躍を描いた映画「ブレイブ・ハート」の撮影が行われた。なお、グレンコーの地は大部分をナショナル・トラストが保有・保存している。
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グレンコー渓谷 |
リニー湖畔にありグレンコーへの観光拠点の町フォート・ウイリアム(オレンジ公ウイリアムが築いた砦)のホテルで昼食。
昼食後カレドニア(スコットランドの古称)運河を見学、ネプチューンの階段と呼ばれる12の水門がある。この運河は1803〜1844年にかけてT・テルフォードが建設した閘門式運河で、グレン・モアの断層谷に位置するネス湖など4つの湖を運河でつなぎ、全長97km、北海側のマレー湾と大西洋側のリニー湾を結ぶ。500トン級の船舶の航行が可能で物資の輸送に貢献したが、現在はヨットやプレジャーボートなどの観光用になっている。
その後英国で一番高いベン・ネヴィス山(標高約1380m)の写真スポットに立ち寄る。その山頂では前日の6/4夜、Diamond Jubileeの一環として松明が炊かれた(その夜は英国各地で松明が炊かれ、6/8に立ち寄るハドリアヌス・ウオールでも松明が炊かれたことをテレビが放映していた)。フォート・オーガスタでもカレドニア運河の5つの水門を見学。
ネス湖畔をドライブし、Urquhart城(アーカートと読む。アーカートはインバネス地方に勢力を持ったクラン、古くからの部族の名前)に立ち寄り(現在は廃墟となっているが、ローマ人と戦ったピクト人の砦が発祥である)、インバネスに戻る。
夕食は市内中心部のネス川沿いのレストランRiver Houseで全員で会食。
(夕食後ハプニングがあった。S夫妻とT夫妻はレストランからの帰りに出迎えのバスに乗らずに、郊外のホテルまで徒歩で帰ろうとした<約2km位>。しかし、途中で道に迷ってしまい立ち往生していたところ、英国人女性ドライバーに助けられ何とかホテルに辿り着いたとか。)
ハイランドでは標識類には必ず英語とスコットランド・ゲール語(スコットランドで話されるケルト系言語)が併記されていた。英語とは全く異なる言語であった。ゲール語は18世紀半ばにキルト、タータン、バグパイプなどと共に禁止された時期もあった。現在、スコットランドではゲール語の存続を図るため、エジンバラ大学とスカイ島でゲール語講座があるという。また、スコットランド議会では2005年から公文書にゲール語を使用することになった。
(3)3日目(6月6日<水>)・・・曇り時々小雨
シェークスピアの名作「マクベス」の舞台として有名なコーダー城に向かう。
途中、スコットランド史上に残る「カローデンの戦場」(ナショナル・トラストが保有)を車窓より見る。
(1746年4月16日、追い詰められたジャコバイト派反乱軍がグレートブリテン王国政府軍に壊滅させられた。王国政府軍の指揮官カンバーランド公は生き残りのジャコバイト軍兵士や捕虜の首を刈り、屠殺屋の異名を賜る。王国政府は反乱の再発防止のために、キルトとタータンの着用を禁じ、氏族制度(クラン)を解体して政府軍をハイランドに常駐させた。スコットランド人にとって、これは屈辱的な仕打ちに映った。)
コーダー城はハイランドで一番優美な城と称されており、堀にかかる跳ね橋からの眺めなど、絵本から飛び出てきたような美しさ。城内は手入れの行き届いた広大な庭園がある。コーダー家はスコットランドの名門貴族であり、伯爵家である。現在でも家族が城に住んでいるが、夏の間は城の一部を一般公開している。見どころはたくさんあるが、家宝の「14世紀の木」が鎮座する地下牢、塔の中にある「黄色の居間」は、特筆に値する。
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コーダー城 |
イギリスの屋根と呼ばれる丘(一帯はケアンゴームズ国立公園、英国で一番広い・・・夏に咲くヘザーの花が美しい)を通過してアヴィモア(冬季はスキーリゾート地となる)で昼食。小雨の降る中、スペイ地方に入り左右をヘザー(ヒース)が密生する荒涼たる丘陵地帯を通り、スコッチ・ウイスキー蒸留所・Dalwhinnieに到着。モルト造りーマッシュ作りー発酵―蒸留―ポットスティルー酒精溜めー熟成の各工程を案内・説明してもらった。最後に15年もののシングルモルトを数杯試飲したが、その旨かったこと、味絶品なり。スペイ地方はピートを使わない蒸留所が多く、一方アイラ島ではピート主義とのこと。
一路エジンバラに向かう。途中でエジンバラの北にあるフォース湾に架かるフォース鉄道橋を
車窓より眺める。この鉄橋は1890年に完成し、当時は世界で最も長い(2.5km)スチール製
のゲルバー橋であった。なお、橋のデザインはグラスゴー大学で学んだ日本人技術者・渡辺
嘉一が提案している(英国では世界遺産暫定リストに入っている)。
夕刻、エジンバラ新市街の中心部にあるホテルThe Georgeに到着。
(4)4日目(6月7日<木>)・・・曇り時々晴れ一時雨
エジンバラ市内巡り。
エジンバラは人口50万人、金融の町、スコットランドの首都。
エジンバラ城を中心に、中世の面影を色濃く残す旧市街と、18世紀後半から都市計画に基づいて建設された新市街が、美しく調和する。1995年に「エジンバラの旧市街と新市街」として世界遺産に登録された。
@ 旧市街
・ロイヤルマイル
エジンバラ城は優れた要塞だったが、宮殿としては、居住性が良いとは言い難かった。そこで、15世紀末、城の東側にある平原に新宮殿が建てられた。城からそのホリルード宮殿まで、王族が移動する際に使った1マイルの道は、その後、ロイヤルマイルと呼ばれるようになる。旧市街の中心を東西に延び緩やかに下るこの通りは、西からキャッスルヒル、ローンマーケット、ハイストリート、キャノンゲートの四つの通りから成り、周辺には16〜17世紀に造られた建物が連なる。
ハイストリートの南側、高く聳える優美な王冠形の塔を備えているのは、聖ジャイル大聖堂。12世紀前半にノルマン様式で建て直され、フランスの聖人である聖ジャイルの名が付けられた。当初はカトリックであったが、現在は英国国教会の聖堂となっている。
・エジンバラ城
エジンバラ城の三方はすべて切り立った崖。一方にだけ頑丈な城門が設けられている。その城門の前は広場になっていて、夏の間の三週間、ここはエジンバラ・フェスティバル最大のイベント、「ミリタリー・タトウー」(軍楽隊のパレード)の会場となる。衛兵のそばをすり抜け、小さな橋を渡ると最初の城門。その城門のわきの壁には左右一体ずつ、スコットランド独立の英雄、
ロバーツ・ザ・ブルース王とウイリアム・ウオレスの像が祀ってある。
堅牢な城壁の中、様々な時代の建物が密集する。最も古い建物は12世紀に建造された聖マーガレット礼拝堂である。
(城を王宮として使用した最初の王、マルカム3世の妃マーガレットは、イングランドのサクソン王の孫。信仰心が極めて篤く、スコットランドにローマ・カトリックを導入し、各地の教会活動に献身的に奉仕した。その功績から死後150年以上経ってから聖者に列せられ、聖マーガレットと呼ばれるようになる。彼女に捧げられたノルマン・ロマネスク様式の礼拝堂の内部は、マーガレットの姿を描いたステンドグラスが美しい。)
ひと際高い塔を備えた建物は、王家の住居であった宮殿。ここには、16世紀に女王として数奇な運命を辿ったメアリ・スチュアートが、後のイングランド王ジェームズ1世(スコットランド王としてはジェームズ6世)を生んだ小さな部屋が残されている。また、スコットランドの王冠や1996年に700年ぶりにイギリス政府から返還された、歴代スコットランド王の戴冠の座である「Stone of Sconeスクーンの石(Stone of Destiny運命の石とも呼ばれる)」なども展示されている。
・ホリルード宮殿
ロイヤルマイルの東端に位置するホリルード宮殿は、もとは1128年に造られた聖アウグスティヌス修道会の聖堂であった。1498年に国王ジェームズ4世が聖堂の来客用施設を公式の宮殿として改築するが、16世紀中頃にイングランド軍の焼打ちに遭い、その後、宮殿だけが再建された。1566年3月9日、スコットランド女王メアリー・スチュアートが重用し、寵愛するイタリア人秘書ダヴィッド・リッチオが、宮殿内でメアリーの夫、ダーリン卿の陰謀により殺害される事件が起こった(リッチオ惨殺事件)。北ウイングの一室が、その殺害現場だとされている。現在ここは見学ができるが、古い木の床にはかすかにリッチオの血痕が残り、その傍らの腰板にそれを記した真鍮板が埋め込まれている。
宮殿は17世紀半ばにも再度イングランド軍により破壊されたが、1671年、国王チャールズ2世の命を受けた建築家ウイリアム・ブルースの手で見事に再建され、現在に至っている。
そして今も、英国のエリザベス女王がスコットランドを訪問した際には、この建物が公式の宮殿として使用されているのである。
宮殿は華麗な装飾が施されており、なかでもグレート・ギャラリーにある、(チャールズ2世がオランダ人画家に描かせた)89人の歴代スコットランド王(内1人のみ女性でメアリー女王)の肖像画は圧巻。
なお、宮殿北側に廃墟となった修道院(宮殿よりもその歴史は古く、12世紀にディビット1世によって建てられた由緒正しい修道院)が保存されているが、メンデルスゾーンが訪れその姿に感動して、交響曲「スコットランド」を作曲したことでも知られる。
A 新市街
1707年、イングランドとスコットランドは合併され、18世紀半ばには漸く平和な時代が訪れた。エジンバラの人口も増加し、新しい街づくりが求められるようになった。旧市街は既に過密状態なので、エジンバラ城に北側の湖を一部埋め立て、新しい土地を造成。
1767年、エジンバラ市は新市街の建設計画案を公募した。選ばれたのは23歳の無名の建築家、
ジェームズ・クレイグのプランだった。クレイグの計画は、まず起伏のある土地を地ならし
して平らにし、馬車時代の到来に備えて、道路の幅を広く取るというもの。また、建物(高さ3Fで統一、砂岩使用)と道路を碁盤の目のように整然と配置し、その間に方形や円形の広場を配して、街並みにそれまでにない広がりと優雅さを与えようとした。新市街のメインストリートをジョージ・ストリートと名付け、その道の交差点に銅像を立てた。エジンバラ城や旧市街の建物を後景として立つ銅像は、街の景観を一層印象的なものにした。
その後、建築家ロバート・アダムが計画を引き継ぎ、1791年には新市街で最も美しいとされるシャーロット広場(現在ナショナル・トラストが保有)を完成させた。広場の周囲を統一感のある建物が取り囲み、落ち着きと気品を醸し出す街並みは、大きな注目を集めた。これらの建物には貴族や資産家が住み、景観を考えて洗濯物も部屋の中に干すことが義務付けられた。
また、19世紀になると、古代ギリシャの建築様式が人気を呼び、プリンシズ通りにスコットランド王立アカデミーが建てられ、東側のカールトン・ヒルには神殿風のナショナル・モニュメントが造られた。このことから,この街は「北国のアテネ」とも呼ばれている。
午後からは自由行動。各自アフターヌーン・ティ、ショッピング、美術館・博物館巡りやディナーを楽しんだ。
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カールトンヒルから望むエジンバラ城 |
最後に、スコットランドを代表する人物と言えば、<スコットランドの国民詩人>ロバート・バーンズであろう。この詩人の生誕を祝う<バーンズ・ナイト>という行事が、死後200年以上経った現在でも盛んに行なわれている。バーンズ・ナイトは、詩人の誕生日の1月25日前後に行われる。スコットランド国内にとどまらず世界中どこにいても、スコットランド人がいるところでは人々が集まって、この特別な行事が催される。その時に最後に全員で合唱するのが、「Auld Lang Syne」(遠き昔)と題された古いスコットランド民謡で、作詞はもちろんロバート・バーンズである。
昔馴染みの忘らるべきや、
心に思い起こさずに。
昔馴染みの忘らるべきや、
また遠き昔のことの。
いざ遠き昔のために、君よ、
いざ遠き昔のために、
我等友愛の杯とらん、
いざ遠き昔のために。
実はこれが「蛍の光」の原曲である。明治初年に井沢修二のよって紹介され、「小学唱歌集」の中に採り入れられた。「蛍の光、窓の雪・・・」の歌詞を考えたのは国文学者の稲垣千頴である。
(5)5日目(6月8日<金>)・・・曇り時々晴れ一時小雨
湖水地方に向けて出発。途中各自車内でBoxランチをとる。
スコティッシュ・ボーダーズ地方(大陸がくっ付いたところ、太古の時代にはスコットランドとイングランドは別々の大陸であった)を経由してBirdoswald Roman Fortで世界遺産「ハドリアヌスの長城」(1987年登録)を見学した。
AD43年、グレートブリテン島はローマ帝国に侵入され、イングランドはその属州となった。
だが版図を拡げたものの、ローマ軍は戦闘的なケルト民族系のピクト人の襲撃に悩まされていた。
122年頃、ローマ皇帝ハドリアヌスはイングランドを視察し、ピクト人の南下を防ぐため防壁の建設を命じた。約2年後イングランド北部の西海岸ボウネスから、東海岸のニューカースル・アポン・タインまでを横断する全長約120kmの防壁がほぼ完成し、皇帝の名をとって「ハドリアヌスの長城」と命名された。当初は土塁と木柵で構築されたが、2世紀末に石積みの防壁に改築された。長城には二つの見張り塔を持つ小さな砦が1ローマ・マイル(約1482m)ごとに造られ、兵士が20人ずつ配置された。これとは別に合計17の要塞も築かれ、各分隊の兵舎、病院、穀物倉庫、浴場などが設けられた。長城の守りについたのは、南仏などの属州から徴募された約1万人の予備役兵士だった。
長城に並行する軍用道路沿いには、店舗や宿舎などが立ち並ぶ街が形成され、平時には兵士たちで賑わった。しかし、4世紀後半、帝国の衰退と共にローマ軍は撤退。残された長城は17世紀初頭まで、スコットランド人の侵入を防ぐ防壁として利用された。
なお、同じくローマ帝国が築いた防壁として、2005年と'08年に、ドイツとスコットランドの2ヵ所の遺跡が追加登録された(現在の世界遺産名称は「ローマ帝国の境界線」)。
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ハドリアヌスの長城 |
長城見学の後、湖水地方に向かう。湖水地方には大小30以上の湖があるが、ハイランド地方と同様に氷河の浸食により形成されたもの。因みに、スコットランド及び北イングランドの水は水源がいずれも氷河により形成された湖であり、軟水で旨い。
湖水地方はナショナルトラスト運動の発祥の地でもある。産業革命の荒波からこの美しい土地を守ろうとして、当初はハードウイック・ローズリー牧師以下わずか3人でスタート、またジョン・ラスキンもナショナル・トラストの歴史に大きな影響を与えた人物である。現在、湖水地方の大部分はナショナル・トラストの保有であり、全体が国立公園となっている。
ウイリアム・ワーズワースゆかりの地、グラスミアに到着。ワーズワースと妻メアリー、妹のドロシーが眠る墓地があるオズワルド教会を訪ねたり、セイラ・ネルソンのジンジャーブレッド
を求めたりしながら、グラスミアの町を暫し散策。
かつて輝かしかりしもの、今や我が視界より永久に消え失せたりとも、
何物も昔を呼び戻せはしない。
草原の輝き、花の栄光、
ふたたびそれは還らずとも、嘆くなかれ、
その残されたものの奥に、秘めたる力を見出すべし。
(映画「草原の輝き」より。「幼少時の回想から受ける霊魂不滅の啓示」)
小雨の中、当初予定していたハイキングコース(コフィン・パスCoffin棺桶の意、「ワーズワースの小道」とも呼ばれる)を取り止め、グラスミア湖を眼下に望みながらダヴ・コテージ(ワーズワースが最初に住んだ家、8年半の間に自伝的長詩「プレリュード」を始めとする代表作のほとんどが、ここで書かれている)から舗装された道路を約40分間、ライダル湖が見える所まで歩く。
その後、ウインダミア湖北岸の町、アンブルサイドからウインダミア湖の遊覧船に乗り南下、
湖水地方の中心リゾート地、ボウネスまで移動。
ウインダミア湖は湖水地方最大の湖として知られるが、東西の幅が平均2kmなのに対し、北のアンブルサイドから南のレイクサイドまでは17km、氷河時代にできた湖独特の細長い形をしている。ボウネスはこのウインダミア湖畔沿いにあり、湖水地方で最も観光客が多い町として知られている。
夕刻、ウインダミア湖が眼下に見下ろせる絶景ポイントのある庭園を有する、ザ・ベルスフィールド・ホテルに到着。このホテルもそうであるが、湖水地方のホテルやレストランは、ほとんどが元は富裕層の別荘や居宅であった。
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ウインダミア湖 |
(6)6日目(6月9日<土>)・・・曇り時々晴れ一時小雨
本日のハイキングの最初は古代遺跡「キャッスルリッグ・ストーン・サークル」まで足を延ばした。ここは、英国南部にある世界遺産「ストーン・ヘンジ」に代表されるストーン・サークル(環状列石)の一つだ。BC3000〜2000年頃に作られたものと言われ、大きさは直径約30m、巨石の数は34個。1882年の発掘調査でも、この巨石群がどういう目的で作られたのかは不明だったそうだが、やはりストーン・ヘンジなどと同じように古代人が宗教的な目的で造ったのではないかと考えられている。
ダーウエント湖周辺の約4.8km(2時間)のフットパスを歩く(昨日から英国人山岳ガイド
<ブルーバッジ、オックスフォード大卒>が同行)。湖畔の町ケズウイックに到着。北湖水地方の観光拠点である。ケズウイックのKESはチーズを意味し、WICは農場を意味する。1276年
エドワード1世から羊毛取引のマーケットとしての許可を受け、1500年頃には、周辺の町や村をリードする羊毛と革製品産業の中心的なマーケットタウンだった。その後16世紀に、ダーウエント湖畔の南に位置するボロデールで黒鉛が発見されたことで、18世紀の終り頃まで黒鉛採掘業が盛んとなり、この黒鉛を使った鉛筆産業が町の一大産業になる。アメリカやヨーロッパはもちろん日本などの極東にまで進出していたという。とは言え、その名残は少なく、今は「カンバーランド鉛筆博物館」を所有する工場が1軒残っているだけである。
ケズウイックで昼食(ます料理)を取った後、土曜市の立つ大通りを歩きダーウエント湖畔に到
着。暫し湖畔を散策(ダーウエント湖は「湖の女王」とその美しさを讃えられている)。
その後、サルミア湖を経由してホークスヘッドに向かう。ここはビアトリクス・ポターの絵本のモデルになった可愛い村である。この村の建物は漆喰の白壁の家ばかりであり、近くのアンブルサイドやグラスミアの家が、湖水地方独特の石積みのスレート造りなのとは異なっている。というのもここは中世には羊毛産業で栄えたマーケットタウンであったからである。
ポターの絵本でも使われたホークスヘッドの特徴ともいえる風景は、村の中心にあるアーチウエイと呼ばれる不思議な道と建物だろう。アーチウエイとは、2軒の家の2階部分を、道の上に建物を造るのこと連結させた家の造りのことである。ホークスヘッドが舞台となっている「まちねずみジョニーのおはなし」では、町から田舎に野菜かごが戻ってくるシーンで、このアーチウエイが背景に使われている。また、「ひげのサムエルのおはなし」や「パイがふたつあったおはなし」にも、このアーチウエイが登場する。
村の中心の広場の一つ、レッド・ライオン・スクエアには「ビアトリクス・ポター・ギャラリー」がある。このギャラリーは、ポターの夫ウイリアム・ヒーリスの弁護士事務所だった建物である。
ギャラリーの2階には、ポター直筆の絵本の原画やスケッチブック、水彩画が展示されている。この原画は「ピーターラビットのおはなし」の貴重な原画である。展示している原画は、毎年入れ替えている。1階に下りると、ウイリアムの事務所がそのまま残っている。タイプライターや電話、本棚などが置かれ、ポターやウイリアムの写真が飾られている。
ギャラリーを出たはす向かいには「ナショナル・トラスト・ショップ」もあり、ここには、ナショナル・トラストのオリジナル品がたくさん販売されている。ねらい目はビアトリクス・ポターの原画のコピーと関係書籍だ。
さらにレッド・ライオン・スクエアの先にある「ワーズワース通り」と呼ばれる小道へ進むと、道沿いに「ANN TYSONS HOUSE」と呼ばれるB&Bがある。ここは、かつてワーズワースと兄のリチャードが一緒に下宿していた家で、彼らはここに1783年までの約4年間住み、下宿のおばさんであったであったタイソン夫人にとても可愛がれたそうだ。後にワーズワースは、代表作「プレリュード」の中で、タイソン夫人のことを「my old Dame」と呼び、田舎のおばさんである夫人を公爵夫人の敬称Dameを使って歌いながら、懐かしく思い出している。
村の入口にはワーズワースが通っていた「ホークスヘッド・グラマー・スクール」がある。この学校は、1585年の創立された伝統ある学校で、ワーズワースはここに約9年間(1779年〜1787年)通学していた。当時のホークスヘッドは隆盛だった羊毛産業が衰退しかけており、村を活性化させようと、優秀な生徒を育てる目的で学校を設立することを計画し、両家の男の子たちを集めた。
ワーズワースはここで学んだ後、ケンブリッジ大学へ進学したことを考えると、この学校は質の高い少数精鋭教育をしていたようだ。しかし、1909年、新しい時代の教育とはそぐわないという理由で閉鎖された。
この頃のグラマーとはラテン語のグラマーを意味し、ラテン語を学ぶということは、当時の紳士のたしなみだった。学校はごく小規模で(約100人)、1階には教室がそのまま残っている。
その後、オプショナル・コースで有志11名がバスでヒル・トップに移動し、ポターが1905年に購入した農場を見学(この農場はベストセラーとなった処女作「ピーターラビットのおはなし」の印税などで購入したもの)。ヒルトップからフェリー桟橋までハイキングを行ない、フェリーで対岸にあるホテルに帰着した。
ポターは1943年、77歳で亡くなったが、死後彼女の遺言により(夫の死後という但し書き付きで)4300エーカーの土地と15の農場、そして多数のコテージが、自然保護の目的でナショナル・トラストに寄贈された。今日湖水地方の美しい自然と景観が100年前と同じ姿で奇跡のように残っているのは、ポターが未来の私達のために贈ってくれた遺産のおかげである。
余談になるが、ハイキングに参加しなかった者はバスで直接ホテルに戻ったが、途中アンブルサイドの町を通過する時、対向した回送中のバスの表示には「Sorry. I!m not in service」と書かれていた。いかにもイギリス的(いやイングランド的か?)ではないか!
(7)7日目(6月10日<日>)・・・晴れのち曇り一時小雨
北部イングランド・湖水地方から高速道路を走り、一路中部イングランド・コッツウオルズに向かう。途中、ストウ・オン・ザ・ウオルド(11〜12世紀には羊毛取引が盛んでコッツウオルズ地方で最も栄えた町の一つ)で昼食。
コッツウオルズ地方は15〜16世紀には羊毛産業の中心地として大いに栄えたが、その後の産業革命の波に乗り遅れ過疎化した(エネルギー源、石炭がなかった)。しかし結果としてイングランドで最も美しいといわれる 田園風景「田舎」が残った。ラファエル前派などの画家たちが移り住すんだり、ウイリアム・モリスの紹介などにより有名になり、今日ではここに家を構えてロンドンなどの大都会に通勤したり、富裕層はここに広い家を購入して週末をゆっくり過ごす憧れの地になっているようだ(その影響か現地で聞いた不動産価格は驚く程高かった)。
またこの地方で採れる石灰岩、Limestoneが町並みを彩っている。北東部ではハチミツ色をしたこのライムストーは、中部では黄金色になり、さらに南西に下ると真珠のような柔らかい白色へと変化していく。飲料水も石灰岩が多いので、硬水であるが旨い。
(本日から2日間、別のブルーバッジ・現地ガイドがハイキングに同行した。)昼食後、スローター村をハイキング。アッパー・スローターからロウアー・スローターを目指しフットパスを歩く。
フットパスには途中(牧場の境界)に必ずゲートがある。1981年に故ダイアナ妃とチャールズ皇太子がここを通過した時、キスを交わしたと言われるKissing Gateがあった。各夫妻そこで記念の写真を撮る。また各村には1軒マナーハウスと呼ばれる広大な敷地を有する館がある(ノルマン時代の封建領主の館が起源)。敷地には川が流れ、庭には青々とした芝生が敷かれ,静けさに包まれたおり、現在はほとんどがホテルとなっている。
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ロウアー・スローター村でのハイキング |
ハイキングの後、「コッツウオルズのベネチア」と呼ばれるボートン・オン・ザ・ウオーターに立ち寄り、暫し散策。
チッピング・カムデンの町並みを車窓より眺め、郊外のミケルトン村にあるホテルThree Ways House に到着した。このホテルはイギリスの伝統的なデザート「プディング」の復権を願い、プディング・クラブを立ち上げ、今や100軒が加盟する組織の中心的存在となっている。この夜は2回目の全員での会食。メイン・ディッシュも美味であったが、デザートのプディングは、日本で食べるのとは全く違う代物でフレンチ・トーストの同類かとも見まがうものであった。しかし食べてみるとシンプルな素材ながら美味しく仕上がっており、伝統のデザートに感服!
また、ホテルの部屋は小振りながら各部屋の内装を部屋ごとに変えており、細かいところにまで工夫を凝らした素晴らしいホテルであった。こんな田舎にこんなホテルがあるのか!という印象を強く持った。
(8)8日目(6月11日<月>)・・・雨
バイブリー村に向かう。この村はウイリアム・モリスが「イングランドで一番美しい村」と絶賛したことで一躍有名になる。雨の中、傘をさしながらのハイキングとなったが、コリン川沿いにあるトラウト・ファーム、アーリントン・ローや聖メアリー教会を見学したり、広大なマナーハウスの庭を散策したりした。
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バイブリーの蜂蜜色の家並み |
昼食後、オックスフォードに向かう。オックスフォード大学は13世紀に創立され、38のカレッジと6つのホールと呼ばれる学校で構成する大学である。英国で最も古い歴史を持つ。学生数は約2万人で1970年代に男女共学となった。学生はカレッジかホールの一つに所属し、他のカレッジやホールの講義はどれでも聴講できる。そして必要単位が取れればオックスフォード大学の卒業・学位が授与されるという仕組み。
英国の大学は全て国立であるが、イングランドは大学の授業料が有料(数十万円/年)であるのに対し、スコットランドは無料である。また、イングランドの人がスコットランドの大学に入学した場合には有料になるが、一方でEUの人が入学した場合には無料となるそうだ。ここにも歴史的、文化的に大変複雑な両国(敢えて国と言おう!)の関係が垣間見れるではないか。
最初に一番有名なクライスト・チャーチ校を見学した。1546年、ヘンリー8世が学寮と礼拝堂を合わせた教育機関として新たに組織したためこの名称があるという。大聖堂とカレッジを合わせ持ち、大聖堂のステンドグラスが美しい。カンタベリー大司教トーマス・ベケットの殺害場面が描かれたステンドグラスは卿の顔の部分が塗りつぶされていた。表の塔はトム・タワー。イングランドで一番大きな鐘、グレート・トムを収容していて毎晩21時5分に101回鐘が鳴り出す。
チャーチ内のグレート・ホール。カレッジの学生は今でもここで食事を摂る。このホールの壁面にはクライスト・チャーチに関係する著名人(ヘンリー8世が大きかった)の素晴らしい肖像画が飾られている。まるで中世さながらの食堂である。映画「ハリー・ポッター」に出てくる魔法学校の食堂のモデルにもなった。
「不思議の国のアリス」の著者、ルイス・キャロルはクライスト・チャーチの数学教師をしていた。アリスのモデルはクライスト・チャーチのの学長のお嬢さんであった。グレート・ホールのステンドグラスには「アリスとうさぎ」をモチーフにしたものがある。
オックスフォードの街中にアリスショップがある。日本人の女の子はアリス好きでこの店のお客さんはほとんど日本人だそうだ。
聖母マリア教会を見学。教会の中で現存する最古の建物は、1280年に建てられた塔。礼拝堂の内部は荘厳たる雰囲気が漂っていた。
最古の常設大学(1264年設立)であるマートン・カレッジ(浩宮皇太子殿下が留学した)の前を通りながら、荘厳なカレッジや図書館などの建物が立ち並ぶオックスフォードの街中を散策し
ショッピングも楽しんだ。
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クライスト・チャーチのグレート・ホール |
夕刻最後の宿泊地、ロンドンに向かい、ハイド・パークに面したLondon Hilton on Park laneに到着。旅装を解き、各夫妻でソーホーの中華街やピカデリー通りのレストランでディナーを楽しんだ。
(9)9日目(6月12日<火>・・・小雨後曇り
延泊をしない3名が、出迎えのバスに乗り込みヒースロー空港に向かう。わずか3名に対して何と大型バスが迎えにきた。これも英国らしいご愛嬌か。このおかげでロンドン在住十数年の
日本人女性ガイドから、ロンドンや皇室事情についてたっぷり聞くことができた。
13:30発BA005にて成田へ。
(10)10日目(6月13日<水>
定刻通り9:05成田着。
5. あとがき
(1) 連合王国の実態が文字通り体験的に実感できた。特にイングランドとスコットランドは1000年近くの抗争の歴史があり、異なる国と感じた。スコットランド政府はほぼ国としての機能を持ち、外交、安全保障と英国予算以外の事項は独自に決定・執行している。近い将来に独立する可能性も十分にあるが、両者の間に紛争が起こっている訳ではない。そういった意味では大人の関係か。
(2) 例を挙げれば、ポンド紙幣をイングランド銀行と三つのスコットランド銀行が発行しているが、スコットランド銀行が刷っている紙幣には、エリザベス女王の肖像がない。
スポーツの面でもイギリス旅行中にサッカーのユーロ選手権が行われていた。スコットランド人は、決勝リーグに残ったイングランドがユーロの他の国と対戦する時は、相手国を応援していた。また、52年ぶりのロンドンオリンピックではサッカー代表は(大いに揉めた末に)統一チームGBとして出場するが、大半がイングランドの選手であり一部がウエールズの選手、スコットランドと北アイルランドの選手は一人も出場しない。
(3) さすが大英帝国、と感じたのが、どんな田舎に行っても道路わきの雑草は綺麗に刈り取られ
ており、ゴミ一つ落ちていない。トイレも大変清潔で設備も整っている。また、田舎のホテルが素晴らしい。領主の館(マナーハウス)や金持ちの邸宅、別荘などをホテルとしているだけに、広い庭園、建物、内部の応接室、バー、家具や内装などが荘重で歴史と文化をたっぷりと感じさせてくれる。
(4) 最後に、英国人の洗練されたPolitenessが心に響く旅物語でもあった。
以上
羽山記
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